老子を読む

私は今春には満78歳となる。依然として枯れていない。未熟である。
老子には程遠い人間だと考えていたが、終の道は、老子、これかなと思うことしきりである。
平成21年       元旦   徳永圀典

「道の道とすべきは常の道にあらず」。

          (第一章)

万物の根源にあり万物を成り立たせている

ものを道と老子はいう。聊かの自己主張も

ない、功績を誇らない。我々もそれを体得

することにより、厳しい現実をしなやかに生

きられると老子は云う。

無為・不言

「聖人は、無為(むい)の事に居り、不言(ふげん)の教えを行なう」。
         (第二章)

万物の根源の道は、無為、不言で、大きな

働きをしながら積極的な働きかけは何もしな

い。道を体得した人は、自ずから「無為」で

あり「不言」になるのだという。自然の成長に

任せて手を加えない、手を貸しても見返りを

期待しない。功績を鼻にかけない。だから

いつまでもその「地位」を失わないと。

無為(むい)

「賢を(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ。得難きの貨を(たっと)ばざれば、民をして盗を為さざらしむ。欲すべきを(しめ)さざれば、民をして乱れざらしむ」(第三章)

為政者が賢者を重視しなくば、国民は功名

を競わなくなる。高価な財物を珍重しなけれ

ば盗みを働かなくなる。欲望を刺激しなくなれ

ば乱を起こすこともない。無為こそ政治の理

想と言うことか。 

和光同塵(わこうどうじん)

「その光を(やわら)げ、その(ちり)(おな)じうす」
         (第四章)

有名な和光同塵(わこうどうじん)である。道は形の無い空

虚な存在であるが、働きは無限。計り知れ

ない深さの中に万物を生む力を秘めている。とけとげしさを無くして対立を解消し、才知を包

み込んで世俗と同調する。光という能力・

才能をぎらぎらさせないのが「和光」、塵とは

世俗心、それと同様に振舞うのが「同塵」、

そんな生き方を心掛けると厳しい現実をしぶ

とく生き残れるか。

捨身(しゃしん)(そく)光明(こうみょう)

「聖人はその身を退けて身先んじ、その身を外にして身存す」        (第七章)

聖人は自分から先に立たないので却って

人から立てられる。自分を度外視してかか

るから人から重んじられる。自分を捨ててか

かるので自分を生かせることができる。

上善如(じょうぜんは)(みずのごとし)

上善(じょうぜん)は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の(にく)む所に居る」。
         (第八章)

上善とは理想的な生き方、そうしたいなら、

水のあり方を学べという。水は万物に恩恵

を与えながら相手に逆らわないで人の嫌が

る低い所に流れて行くからだという。柔軟

で謙虚であれということか。

(みつ)れば欠ける

功遂(こうと)()退(しりぞ)くは、天の道なり」。
        (第九章)

そうした方が功績や名誉を全うすることが

できるという。地位に恋々とすれば逆効果。

極盛(きょくせい)の中に転落の兆しという。淮南子(えなんじ)

「天地の道は、極まれば則ち(かえ)り、(みつ)れば

則ち損ず」とある。易経にも「(こう)(りゅう)、悔いあり

」と昇りつめることの危うさを警告している。

頂上を極めたら退くのが人生作法か。

柔軟・無心・謙虚・控え目

(しょう)じて(ゆう)せず、(ちょう)じて(さい)せず、これを(げん)(とく)()う」。
        (第十章)

玄徳とは、生むけれども所有せず、育てる

けれど支配しない広大無辺なものだという。

具体的には「しっかりと自己を見つめ、無為

の道を守っているか。赤子のように逞しく柔

軟に生きているか。聊かの汚点もなく、心を

洗い清めているか。国民を愛し治国にあた

り才知を振り回していないか。自然の移り変

わりに女性のように控え目な対応をしている

か。智謀があるもひけらかしていないか」、

だという。

()(ゆう)

(ゆう)の以て利をなすは、無の以て用をなせばなり」。 (第十一章)

