ある泥棒父子(ふし) 五祖録より

平成18年8月

 1日 五代十国の時代、中国は福建の泉州に、飛去・飛来という盗賊父子がいた。父はかって世に一、二を競うほどの盗賊の名人であったが、今では盗賊稼業から手を引いていた。しかし彼のもとにはいつも、師よ、親よと、言って、彼を慕う何十人かの荒くれ男たちが出入りしていた。 そして、彼には何一つ不自由させなかった。妻は飛来を生むと間もなく、産後の肥立ちが悪く死んでしまった。以後、飛来は彼の手一つで育てられた。彼の持つ唯一の夢は、今年十八歳になった一人息子の飛来が、彼の跡を継いで第一流の盗賊になってくれることであった。
 2日

そのためには、倅をして、その身と心を自由自在に使いこなすことを会得せしめるように育てなければならないと思っていた。そこで倅のために、よく環境を用意して、その中でよい経験を与える事を考えた。

子供にとってよき環境とは泥と太陽と腕白仲間である。戸外で太陽を身体一杯浴びて、泥だらけになり、腕白仲間と嬉々として遊ぶ中に、子供は何にも変えがたい、しあわせと、貴重な大きな定見を身につけることができるのである。
 3日

親が子供を過保護することは、子供からしあわせを、そして子供が貴重な経験を得る機会を奪い取ることとなる。これが彼の倅に対する教育方針であった。また実際の処、彼は倅の世話をこまごまとみきれる男ではなかった。彼は倅が放っておいても心配なく育ってゆく子供であってもらいたかった。

彼は、飛来が生まれて間もない頃、池の中に放り込んだ。赤子は多少水を飲んだ様子ではあったが、すぐに仰向けになり鼻だけを水面に出し、楽々呼吸しながら浮いていた。このようにして、飛来は歩ける以前に、自由に水の中で呼吸し泳げるようになっていた。これで倅が水で事故を起す心配をする必要はなくなったのである。
 4日

また、彼は倅が怪我をしても、泣いても無頓着であった。だから、飛来は生傷が絶えたことがなかった。然し、大きな怪我をしたことは無かった。それは怪我の痛さを何回となく経験する度に、それを避ける方法を知らず知らずのうちに身につけたか

らであった。過保護の子供が限って、目を放した途端に大きな怪我をすることがよくあるのは、子供は危険に対処する身のこなしが出来ないからである。小さな怪我を何回も何回も経験するうちに子供は教えないでも自分で危険を避けることを覚えるのである。
 5日

痛い思いは、子供にとつては忘れられない貴重な経験なのである。ある日、飛来は年上の六、七歳の腕白仲間二、三人と庭で遊んでいた。たまたま飛来は縁側にいてそれを見ていた。何か倅が、仲間の意に反したことをしたらしい。一人が飛来の胸をつくと、彼はよろよろとよろめいて

尻餅をついた。すると他の一人が、彼の頭をこづいた。彼は助けを求めるかのように、時々飛来の方を見る。しかし、飛来は黙って、無関心の態度でいる。仲間は交互に何回も彼をこづいて、遂に彼を泣かしてしまった。彼が大声で泣き出したので、仲間は驚いて逃げ去った。
 6日

飛来は依然として黙っていた。飛来の泣き声はだんだん小さくなって遂に泣く止んだ。泣くだけ泣いたので、気がすんだのか、それとも泣きあきたのか、彼は遊び仲間を求めて外に出た。夕方になって倅は家に帰っ

てきた。飛来は彼に尋ねた。「さっきは、なぜ泣いた」。すると彼はそんなことがあったかしら、という顔して「知らない」。庭で皆にこづかれていたろ。どうしたのだ、「知らない」
 7日

子供の世界では、仲間のルールに反すれば、直ちに制裁を受ける。然しその制裁には自ら限界がある。その限界は制裁を受けた者が泣くまでである。泣けば相手は驚いて止めるからである。また、制裁を行う者は子供なので、相手をひどく傷つけるだけの力はない。従って子供にとっては、痛いことも、辛いことも、

