鳥取木鶏研究会 8月例会 平成2084 

(すう)

この命の中に存する理法、真理、これを「(すう)」と言います。(かず)もその一つでありますが、全部をつくすものではありません。これは前回も申し上げました。

(すう)とは(めい)の中にあるところの複雑微妙な因果関係を言いまして、その理法が数理であります。これが生命の命と結べば命数(めいすう)でありますが、70まで生きたとか50で死んだとかいうような単なる数ではなく、もっと深い意義をもっております。 

そこで易とは(めい)の中に含まれておる深い理法、因果関係を明らかにして、宿命に陥ることなく、常に創造的、クリエーティブにする、これを「立命(りつめい)」と申しまして易の学問は、宿命より立命に向かう、或いは入っていく学問であるということが出来ます。

東洋の学問をやると、日本人も中国人も結局は易に入ると申しましたが、これが中々独学では難しい。最初の踏み込み方、つまり易の習い始めが一番大切であります。 

最初が肝腎の易

入門の時に一番正しい、本当に親切な道を選ばなくてはなりません。易学入門の序論、序説というものが大変大事であります。そういうわけで、若い時にはそれ程に思いませんが、中年以降になると次第に宿命ということを感ずるようになり、自分の存在、生命、あるいは事業等に対して懐疑を持つようになる。或いは抵抗を感ずるようになります。

淮南子(えなんじ)という書物に、?(きょ)(はく)(ぎょく)五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す、という有名な言葉があります。?(きょ)(はく)(ぎょく)というのは、衛の国の有名な賢者でありまして、行年五十にして、−昔の人の五十というのは、今日でいうなら七十ぐらいになりましょう。

四十九年の非を知るー五十という人生の終点に到達して、それまでの四十九年が皆いけなかったと悟った、という意味です。これは深刻な話であります。 

六十にして六十化す

皆さんが定年を迎えられて、これでやめなければならない時に、省みて全部駄目だったと自己を否定しなければならぬということでありますと大変なことです。処が、この?(きょ)(はく)(ぎょく)については、そのあとに非常に好いことが伝えられております。

それは、六十にして六十化す、ということです。即ち今までの生活が全部駄目だったということを知って、それから自己改造をやり、六十になっても六十になっただけの変化をした、という非常に名高い言葉であります。 

化していく

宇宙、自然は常に進化してやみません。人間も宇宙、自然の一部分でありますから、その本質は絶えず進化しなければなりません。停滞は許されません。生ける限り化していく、これが東洋哲学の一つの深遠な思想、信条であります。

嘗て引用したと思いますが、日本人は非常に海老を珍重し、おめでたいときによく使います。その理由を尋ねますと、大抵の人は、俗説に従って、夫婦が腰の曲がる年になるまで添い遂げるようにと、特に婚礼などに海老を使うのだと言います。

 

処が学者の研究によりますと、海老は生きておる限り殻を脱ぐ。殻の中で固まってしまわない。言い換えれば常に新鮮ということであります。これが本当の意味だそうであります。人間も若い間は色々理屈を持ったり情熱を沸かしたりして溌剌としておりますが、次第に浮世の苦労を積んでゆくうちに、即ち中年頃から固まりだして意外に早く進歩が止まって変化しなくなります。

それではいけませんので、常に殻を脱いで新鮮で、悪固まりしないようにしなければなりません。こういう意味で海老を珍重するのだそうでありまして、成る程これは非常に好い解説であり好い習慣であります。 

(ちゅう)

さて易の最も大事なものは陰陽相対()性原理、即ち、宇宙、人生を通ずる創造であります。つまり宇宙、人生の本質その根本原理の一つは、陰陽相対()性の理法、原理原則であります。

またこれによって無限に存在を進行させていく、これを(ちゅう)と言います。そこで中とは非常に行動的、創造的でありまして、相対しつつ相待って、無限に矛盾統一して進歩向上していく働き、これが本当の(ちゅう)であります。その相対()性原理、原則というものが陰陽であります。そして無限の進行が易であり、易学の要約であります。これが易学を全体的に把握した場合の解説、説明であります。 