無があるから有がある。我々は「有」の価値

ばかりに目が奪われている。

無欲

馳騁田猟(ちていでんりょう)は人の心を発狂せしむ。得難きの貨は人の行ないを妨げしむ」。(第十二章)

馳騁田猟(ちていでんりょう)とは狩のこと。当時の最大の楽し

み。欲望は人の心を狂わせる、人間の欲望

には限りが無い、それではいつまでも心の充

足は得られない。老子は「無欲」を主張する。 

天下を託せる人物

「愛するに身を以て天下となせば、以て天下を寄すべきが如し」。 (第十三章)

安心して天下を託せるのは、なによりまず自

分の身を大切にする人物だと老子はいう。

自分を大切にする人物は、どんな事態に

追い込まれても慎重に行動する、冒険をお

かしたり、じたばた動き回らない、そのような

人物こそ頼りがいがあるという。詩経「戦々

恐々として深淵に臨むが如く、薄氷を履む

が如し」、思慮深く慎重な態度の人物こそ

天下を委託できる。  

微妙(びみょう)(げん)(たつ)

()く道を(おさ)むる者は、微妙(びみょう)(げん)(たつ)、深くして()るべからず」。 (第十五章)

「道」を体得した人は、底知れぬ味わいが

あり、その深さを測り知ることができない。

老子は、敢えて形容すればとして次を挙

げた。「氷の張った河を渡るように、慎重そ

のもの」、「四方の敵に備えるように、用心深い」、「客として招かれたように、端然として

いる」、「氷が解けていくように、こだわりがな

い」、「手を加えぬ原木のように、飾り気がな

い」、「濁った水のように、包容力に富んで

いる」、「大自然の谷のように、広々としてい

る」。天衣無縫(てんいむほう)か融通無碍か。それでい

て一本しぶとい「芯」が通っている。 

理想の指導者

太上(たいじょう)(しも)これあるを知る。その次は親しみてこれを()む。その次はこれを(おそ)る。その下はこれを(あなど)る」。(第十七章)

指導者のランクを四別。
「最も理想的なのは部下から存在さえ意識

されない」、「部下から敬愛される指導者は

それより一段劣る」、「更に劣るのは、部下

から恐れられる指導者」、「最低は部下

からバカにされた指導者」。

道に返れ

大道(だいどう)(すた)れて、(ここ)に仁義あり。智慧出でて焉に大偽(たいぎ)あり」。(第十八章)

大いなる道が見失われるようになると、やれ

仁だ、やれ義だと声高に叫ばれる。
小ざかしい人間の知恵がのさばりだすと大き

な虚偽が蔓延るようになる。老子は、人間

の作為や賢しらを否定し「無為自然」の

「道」に返れと説く。根本が見失われると

そうなる、根本とは「道」である。

作為も才智もない所

「聖を絶ち智を棄つれば、民利百倍す。仁を絶ち義を棄つつれば、民、孝慈(こうじ)に復す。巧を絶ち利を棄つれば、盗賊あることなし」。
 (第十九章)

政治に就いて語った言葉と言われる。

「才智をひけらかさなければ、人民の生活は

安定する」、「仁義をふりまわさなければ、

人民は道徳意識を取り戻す」、「利益の

追求に走らなければ、盗みをはたらく者はい

なくなる」。文明進化により弱肉強食となり

人間の情愛は影を潜め、むき出しの欲望

だけが蔓延っている。老子は、「道」の持

つ素朴に返れという。そこには「作為」も

「才智」もない、人間本来の良さが息づい

ている。それには「私を少なくし欲を(すくな)くす」

のだという。

知識に振り回されない

「学を絶てば、憂いなし」。
    (第十九章)

知識に捉われなければ悩みも生じない。

老子一流の逆説である。
学ぶべきは「原理原則」であろう。つまらない

情報は、勇断を以て切り捨てるのが賢明か。

器を大きく

()()と、その(あい)(さる)ること幾何(いくばく)ぞ。美と悪と、その相去ること如何(いかん)」。
 (第二十章)