その場限りであって、すぐ忘れて皆と一緒に遊ぶのである。倅は仲間にやっつけられたことも、全く忘れ果てているのであった。なまじいに、自分の子供を保護するようなことは、却って子供に依頼心を起させ、弱い人間にさせるだけである。父はそれを知っていたので、どんな場合にも決して倅の味方にならなかった。
 8日

この様にして飛来は毎日お天気さえよければ泥と太陽の中で、腕白仲間と一日中、思う存分笑い泣き自由奔放に楽しく遊んだ。時には尿を洩らし洩らし遊んでいることもあった。

小便する間も惜しいのであった。飛去は倅の遊びについては、なんの干渉もしなかった。ただそれを見ているだけであった。その結果、幼児の物事の考え方が大人と異なる点に気がついた。
 9日

夏のことであった。飛来がじっと地面を見ていた。蟻の行列をしゃがみ込んで見ているのである。一時間ばかり、その姿勢で見ていたが、疲れたのであろうか、立ち上がってその辺をちょこちょこ歩いて空箱を持っ

てきた。それを腰掛にして、また熱心に蟻の行列を見ていた。飛来にしてみると、彼は蟻を見ているのではなく、蟻になっているのである。他の蟻と一緒になって餌を運んでいるのである。
10日

また、子供たちが隠れん坊をしている時のことであった。大きい子供は、物陰や押入れに隠れているのに、幼い飛来は壁にくっついて目をつむっただけで、隠れたつもりでいる。

自分に見えないから、鬼も見えないと思っているのである。自分と鬼との区別はないのである。また、お茶碗が座敷に転がっていると「お茶碗が寝ているね」という。お茶碗も自分と同じ様に寝ているのだと思っている。
11日

この様に幼い飛来には、全てのものは自分と一体であると考えているのである。父は倅がいつまでも、このように「自己と万物とは一体」であるという考え方を持ち続ければ素晴らしいと思った。然し、倅は少年期が近づくにつれ、このような考え方は薄れ、自他の区別を明確にするようになった。

そこで父飛去は、今までの無干渉主義を捨て、一定の方針のもとに倅を訓練することにした。その方針とは「緩急」ということである。先にも一寸触れたが、飛去は倅がその身心を自由自在に使いこなすことが出きるように訓練すべきだ、と考えているのであった。
12日

「緩」とは身心の構えについて言っているのである。「急」とは身心の行動について言っているのである。即ち「構えは緩に、行動は急に」というのである。

構え・・・緩(身心脱落)

行動・・・急(身心を())

13日

例えば、物を見る時に、先ず無心の構えで見よ、柔軟な気持ちで見よ、色眼鏡をかけて見るな、と言うのである。これが「緩」である。「身心脱落」である。緩「柔軟心」である。

いざ見る時は「全身全霊を対象に打ち込んで見ようという。これが「急」である。「身心を挙して」である。目だけで見ると思うな。手でも見、鼻でも見、心でも見よ、というのである。見る時だけではない、聞く時も、話す時も、歩く時も、走る時も、跳ぶ時も、いついかなる時も「緩急」をもって行動せよ、と教えた。
14日

時には、倅は父に「身心脱落と身心を挙してとの二つは矛盾しないか」と尋ねたこともあったが、父は特に説明しなかった。そこで倅は、いずれにせよ、一生懸命やればよいのだろうと思っていた。このようにして、訓練を積み重ねて倅は18歳になっ

た。そして今では、どんなに暗い所でも物を見ることができ、どんな小さい音でも聞き逃すことはなかった。またその手足は父にまして強く、身体はバネの如く強靭で、動作は猿のように身軽であった。彼は父飛去のような盗賊に早くなりたいと思うようになった。
15日

