中国、あれやこれや そのS
平成18年8月

 1日 中国では内戦に他国が利用
される

中国では対外戦争より内容の悲惨さから見て内戦の犠牲者が遥かに多い。19世紀中葉、アヘン戦争を皮きりに清仏戦争、日清戦争、北清事変、日中戦争、そして戦後は中ソ、中印、中越戦争との対外戦争があったが、いずれも短期間で終結した。

例えばアヘン戦争、あっと言う間に勝敗が決まった。住民からは双方の戦死者以上の犠牲者が出たが、その多くは清国兵による狼藉であったと言われる。日中戦争にしても実際の戦争は盧溝橋事件から漢口陥落までの一年と少しの間だけで、その後は南京、重慶、延安の各政府間の内戦であったのが実相である。
 2日

清帝國が18世紀半ば東アジア世界の征服を完了すると、今度は各地で反乱も内戦が頻発し、その状態が中華民国時代もそして中華人民共和国時代まで百数十年にわたり継続されている。

内戦、内乱一つひとつ見ても、白蓮教徒の乱、太平天国の乱、回乱、文化大革命などは、10年かそれ以上続いた。犠牲者数にしても対外戦争とは比べ物にならないくらい大きい。
 3日

大平天国の乱、犠牲者数は5千万人から人口五分の一の8千万人に達したと見られるという。回乱では人口の十分の一の4千万人が殺された。文化大革命に至っては、農村の生産隊から人

民公社、中南海の指導者層まで、中国人である以上その災禍から免れ得なかった。日中戦争での中国側犠牲者数は現在大水増しされて公表している3500万人ではなく実際は300万人ほどであったようだ。
 4日

中国の対外戦争は大概国内矛盾を解消すべく民力結集の為以外には、内戦の一時緩和の為に行われ、それだけに内戦による犠牲者数の減少という「役割」を果たしてきているという。ことに日中戦争はも国共内戦、その他各派武装勢力間の内訌を停止させるという歴史的な貢献を果たしている。

それはたまたまそうなったとは決して言い切れない。 日本は絶えず中国の国内安定、内戦停止を希求しながら中国に関与してきた。その為に却って内戦に引きずり込まれ日中戦争が始まったのである。日本はその占領地で常に日中和平の旗印の下、中国社会の治安維持と平和的再建に力を注いでいたのである。
 5日 中国人こそ、靖国神社の社頭に額づき、日本軍の英霊に感謝の気持ちを捧げなくてはならぬ

内戦を停止させたのは文字通り日本の貢献であった。このことは、東アジア史に於いて、或いは世界の近現代史に於いて、何としてでも特筆されなければならない。

靖国神社を心から憎悪する中国人だが、実はこの中国人こそ、靖国神社の社頭に額づき、日本軍の英霊に感謝の気持ちを捧げなくてはならぬと黄文雄氏し指摘している。
 6日 内戦を終結させた日本 中国歴史を見ると、絶対的優勢勢力が存在しなければ、内戦が長期化しカオス状態に陥り収拾困難が見られる。そこで取る手段が中華世界以外からの強力な勢力の引き込みである。 例えば、五代時代の後晋は契丹の外力に頼り勃興した。日本と提携して脱内戦を図った満州国や汪兆銘の南京政府と同様である。中国人は自ら内戦を惹起しておりながら、結局は外力によるしか収拾できなかった史実に目を塞いでいる。
 7日

中国は唐の中葉、安史の乱以降、五代十国、南北宋、遼、金夏という列強時代を経てモンゴルが東亜世界を支配するまで実に500年間も乱世が続いた。

18世紀末からの内乱、内戦の時代には、八旗軍にも緑営の兵士にも平定する力はなく、新興勢力が台頭して軍閥となり、中華民国時代の群雄割拠へし発展して行くが一つとして内戦克服できる者はいなかった。
 8日

そうした中、段祺瑞、張作霖、汪兆銘などは日本の支援を受けたと後世に批判されているが、袁世凱、呉佩孚(ごはいふ)、蒋介石は英米から、馮玉祥(ふうぎょくしょう)、毛沢東はソ連からの支援で何とか自

勢力を維持していたのだから実に不公平な勝手が中国の手法である。民国時代には、北洋軍閥対南方革命軍閥を基調とする混戦、乱戦となる。南北双方は南討、北伐をしながら、全土統一する力はなく、いつまでも内戦は収拾されなかった。
 9日