―ハイとウンとに、どれだけの違いがあると

云うのか。善と悪とに、どれほどの違いがあ

るというのか。つまらぬ事に目くじらたて騒ぎ

まわっている。白だ黒だ、勝った、負けたと

血眼になるなど過ぎ去ると侘しいものだ。

人間の器を大きく。(()とは丁寧な返事、

()とはぞんざいな返事) 

ぼやぼやーとした(うつわ)

(こう)(とく)(かたち)は、ただ道にこれ従う」。
 (第二十一章)

(こう)(とく)とは大きな徳、それを身につけたいのなら、「道」と一体化しなくてはならぬという。

「道の物たる、ただ(こう)、ただ(こつ)(こつ)たり(こう)

り、中に(しょう)あり。(こう)たり(こつ)たり、中に物あり。

(よう)たり(めい)たり、その中に精あり。その精は甚

だ真、その中に信あり。」要するに何やらつ

かまえどころのない、ぼやぼやっとした大きな

ものである。こういう道と一体化すれば、人

間もまた自ずから器を大きくできるということ

らしい。眼前のことに一喜一憂するレベル

では至り得ないということか。

(きょく)(ぜん)

(きょく)なれば則ち(まった)し。(おう)なれば則ち正し」。(第二十二章)
曲っているからこそ生命を全うすることができる。屈しているからこそ伸びることができる。「(きょく)(ぜん)」という。

老子の処世哲学を端的に語る言葉。目立

たず、でしゃばらずが粘っこい生き方かもし

れない。「自分を是としないから、却って人

から認められる。自分を誇示しないから人

かせ引き立てられる。功績を誇らないから

人から讃えられる。才能を鼻にかけないか

ら、人から尊敬される。」

()(げん)、寡黙こそ美徳

()(げん)は自然なり」。
  (第二十三章)

()(げん)」とはおしゃべりでないことである。寡黙のことである。

弁解も宣伝もしない、そういう寡黙さこそ自然

のありようで、「無為自然」の道に合致して

いるという。「疾風と雖も半日も吹き荒れるこ

とはなく、豪雨と雖も一日中降り続くことはな

い、それを司っているのは天地で、天地さえ

も不自然を永続させえない。まして、人間の

さかしらなど長続きするわけがない」。人を説

得するのに言葉を尽くすが、それより遥かに

勝っているのが「無言の説得」だという。

それには、こちらにそれなりの「徳」が備って

いることが先決である。

功績を鼻にかけるな

(つまだ)つ者は立たず、自ら(ほこ)る者は長からず」。
(
第二十四章)

「背伸びして爪先で立とうとすれば、足元が

定まらない。自分の功績を鼻にかければ却

って足を引っ張られる」、人間だから自信や

プライドも必要である。それは、あくまでも自分

の心の中に秘めておくのがいいのだ。頑張

るにしても「(つまだ)つ」ような無理は避けて、さりげ

なく自然にということか。それが老子のいう

長続きする所以なのであろう。 

ゆったりと構えよトップは

「軽ければ(すなわ)(もと)を失い、(さわが)しければ則ち君を失う」。
 (第二十六章)

トップの在り方についての言葉。軽々しく振

舞えば国政を破綻させ、やたらに動けば王

位まで失ってしまうのだという。
論語に「君子重からざれば()あらず」と同じ。
トップやリーダーは末端まで細かく気配りして

も、そんな素振りは一切見せない、黙って

睨みを効かせるのが理想的。
「ゆったりと構えて心を動かすな」。
 

真の名人

「善く行く者は轍迹(てつせき)なし。善く言う者は瑕適(かてき)なし。善く数うる者は(ちゅう)(さく)を用いず」。(第二十七章)

老子によると、名人巧者というのは「行動し

ても動いた跡を残さない、発言しても乗ずる

スキを与えない、計算しても算盤は不必要」

だと。
与えられた仕事は淡々と果して行くことを心

がければ、それでいいのではないか。 

無為の者が天下を取る

「まさに天下を取らんと欲してこれを()すは、吾、その得ざるを見るのみ」。
(
第二十九章)