父飛去は、今でこそ盗賊稼業から手を引いたが、かっては大金持ちだけを狙い、高価な品物のみ盗んだ。然も盗みに際しては、建物や品物は少しも傷つけず、釘一本でどんな厳重な締まりでも開けた。また人を殺傷することを嫌い、風の如く入り、風の如く去った。

倅飛去はこの様に、身心の訓練は厳しく躾けられたが、盗賊についての術は何一つ教えられていなかった。そこである日、父の機嫌の良さそうな時に、盗みの方法を教えてくれと頼んでみた。父は快く承知して、では実地に教えようということになった。
16日

そこで、父は飛来に言った。「今まで、道を極める為には、柔軟身心でなければならぬと教えてきた。然し、実際に盗みをするとなると、それだけでは不十分だ。計画的に手順を定めて行動しなければならない。

それには、こんな具合に考えるとよい」と、紙に次のことを書き示した。

目的→調査→方法→予測→評価→手順書→実行→確認→経験
17日 父飛来は、その項目の一つ一つにつき、自分の長い年月にわたる経験を交えて説明した。それを要約すると 先ず、目的を明確にしなくてはならない。単に金が欲しいから出来心で盗む、というのでは駄目である。計画性がないから失敗の率が多い。
18日

次に、対象及び方法を調査して、幾つかの方法を選び出し、それらを実行した場合の結果を、予測(時間的)・評価(空間的)してみる。そして最良の方法が決定したならば、手順書

を作成する。手順書作成のポイントは、手順を時間的・空間的に考えることである。例えば、時間的には、入る・盗む・逃げるの三段階を考える。

19日

空間的には、どこからはいるか、どれから盗むか、どこから逃げるかなど、順序が整然としていないと危険である。

盗賊にとつては、時間は特に貴重である。手順が悪いと、それだけ無駄な時間を現場で費やすことになる。盗みは出来るだけ早くすませて、現場から去らないと危険が発生する可能性が強まる。
20日

例えば、入る時は小窓から入っても、出る時のことを考えて、すぐに木戸の鍵など外して、逃げ口を大きく広く確保しておかなければならない。又、箪笥の引き出しなどを開ける場合には、下から上への順序で開け

放しにすべきである。この順序を誤まって上から開けると引き出しを開けてはまた閉める二重の手間がかかる。このように手順が決定したら、実行にはいる。その結果を確認して、その経験を次の仕事に役立たせることにする。
21日

以上の説明を終えると、父飛来は盗みの対象に、一軒の豪商を選んだ。そして倅と共に盗みの手順を以上の如く考え、実行した。

夜が更け、晩秋の木枯らしは雲を吹き払い、月の冴えたころ、二人は豪商の石垣に沿って静かに歩いていた。
22日

かなり広壮な構えである。表門も裏門も固く扉が閉ざされ、人の近づくことすら拒否している。庭も広く樹木も多いらしい。石垣の上は高い塀で、外からは屋根も見えない。

父飛来は懐中から、手鉤のついた細引きを取り出して倅ら渡した。倅はそれを塀の外に出ている松の太枝めがけて投げつけた。二人は軽々と庭内へ飛び降りて、木立の間を縫って母屋に近づいた。途中、井戸の傍に頭大の石があった。父は倅にそれにつまづかぬように注意した。
23日

母屋は既に雨戸が立てられていた。然し、飛去は小窓の一つに目をつけ、そこからたやすく中には入った。そして中から雨戸の締りを外して、倅を中に入れて雨戸は開けたままにした。

二人は、闇の長廊下わますぐ音もなく歩いた。彼らはどんな闇の中でも観見ることができ、且つ音も立てずに歩く事が出来るのであった。丁度猫のように。
24日

父飛去は突然ぴたりと足をとめた。蔵の前にきたのであった。厳重に鍵がかけられているが、飛去は針金一本でそれを外して、二人は蔵の中にはいった。目星をつけた長持は、目の前に置かれていた。

