応仁の乱と故渡部昇一先生
尊敬申し上げた故渡部昇一先生の御霊に捧ぐ。
先生の著書は実に多く若い時から読み尊敬していた。
確固たる信念のお人柄で同年代ながら心から畏敬申し上げてきた。
先生との初対面は、25年前のこと、平成4年、日本会議創立総会があった東京品川プリンスホテルの懇親会であった。先生との二人の記念写真を撮った。その席で、私は「渡部先生は故安岡正篤先生の衣鉢を継ぐべきお方です」と申し上げたら甚く喜ばれその後お便りも頂いた。
その初対面の場で、私は応仁の乱の事をお尋ねした先生の所見を承り目から鱗の落ちた思いであった。
応仁の乱の歴史的意義は分かっているようで案外に本質を知らぬ人が多いと思うので渡部先生の説明を思い出しつつ述べる。
箇条書きにしてみました。
応仁の乱の推移
1. 中世との決別で近世の扉を開いたものである。
2. わびさびの「東山文化」を開いた足利義政の子がなく弟の義視を将軍にしようとした途端正室・日野富子が義尚を産む。
3. 義視には細川勝元、義尚には山名宗全が後見人となり対立し全国を二分した争いが応仁の乱である。11年間続いた。
4. 足利家の相続争いが乱の端緒、斯波と畠山の両補佐役の管領家の家督騒動の内紛がありそこに細川、山名の二大勢力が対立、全国の武士が細川と山名に別れて大乱となった。
応仁の乱の歴史的意義
1. 乱の前と後で、日本の貴族・豪族が殆ど入れ替わった。残った古代豪族は、皇室と公家の他では、島津、伊達ら3-4家であった。
2. 今日の日本を知るには応仁の乱以前は研究不要。応仁の乱以後は日本人の身体骨肉に直接触れた歴史。
3. 戦乱により京都は荒廃、大名は自分の国に戻り自国経営に努め、公家や禅僧も京都では食えぬから地方に散った。公家の娘も地方大名に嫁す。
4. そのおかげで全国各地に文化が興った。
5. 地方の大名は自国経営、住民をてなづける方法を学ぶ、地方に文化の種が撒かれたのである。
6. 伊勢神宮はこの頃までは神社の中の神社で一般庶民の参拝は許されてなかった。応仁の乱が起こると伊勢の神官も維持費を集めるため、講を作り日本国中を回りだした、これにより一般人も伊勢神宮参拝可能になった。
7. 応仁の乱をきっかけにこのような変化、即ち「民主化」の力を拡散したのである。これは中世の扉を開く先駆けと言える。
因みに渡部先生は戦国時代は日本の宝だと。
1. 名将言行録、いろいろな武将が戦場で発した言葉、行動、戦いの心得、処世訓、相手との駆け引きなど様々な知恵が事細かに記され、先生は「戦国時代は日本の宝」とも言われた。名将言行録はシナの史記、十八史略に劣らぬ価値があると言われた。
2. 中世は群雄割拠、いつ隣国から攻められるか分からぬ。そのため、家臣や領民を大切にしなくてはならぬ。それを上手く利用して下剋上で最初に大名となったのが小田原の北条早雲ですね。早雲は民衆の扱い方が巧く、四公六民という前例の無い安い税率にして隣国から領民希望の出るほどであった。
3. 戦国大名たちは、権謀術策を用いて権力を手にした人が多いから人間が賢くなった。上杉謙信、武田信玄、知力を尽くして外交をやっていた。信長、秀吉、家康も同様である。
4. 群雄割拠というのは確かに人間のレベルを上げる。だから、まともな封建時代のない国は、近代国家になれなかったのである。発達した封建時代のあったのは日本とヨーロッパだけ。
5. インドもシナも韓国も封建時代の経験はない、要するに私がよく言及してきましたように、これらの国には武士道も騎士道も確立していない。
6. これらシナ、韓国、インドの近代化までには、植民地、また半植民地の時代を経過するか、共産革命を通過するしかなかったのであります。
7. 思想的には共産主義は終わったと日本以外は認識しております。不思議なのは日本だけ。
平成29年8月7日
鳥取木鶏会 会長 徳永圀典