大自然に恣意はない  徳永圀典

 

本誌145号寄稿「命の旅」に表題を使用したら某氏から説明を求められた。元々は私の宗教上の探求から辿りついた言葉である。

例えば竜巻、気象庁の進路予想的中率は1%、だが竜巻は単なる地球の生理現象、地上の地形と大気環境による軌道(自然の法)を走っているのみ、人間がその法を解明しきっておらぬに過ぎぬ。

大自然のあらゆる存在や現象は全て絶対、その善、悪、正、邪は無く、その風土必然の産物として生じたもので恣意的、意図的生滅は有り得ぬ。

私は母を念じることで人生の困難を乗り越えてきた思いがあり、我が守護神は母なりと宗教に近い時期もあった。

祈り続けてきたが、この齢となり思う、神仏への祈りにより特定個人に対し特別の恩恵が付与されるとかは有り得まい、何故なら宇宙に恣意はないと思うからだ。成就するのは己れの誠心誠意、達成意欲が、切に真であり法(自然法と情・理の法)に叶っておれば、自己の心身に強く反映して目的達成行動となり艱難を乗り越えさせるのであろう。

母から岡本かの子の名著「観音経を語る」を与えられ、いつ間にか観音様は私の信仰対象となりお蔭で人生の困難を乗り越えられたとの強い思いがある。

古稀の頃、神仏へ祈り続けながら、はたと気づいた、この大自然、大宇宙、神様は特定の人間に特別の恩恵を与えるものではあるまいと。これを道友に話したら、それは宗教を越えた次元の話だと言う、そうかもしれない。

では、神仏とは何かとなる。思考を重ねている間に、ふと気づいた。それは多年に亘り活用してきた潜在意識であった。顕在意識は巨大氷山の一角で人間意識の極々微細なである。現役時代、問題解決に頭を悩まし真剣に懸命に解決策を模索している間に、ふと妙案が涌き解決した事は多々あった。それは潜在意識が寝ても醒めても働いた結果で、私はこの潜在意識こそ重要な鍵を握っていると気づいた。

結論から言えば、祈りとはこの潜在意識への強いインプットであるとの確信に到達した。それにより全人的強い意思となり、無意識ながら昼夜を問わず全身全霊で問題解決に働くのであろうと。

さらに気づいたのは、この潜在意識は動物としての人間深層部であり、連綿たる過去にも繋がる生命の大深海ではあるまいかと洞察するに至った。

私の観音信仰は素朴で一心称名、(ねん)()観音力(かんのんりき)即時(そくじ)(かん)()音声(おんじょう)程度だが、この「祈り」と「潜在意識」とは密接な関係があると信じる。これは南無観世音でも何でもいいわけで潜在意識への猛烈な働きかけの神秘な触媒ではあるまいか。

二十代の読書で大変肝銘を受け実践してきた潜在意識の活用と無関係ではないと見る。熟慮を重ね徹底的に突き詰めておると、顕在意識にはなくとも潜在意識は昼夜を問わず活動し或る日、ぽっと妙案が涌いて顕在化し問題解決に成功する。これは多々経験があり霊感とはこれだと思っているが祈りの結実である。

人間は宇宙生物のワンオブゼム、人間にのみ特別の配慮は有り得ない、それが「宇宙に恣意は存在しない」の意味である。

宗教の核心は心であり、自己への祈りだと思う。心から祈る、それは潜在意識への強烈なインプットであり、一心称名であり信仰の原点であるが、要するに自己への祈りにほかあるまい。(ねん)()観音力(かんのんりき)、さすれば潜在意識は猛烈に活動し、願いの解決に全身心が強烈に作動するのであろう。祈念の心の強弱に応じ身体も目的実現に全面活動する。心が強くそう決めると心・体は無意識に目的実現へ邁進し、思う念力岩をも通すのであろう。

この潜在意識は人間と、人間の産みの親である宇宙生命と繋がりがある部分ではないかと確信的に思うに至ったのは近年である。有為(うい)に対する無為(むい)の意識の深層、即ち無意識世界には先祖代々のもの、或は動物としての「宇宙の(しゅ)」が胎蔵されておると思われる、即ち宇宙生命と人間との接点部分ではないか。己れはこの潜在意識を通じ、肉体的にも、無意識的に祖先を通じて大自然と繋がっている。

「祈り」のインプットは、潜在意識により肉体を通じて無意識的に宇宙と繋がって宇宙・大自然の本源に通じる。それが観音様であり神様であり仏様なのではあるまいか。私は宗教の本質は心だと信じている。祈り言葉は、間違いなく己れの全力投球への触媒的働きかけである。祈念対象の神仏は、全て己れの潜在意識への強いインプット触媒であり、現世の目的完遂へ向けて全心身活動へと拍車するのだと思われる。

だが、その果ては、万物消滅、無に帰するのみ、悲しみは去るのみと冷厳。

されば、現世で何を(たの)みとするか、それは釈迦への回帰、即ち因果則であり、一切はに在りとする、法灯明、自明、これが私の悟境に近い。完