そのような中で日本軍が中国に進出した。まず満州に入り満州国が誕生、満州軍閥が後退して社会が安定し

た。そして日中戦争が始まるとこの強力な勢力の進出で国共の内戦し終息した。
10日

当時は「共同抗日」のスローガンの下、国共の正面衝突と言えばせいぜい小競り合い程度。これは国民党の討伐を避けるために、日本軍を戦争に引き込んだ共産

党の謀略の成功ということである。そして日本軍が敗退すると、忽ち国共内戦は再燃したのである。だから毛沢東は日本のお陰だ、日本は謝ることはないの発言となるのだ。
11日

日本軍の平和回復に対する貢献は、国共内戦を停止させただけでなく、日本軍の進出により、華北、華中では平和勢力が結集して地方自治政府が次々と誕生、また内戦武装勢力の解体もあ

り、治安が確立、満州国に続けとばかり近代産業建設が着手されてきた。150年続いた内戦を一撃のもとで終結させ人々に平和をもたらした日本軍に感謝する声は、今でもかっての占領地では聞かれると言うのは黄文雄氏である。
12日 中華虐殺文化の象徴 中国は伝統的には、騒乱の社会、飢餓、虐殺、戦乱の社会であった。だから梁啓超などは中国人を「戮民」もつまり虐殺、殺戮されるべき民と呼んでいた。そもそも中国では古代、民は眠 、盲、氓と同音で、逃亡を防ぐため目を潰された奴隷を意味する。人民共和国以前の「民」は「人民」でなく「生民」といわれた。国の存亡と無関係で国民ではなく天下に属していたという概念である。
13日

中華人民共和国の時代から「民」の新定義づけがされ「人民」が持ち上げられた。それでも「貧農」と言った「紅五類」が「人民」の範疇に入ったのに対し、資本家も地主などの「黒五類」は改造を受けない限りは「人民」ではないとして排除されたと言われる。

中国の民は18世紀末以来、百年内戦の中で兵士や匪賊の略奪対象になつたり殺戮対象であった。20世紀中華民国とて同様、三反五反運動、反右派運動、文革のように騒乱の世の清算闘争で餓死し虐殺された人民は千万人単位、一説では7千万人といわれる。
14日

戦乱中国では、民衆は常に地方軍閥により二重、数重の搾取を蒙って生きていた。また兵士による略奪も頻繁に受けてきた。

内戦の戦局が変わる毎に、敗走する兵士は立ち去る前に先ず住民から略奪した。兵士は負けたら食えないからである。
15日

過酷で生命も財産も同民族に保証されない社会だから、アヘン戦争後各大都市に外国の租界ができると、それは中国民衆にとり唯一の、生命と財産を守ってくれる桃源郷となり駆け込み寺となつたのである。

同時に海外に脱出する中国人が大量に出現した。

ウチゲバは中国社会古来の伝統であり逃げ出し海外で華僑として生きて行く原因となつてきたのである。

16日

孫文なども広州で住民虐殺をしている。楚と漢の争いでは敗れた楚の覇王項羽は戦没者の家族に合わす顔がないと言い、烏江で自決した。孫文の場合は袁世凱との競争に敗れ、第二革命で

も敗退しながらぬけぬけと郷里広州に逃げ帰り、三回も軍政府を樹立して、その度に内訌と騒乱を惹起し、遂には武装して圧政に抵抗する市民のイギリス製の武器欲しさに市民の虐殺をしている。
17日 建国の父と言われる孫文が地元民を大虐殺したことは、中華虐殺文化を象徴していると言えるのである。 近代になり大勢の中国人が海外に脱出したことも、一つの自然生態学的現象である。つまりカオスからの命からがらの脱出なのである。
18日 だから満州が日本の文明開化圏に入ると、年間100万人の民衆が駆け込んだし、日中戦争中に「敵区」「淪陥区」と呼ばれた日本の占領地にも多数の民衆が流入 した。なぜなら、それらの地は強力に日本軍に保護され、戦乱や兵匪、官匪、土匪による略奪から免れ得る桃源郷と思われたからだ。
19日 中国農民救済の日本人 中国に於ける中華帝国以来の苛斂(かれん)誅求(ちゅうきゅう)、そして飢饉や流民といった農民問題は、今日に至っても基本的には殆ど解決されていな い。中国は農民革命国とは言え、それは中国の宿痾(しゅくあ)である。その原因は、自然と社会の連鎖的悪循環にあるが、19世紀からはそうした崩壊は拡大再生産されるばかりであった。
20日

日中間の衝突が激化の一途を辿り始めた20世紀の20年代からは内戦が続いただけでなく、洪水、旱魃(かんばつ)蝗害(こうごがい)と言った自然災害が頻発した。災害を拡大していたのは長年の内戦によ

る水利組織の破壊である。水利事業は強力な国家組織があって初めて出きる。だから中国では古代、水利事業は最も重要な帝王の事業と考えられていた。然し、中華民国時代にはそのように国家組織は出現しなかった。
21日

