鳥取木鶏会 8月例会 徳永圀典編

気力

 気力とは、身心一貫した生命力であります。事に当りますと、非常に粘り強い、忍耐力・実行力に富んだ人があります。こういうものは潜在エネルギーの問題でありまして、真の創造力です。この気力・生命力が養われておりませんと、事に耐えません。いくら思想や教養がありましても、単なる観念や感傷・気分、そういったものになってしまいまして、とかく人生の傍観主義・逃避主義者・妥協主義者といったような意気地のないものになってしまう他ありません。そもそも気力というものは、その人の人生を実現しようとする絶対者の創造的活動であります。 朝の論語

人間を作る

人間というものは、どういう心がけならどういう結果になり、とう

いう原因を作ればどういう悪果・美果が生ずるのか?禍福(かふく)終始(しゅうし)と言

うことは、少し勉強すればよくわかる。これが学問だというのです。

禍に惑うたり、幸せに有頂天になったというようなことをしない。

禍福終始を知って惑わぬ。即ち人生というものを確立する。これが

学問の本義だ。だから、どうしても学問をしなければ自分もわから

ぬ、人もわからぬ、人生は、なおわからぬ。学問することは単なる

「知識を獲得すること」だと思っては大間違いだ。「人間を作る」と

いうことである。               知命と立命

人間の真価

 真に人間の真価を表わすものは、その人がどういう地位にあるとか、どれほどの財産を持っているとか、どんな名誉職にあるとか、あるいは又かって国会議員をやったとか、大きな会社の重役であったとか、何か大きな事業をなしたとか、というようなことではない。ただその人がどういう人間であるかと言うことであります。偉大な人物とは誠の人であります。偉人とか、英雄とか言われるような異常な人ではなく、ただ誠の人であります。自然の権化と申しますか、自然が造った人物のことであって、真実の段階をふんでおります。

                        先哲講座

私淑する人物を持て

 人間はできるだけ早い中に、できるだけ若いあひだに、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たないと、理想像を持たない、私淑するような人物を持たないのと、持つことでは大きな違いです。なるべく若い時期にこの理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、例え途中いかなる悲運に再会しても、たとえ途中いかなる困難に出会っても、かならず偉大な救いの力となる。ことに不遇の時に、失意のときに、失敗のときに、この功徳が大きいものです。              青年の大成

ひとがの人物

 斡旋とはどこからくるのかと言うと、これは矢張り情からくる、仁からくる、慈悲・愛情からくるのです。人を愛するがゆえに、その人のために良かれかしと、色々世話をする、面倒をみる。事を愛するからして、その事のために何くれと取り計らう、それを斡旋と言う、人間が利己的であると、この斡旋が出来ない。少々頭が悪くても、不細工でも、その志、誠、愛情、徳というものがあれば、斡旋はできる。斡旋ということがなければ人間世界は動かない。その斡旋の才能がある人、この要素を備えた人はたしかにひとかどま人物と言ってよい。        東洋人物学

無限の創造

 運命とは無限の創造であり進化である。「造化」である。だから真の 命とは宿命観ではなく、立命観、即ち命には義命、意義がある。「立命観」でなければらない。運命の義を知って、運命をrecreate(再創造)していくことで、これを知らないで、必然的・機械的に縛られる宿命観にとどまるべきでない。 酔古堂剣掃

苦楽を分かつ

 苦楽を分かち合えるぐらい嬉しいものはない。これが本当に親しいこと。艱負(かんふ)に処しては自ら親しい者が集まる。だから、艱難に当っては自ら悩みを同じゅうする者が集まって一家で言うならぱ、貧苦の中に美しい家族生活を営むというのが家人であります。だから恋愛から結婚して種々と人生苦難を経て、家人というものの情愛が深くなる。   易学のしおり

 窮すれば通ず

 日本は底知れぬ堕落をした。しかし「窮すれば通ず」の理で、精神さえしっかりすれば、必ず運命は開けるのです。すべては立志と、人物の如何です。今までのような精神性のない、低級な享楽的・功利的()(みん)ではもう何も出来ません。日本の政治・経済・教育等々、今は生死(しょうじ)関頭(かんとう)に立つと言ってもよいので、これを救う道は唯一つ、慨然として精神的に立ち上がる指導者たちの輩出です。身を挺して修養努力する先覚者・指導者を一人でも多く出す以外に救いはない。

                運命を創る