日本の仏像私感
インド、中国、東南アジアの仏像
日本の仏像
夢殿観音
法隆寺 釈迦三尊 止利仏師 鞍作 渡来人作
平・鎌倉 運慶、快慶、湛慶―――慶派
国宝一家「慶派」
鎌倉時代初期、康慶、運慶、湛慶の親子三代の名人を輩出した仏師一家、慶派は、康慶の弟子快慶、定慶も含めた五人で十一件の国宝彫刻を遺している。千手観音坐像世親菩薩立像「無著菩薩坐像」、運慶作 鎌倉時代 木造彩色 高194.7米 興福寺 北円堂「増長天」、康慶作、鎌倉時代木造彩色高198興福寺南円堂「維摩居士坐像」定慶作 鎌倉時代 高87.1 興福寺 東金堂「僧形八幡神坐像」快慶作 鎌倉時代 木造彩色 高87.1 東大寺八幡殿
慶派の祖、康慶は興福寺の不空羂索観音坐像と四天王立像、法相六祖坐像を、その弟子、定慶は興福寺の維摩居士坐像と金剛力士立像を、快慶は東大寺の僧形八幡神坐像や金剛力士立像を遺した。また興福寺の弥勒仏坐像や無著菩薩・世親菩薩立像は康慶の子、運慶の作であり、興福寺、東大寺の復興に大きい貢献をしている。妙法院三十三間堂の千手観音坐像は運慶の子、湛慶の作である。
「フェノロサにより見出されるまで、白衣でぐるぐる巻きにされた秘仏であったのは何故か?」
明治時代(18884年)にフェノロサによって見出されるまで数百年の間、白衣ぐるぐる巻きの秘仏とされ、フェノロサが白布を解く時に寺僧達は悉く逃げ出したと伝えられている。この像には怨念や祟りと関係があったものと思われる。そもそも夢殿はなんの目的で作られ、救世観音はなんの目的でここに安置されたか?
通説では行信僧都が739年に聖徳太子を供養するため再建された法隆寺の横に東院伽藍(上宮王院)を建てそこに八角仏殿(夢殿)を建立したとある。
これだけでは何故その中に祟りと関連するような救世観音が祭られているか判らない。
「夢殿と救世観音は聖徳太子の祟りを鎮めるため作られた」梅原猛氏は「隠された十字架」の中でこう述べる。
法隆寺再建の年次はわからない(多分710年初め?)が夢殿は建立された年次が明確でありこれが重要なヒントである。この時代は時の大政治家であった藤原不比等の娘宮子の産んだ首(おびと)皇子が724年聖武天皇となり、不比等の4人の息子も重要な官職につき藤原全盛の世であった。ところが、737年この4人の息子が当時大流行した天然痘のため全員がほぼ同時に死んでしまったのである。これは聖徳太子の祟り(太子一族は罪なくして藤原氏に滅ばされた)以外にないということで翌々年739年夢殿を建立し太子の祟りをしずめるべく救世観音を作ったのだと梅原氏はいう。
救世観音の頭と胸に釘が打ち込まれている。頭の後ろの光背は通常は背中から支えるのが普通だが、救世観音はなんと頭に直接釘で打ち込まれている。
頭に釘が打ち込まれている仏像など聞いたことがない。絶句!
この仏像は脱活乾湿像だが胸の部分の十字の木組みの真ん中にも釘が打ち付けられているという。
南都六宗
奈良時代、平城京を中心に栄えた仏教の6つの宗派の総称。奈良仏教とも言う。
倶舎宗 (くしゃしゅう、説一切有部)
--- 法相宗の付宗(寓宗)
三論宗 (さんろんしゅう、中論・十二門論・百論) --- 華厳宗や真言宗に影響を与えた
成実宗 (じょうじつしゅう、成実論)
--- 三論宗の付宗(寓宗)
南都六宗自体は、宗派というより互いに教義を学び合う学派の役割が強く、東大寺を中心に興隆し教学を学び合った。中世に入り、凝然、良遍や叡尊らにより、鎌倉仏教の展開に大きく寄与した。