中国の自然災害とは日本人の想像を絶するものだと言う。日中戦争直前と192735年の状況は右記通りである。

1927

華中で大水害発生、900万人罹災。

1928

大旱魃が華北8省を襲い、罹災民は3000万人。

1929

河北省が水害、陜西省は旱害大打撃。餓死者1000万人の公式記録。華中での水害5400万人が罹災

1931

揚子江、淮河と大運河流域一帯16省の大水害5000万人が罹災。

1932

華北大水害、全国水害被害は15省、旱魃被害8省、蝗害10213県。

1934

水害14省、283県、田畑3102万畝、旱魃11省、田地13380万畝が被害。農民損失農産物だけ10億元超。

1935

黄河、揚子江の大洪水、安徽省、江西、湖北、湖南4省で1400万人罹災。公私の損失5億元。

22日 中国は平時でも食料の生産性低く完全な自給が出来ず、20世紀に入っても外から食糧輸入している。 労働人口の余剰により年々数え切れない餓死者が出た。大躍進の失敗後に数千人規模の餓死者で出た。
23日

5000年もの農耕の歴史もあり、人口の9割が農民である中国の、かかる奇怪千万な状況の中で、農村を中国政府に代わって救済したのが日中戦争中の日本軍民だった。

日中戦争勃発年の1937年正月、衆議院では、社会大衆党書記長の麻生久が「北支経済工作に関しては農民大衆の福祉を招来する如き方策を講ずることが、この目的達成のため緊要である」と強調した。
24日

それに対して近衛文麿首相は「今後はシナ民衆の心を把握することでなければ東洋平和確立、ひいては日支両国の提携はできない。支那は農業国であるから支那農民と結び、農業の発展に

我が国が手伝うことは極めて必要だ」と答弁している。当時の日本人にとり、隣国中国との提携を果たすには、先ずはこの国の圧倒的多数の人口を占める農民を悲惨な状況から救い出すしかないと考えていたのである。
25日 権力者私欲の伝統 日中戦争が開始されると、中国の農村は日本軍の進撃を阻止したい中国軍により各地の灌漑施設は破壊され、軍を養うための作物も家畜も収奪され、労働力も「拉夫」という強制連行により減少するなど大打撃を受けた。 抗日ゲリラなども食糧需給秩序の撹乱に狂奔し、非ゲリラ地区にあっても周辺の治安が不安定であり将来への不安感から余剰食糧があっても出し惜しみなどがあった。
26日

このように見ると、重慶政府も共産ゲリラも、国家防衛などと口に出すが、相変わらぬ住民生活、生命については殆ど無関心といえる、中国とはそんな国なのである。そこへ進駐した日本軍は略奪どころ

か、逆に既に台湾、朝鮮、満州で行ってきたように生産計画ほ立て、生産指導、支援、地主に苛斂誅求をやめさせ、土匪の襲撃から治安を守り、食糧の確保、救援に躍起となっていたのである、まるで神様のようではないか。
27日

農村の近代化支援でもあり、食糧増産を図っただけでなく、植林を行い、電力を供給し、文化指導をし、学校、病院を建て、医療人材の育成等々に注力している。

又、鉄道、道路、港湾建設などのほか、華北、華中の産業開発も大々的に進行させたのである。中国などいい加減なことを言っているのだ、盗人猛々しいとはこのことだ。韓国とよく似ている。
28日

重慶支配地区で深刻な食糧恐慌に陥ったことがある。主に地主、大商人、官僚、軍人などが投機目的で食糧を買い占めた結果であった。

このように権力者や有力者が私欲に走り、民衆の生活や生命を犠牲にするのが中国の伝統社会である。
29日

日本の占領地区では。日本軍はひたすら占領地自由民の福祉向上に努めた。日本民族の道徳性の表れであると共に潤滑な占領政策につながるもの

で文明人としてごく普通である。略奪をしたのは日本軍ではなくて、重慶政府軍であった。農民から挑発せよとの命令を出している。黄河を決壊させて11の都市と4000の村を水没させている。
30日

日本軍は、中国伝統の農村経済システムを打破してまで農民救済に取り組んだ。

農村経済の近代化の指導をしたものが合作社運動である。村落間の抗争の仲裁から教育、技術指導等々をしている。
31日 創意工夫を持たない中国

日本は創意工夫だけを命として国家を隆昌させてきた日本とのこの大きな相違を歴史家は判定しなくてはならぬ。

中国・韓国ともそのように成熟した発想のない後進国である。中国の押し付ける侵略国史観などナンセンスである。