天下を取ろうとして策を弄する者に天下の

取れたためしはないのだという。老子は「

天下とは不思議なもので、取ろうとして取

れるものではない。取ろうとすればバラバラ

に崩れ、握ろうとすれば逃げ去ってしまう」

という。 

反自然は長続きしない

「善くする者は()たして已む。以て(きょう)を取ることなし」。
(
第三十章)

本当に戦上手とは、目的を果したらさっさと(ほこ)を収め無闇に強がることはしない。老子は「勝っても有頂天になることはない、才能や功績を誇ることもしない。 

戦いとは相手から仕掛けられて已む無くす

るものと心得ているから、仮に勝ったとして

も武力を誇示しない」と。
「強い者は必ず衰える、なぜなら自然に反

しているからだ。

自然に反したものは長続きしない」という。
 

人物の器

(たと)えば道の天下に在るは、なお川谷(せんこく)江海(こうかい)(とも)にするがこどし」。
(
第三十二章)

道とは原木のようなもの、人手が加えられて

いないからその用途は無限、道も然りだから

無限の働きができるという。「君子は器なら

ず」は孔子の言葉、人物の器は用途限定

ではいけないということか。

智と明

「人を知る者は智なり。
自ら知る者は明なり」。
(
第三十三章)

人を知る者はせいぜい智者のレベル、自分

を知る者こそ明知の人である。智も明も深

い洞察力の能力。智よりも明が一段と深い

能力。孫子「彼を知り己を知れば百戦し

(あや)うからず」。 

したたかな現実主義

「まさにこれを(ちぢ)めんと欲すれば、必ず(しばら)くこれを張る。まさにこれを弱めんと欲すれば、必ず(しばら)くこれを強くす。まさにこれを去らんと欲すれば、必ず(しばら)くこれに(くみ)す。まさにこれを奪わんと欲すれば、必ず(しばら)くこれに(あた)う」。(第三十六章)

縮めようとするなら、先ず伸ばしてやる。弱め

ようとするなら、まず強くしてやる。追い出そう

とするなら、先ず味方に引き入れる。取ろう

とするなら先ず与えてやる。したたかな策略

である。道を説きつつこのようなマキャベリズ

ムを説くのも端倪(たんげい)すべからざる老子。厳しい

現実を生き残るのは先ず道の徳を身につ

け、その上にかかるマキャベリズムも必要と

いうことか。

上士とは

上士(じょうし)は道を聞いては、勤めて()くこれを行う。中士(ちゅうし)は道を聞いては、存するが(ごと)く亡するが(ごと)し。下士(かし)は道を聞いては、大いにこれを笑う」。    (第四十一章)

立派な人物は、道を教えられると即座に

実行する。中程度の人物は、半信半疑

である。つまらぬ人間は、腹をかかえて笑い

だす。道は見えない、上士とは心が語れる

人か。

大器晩成

大方(たいほう)(ぐう)なし。大器(たいき)(ばん)(せい)す。大音(だいおん)希声(きせい)なり。大象(だいしょう)は無形なり」。(第四十一章)

大器晩成の出典である。「この上なく大きい

四角は角ばって見えない。この上なく大きい

器は、完成するのもまた遅い。この上なく大

きい音は、耳で聞き取ることができない。

この上なく大きい形は目で見ることができな

い。道も大きいものだから、こちらがその気に

なり耳をすまし目を見開かなくてはとらえられ

ない。

地位・財産

「甚だ愛すれば必ず大いに(つい)え、多く(ぞう)すれば必ず厚く(うしな)う」。
(
第四十四章)

地位に執着しすぎれば、必ず生命をすり減

らす。財産を蓄えすぎれば、必ずごっそりと

失ってしまう。地位・財産は到来物のようなも

の。有難く頂戴するが、敢えて追っかけない

。そのような生き方を心がければ達人のレベ

ルに近づけるかもしれない。