「根と幹」と「枝葉」

そこで陰陽の意味を正しく理解することが根本であります。これが出来なければ易は混乱に陥ってしまいます。この陰陽と、その結果における中の理法、これが易学であると申して宜しい。

儒教に中庸(ちゅうよう)という書物がありますが、これはちょうど易の中を別の面から把握解説したものであります。更にもう一つ顕著なのは老子であります。この中庸、老子、易というものは一連のもので、皆相待って東洋哲学の大事な中核をなしております。 

人間も陰陽によって出来ております。女は陰性であり男は陽性であります。この造化の働きの中で一番分かりやすい具体的な例は植物であります。草木を生み育てていく創造自体は何かと申しますと根であります。 

次に幹であります。これが根幹であって、枝葉が分かれ、花が咲き実がなる。そこでこれを陰陽で申しますと、根幹が陰の代表であり、枝葉と花実は陽の代表であります。 

女は造化のまま

この陰陽が相対しつつ、相待って、始めて草木、樹木というものの存在繁栄があります。

陰とは「統一含蓄」であり、陽は「発現(はつげん)分化(ぶんか)」であります。これを統一発展せしめるものが「(ちゅう)」であります。

そこで女は相対()性原理の陰原理的なものでありますから、どちらかと言うと「根本」であります。或いは「本体」であります。従って人間の男女を比較すると大事なのは女であります。女は自然そのまま、造化のままであります。 

仁・愛・慈

女の本質を男と比べますと、これを儒教の言葉で申しますと「仁」であり、仏教の言葉で言うなら「愛」であります。
愛のうちで最も創造力、つまり生みの働きについて昔の哲学者は悲という字を与えております。それにものを育て慈しむという「慈」の字をつけて慈悲という言葉を使っております。
 

慈悲・慈母

慈悲というものが人間の一番本質的な、一番尊い心であります。この慈悲によって人間は生きておると言ってもよいと思います。

どちらかと言うと女は慈悲をもって本体としますから慈母という言葉があるわけであります。慈悲を本体とする母という意味であります。

また人間の感情の中で一番自然で、一番深刻なものは、(いつく)しむという感情です。ものを愛し育てていく心、これが慈であります。 

仏教はこの「慈悲」に立ち、儒教はこれを「仁」という言葉で表現しております。慈悲の権化(ごんげ)は女であり母であります。女の一番尊い特質は慈悲であり、慈母という言葉は本当によい言葉であります。狩野芳崖の「慈母観音」と絵は一世を風靡したといいますか、賛嘆させたものであります。 

女が根本

そこで女は、根本的であり、内省的であり、没我(ぼつが)的であります。これを抽象的に言うと、「分かれるものを結び内に蓄える」、即ち統一的含蓄が本能本領であります。 

それに対して、分化発展、発現するものが陽性であり、男性であります。この両性が相待って始めて堅実な創造活動があるわけであります。  

女性次第の民族繁栄

そういう意味で、女性教育が大変大事でありまして、これによって民族の繁栄、永遠の生命を得ることが出来ます。

徳川幕府が、世界史でも珍しい三世紀近く権力を維持することが出来た原因について、歴史家の研究によりますと、若し徳川幕府が全国を一つの統一組織として直接支配しておりましたら、百年ともたなかっただろうと言うことであります。 

.田舎侍の素朴性と女子教育

処が幕府は藩政を採用して、大小二百数十の藩を置きました。この田舎藩の侍たちが、江戸の都侍に対して立派であったから、あれだけ続きそして明治維新が行われた。これは田舎侍の素朴性が然らしめたものでありまして、この「文明と素朴」ということは歴史哲学の上からも重大な問題であります。 

それと、もう一つは女子教育です。これが非常に優れておりました。元来、武士階級は、鎌倉時代から女子教育に力を入れましたので非常に良い教育が行われておりました。特に徳川時代には、これが成功し、実に頭の下がるような女性が現れました。この二つが徳川幕府を支えた根本要素であります。易学の原則に徴しても徳川時代になっても巧く成功しておるのであります。 

