河井継之助の陽明学実践 その一

河井は山田方谷に学んでいる。河井、1827-1868、新潟長岡藩士、佐久間象山、古賀茶渓、山田方谷らに学んだ。長岡藩改革に尽力、再建を果たす。戊辰戦争で藩の中立を説き、新政府軍に拒否されて交戦。長岡城奪還戦で負傷が元で会津への途中で死す。

幕府の儒官・古賀茶渓の門下、古賀は外交に精通した人物、新時代に兵器・船舶・交易が必要と説いていた。佐久間象山門下では理論や理屈よりも現実を変革せんとする人物を求めた。それ故に佐久間の門下を離れ山田方谷を備中に訪ねて教えを求めた。「天下の英雄は方谷先生に及ぶなし」と、自己を無にして犯社会の為に献身する方谷を称えた。

江戸と諸国の遊学を終えて帰国した河井は、町奉行、郡奉行で辣腕を振るった。藩の行政改革に乗り出し、風紀の矯正、財政再建、禄高改正、組織効率化、役人の不正を正すなど見事に藩財政を健全化した。