その中には豪商が一生懸命にため込んだ宝物がぎっしりとはいっている筈であった。大きさも大きい。大人が二、三人は楽にはいれるくらいである。
25日

大きな錠前がかけられていたが、飛去はこれも針金一本で,壊すことなく外した。そして倅に、中にはいって目ぼしい物を、出きるだけ取り出して、身につけよと命じた。

父は倅が中にはいるのを見届けると蓋をおろして、鍵を固くかけた。そして、外に出てから、大声で「泥棒だ!」「泥棒だ!」と叫び,家人たちが起きだし立ち騒ぎ始めると、ゆうゆうと逃げ去った。
26日

その家の主人は、家人たちを引き連れて蔵にはいったが、大切な長持ちには鍵がかけられたままで、別に荒らされた様子はない。暫くはその辺

を調べたが別に異常もなさそうなので一安心した。一方、飛来は、蓋がしめられ鍵がかけられた時、そのことを、どう理解してよいかと戸惑った。
27日

彼は今の今まで、父を信じ頼りきっていた。「まさか父が?」と思った。「然し、父が、泥棒だ!泥棒だ!と叫んで、家人を呼び起こした事実は、何を意味するのか?」彼は.微かな戦慄が身内を走るのを感じた。ふと、「自分は死ぬかもしれない」

と思った。このままじつとしておれば、家人は気づかずに去るのであろう。然し外に出られず、飢え死にするのみだ。もし家人に気づんれれば、引きずりだされて縛り首にされるだろう。長持の周囲には家人たちが夫々得物を持ってうろうろしている。

28日

過去の色々な出来事が走馬灯のように頭の中に浮かんでは消えて行く。あの優しかった父との思い出、その父がなぜこのような酷いことを、と思うと父が恨めしくなる。彼は、恨みと、怒りと、恐怖の感情の渦の中で、じっと家人に気づかれないように息を潜めていた。彼の心は時間と空間の中を右往左往し混乱し何をな

すべきかを知らなかった。
このような事は、彼の心に急に頭をもたげて来たのであったが、一度頭をもたげだすと、彼は執拗だった。このままにしていたならば、死んでゆくほかないと思った。彼は、「これが最後だ。どうともなれ」と思ったとき、急に頭から血が引いてゆくのを感じた。

29日

彼は今までに味わったことのない、不思議な感覚の世界の中に飛び込んだ。刹那、彼は冷静そのものになった。彼の頭は冴え、研ぎ澄ましたように鋭くなった。急に思いがけなく

父が慕わしく感じた。そして強烈な気力が全身に漲った。彼は鼠が物を噛むような音を立てた。それを聞いて、この家の主人は大切な宝物を傷つけられては、と考え下婢に灯を取って長持を調べよと命じた。
30日

蓋を開けるや否や、真っ黒な塊りが長持からバネ仕掛けのように跳躍し下婢にぶつかった。下婢は驚きのあまり、灯を落とした。一瞬、四辺は闇に包まれ、家人たちは呆然とした。その間、彼は蔵を出て、廊下を走り、父が開けた雨戸が母屋を一気に飛び出した。

彼は井戸の傍に走り寄り、大石を抱き上げてその中に投げ、近くの竹薮の中へ駆け込んでそこで初めて一息を入れた。誰もこちらへ来る気配はない。木枯らしに吹き抜かれ竹の葉ずれの音があたりを埋めていた。寒月が冴えわたり井戸の周囲の人々の黒い影を濃く地上に落としている。彼はそれを人こどのように眺めた。
31日

彼は無事に家に戻った。そして一部始終を語った。父はうなづきながら、じっと彼の話を聞いていたが,彼が話し終わると、「報告はそれだけか?」と尋ねた。

倅は黙って懐から豪商の一番大切にしていた、高価な宝石を取り出して父の前に出した。父は満足気に倅を見つめて、「うん。それでよい。もはや何も教えるところはない。お前は極意をつかんだ」。(五祖禄より)