その惰力で、明治時代はよかった。処が大正・昭和となりまして、こういう興亡の哲学というような点から申しましても、非常に浅薄になり、画一的機械的になりました。

そこで色んなことが乱れてきたのでありますが、一番心配なのは、女子教育でありまして、これが甚だ残念ながら当を得ていないことであります。今日のような女子教育、女性生活、その文化というものを野放しにしておきますと、日本民族は、遠からず衰退するのではないかと、英知に富む歴史家たち、歴史哲学者が心配しております。 

(たい)(きょく)

この陰陽活動の根本が太極であります。太極とは、宇宙そのもの造化そのものでありまして、この太極の作用働きが、陰陽相対()性理法であります。

そこで我々の意識、精神、心理に向けて観察いたしますと、この意欲、欲望というものは、外に向かって発するものでありますから非常に陽性であります。 

それに対し省みて、無駄なもの、危険なものを省くこと、これは陰性であります。この省の字には二つの意味がありまして、その一つは「かえりみる」、あとの一つは「はぶく」であります。かえりみ、はぶくと読まなければなりません。

―この反省と、含蓄は女性の分野本領でありますから、反省的であり内省的であり、引っ込み思案であるというのが女性らしいのであります。

これに反して、男性は陽性でありますから、欲望、活動が本領であると申して宜しい。

然し、我々の精神活動には、男女を通じて欲望という陽性と、同時に内省、反省という陰の原理が働いております。だからこの欲望と反省の調和がちょうどよくとれたのが円満な人格であります。 

解決しない問題はない

また人間の性能で申しますと、同じ意識の中に、理知と情緒と、この欲望と反省があってみな陰陽相対()であります。知能では、分析的論理的な知能は陽性であり、感情では、野心満々などいうのがやはり陽性であります。

だから論理的であり多分に表現を主とするような頭脳は、男の特徴であって陽性であります。これに反して、統一的含蓄的で、反省的な知能、或いは内省的な知能、あるいは内省的な感情は陰性であり女性的な頭脳であります。この両方がうまく調和すればよいので、このように陰陽相対()性の理法から観察いたしますと、解決しない問題はないと思います。 

.欲望・欲求

長寿を保つためにも、どうしても欲望、欲求というものをよく反省して、余計なものを省いていかなければなりません。然し、余り内省的になりますと沈鬱になり、控え目になりますから進歩が止まります。

政治で申しますと、大体民衆は、自分の欲望、自分の意思で生きております。だから人間の欲望、欲求というものを表現するのが民衆でありますから、これを放置すると、混乱、闘争に陥ってしまう恐れがあります。 

そこでよく反省して指導する必要がありまして、その役割に任ずるのが政治家、役人であります。それで昔から官庁には「省」の字がついております。

あれは、省み、省くという意味です。だから、冗官、冗費などというのは、これは役人にはとんでもない誤りでありまして、役人、役所の仕事というものは省いて、簡素でなければなりません。 

運輸省、大蔵省の「省」の字は、中国では昔から役所につけておりまして、それを日本も取り入れて大化の改新以来、官庁につけておりますが、官庁に省をつけるということは、大衆に任せておくと、複雑、混乱化する人間生活、社会生活、あるいは国家生活をよく省み、省いて、簡素化、単純化していく、これが役人の仕事でありますから、そこで省の字がついておるのであります。

だから役人が増えて事務が冗長になるなどということは、これは省ではありません。そういう意味で、文字学そのものをやっただけでも、役人、官庁などというものが如何にあるべきかという結論が引き出せるのであります。

安岡正篤先生の言葉

唯物的・高功利的に過ぎる戦後

GNPがどうのこうのと全て唯物的・高功利的な問題を中心に考える。従って、(しゅう)()治人(ちじん)の学というようなものが無くなってしまいまして、今日の世相のような当然陥るべき頽廃と行き詰まりを招いたということは、明らかに因果というものであります。処が、その混乱が昨今に至って最も酷くなり、特に政界が浅ましい程それを暴露しております。善良な国民は、ただはらはらするばかりですが、事を好む輩は、この際得たり賢しとばかり、騒ぎ立てるという傾向もありまして、大変憂慮すべき問題であります。  

徳永圀典記