国の「縦軸」と「横軸」

序めに

国を一つの織物に例えてみる。織物は縦糸と横糸で編む。国に例えれば、縦糸が民族の基調をなす文化伝統であり、横糸が時代の変遷と共に紡がれたものと言えようか。これは何処の国とて同様であろう。その縦糸を国の「縦軸」とし、彩なす横糸が国の「横軸」であろうか。

 

「縦軸」に就いて

織物の例を国に置き換えると

1.我が国は、世界唯一の稀な形態を持つ国家である。天皇というひたすら、仁徳を希求し、国民の平穏安全を祈念する、世界の国々の羨む「政経分離」の元首を、二千年に亘り、「男系の血筋を元首として」一系してきた。言うならば「世界遺産」に匹敵する存在の日本の天皇である。これは「世界の文化人類遺産」であり、人類の叡智の所産とも言える。

 

2. 我が国の創生は、その天皇を核として生まれたという絶対的事実、それが連綿として二千年に亘り繁栄、発展しあらゆる文化、芸術、伝統が育まれてきた事実がある。又、それがそのまま21世紀の先進国として健在し益々発展しているという、これまた絶対的事実。これは、世界史に稀な奇跡的史実である。

 

3.このように、日本国は天皇を語らずして日本を語ることは出来ない。好むと好まざるを問わず、陰に陽に日本人はその皇室の(たなごころ)の中で生きてきたのである。極端に申せば、日本民族は天皇を「総親」・宗家とした一家なのである。天皇に姓がなく、名のみであることが国民に対し不偏平等の存在であることを如実に物語っている。また天皇の名前には必ず「仁」が名付けられている事も、諸外国の王室に比べて大変誇り得ることなのである。(じん)忠恕(ちゅうじょ)は天皇の根幹を示す思想であり、連綿とした歴史的事実なのである。

 

4.これを日本人個人に比例すれば、我々に親があり祖父があり、曽祖父があり、先祖代々がある。自分の存在は、これらの祖先の依って然らしむものであり、永遠に繋がった存在である。国であれ、個人であれ、これらのものは総体的に「縦軸」と言える。自分の祖先を大切に思わぬ者はおるまい。自分の祖先と同様な存在が日本国の歴史であり祖先なのである。

 

5.他国の元首、アメリカのクリントン大統領、女性関係の醜聞は記憶に新しい。イランの皇帝は政権崩壊時、お金を持ち外国に逃亡した。北朝鮮の最高指導者は国策として犯罪行為の拉致を命令する、このような元首の存在は世界史の中には数多くある。

若し、田中角栄が元首になれば、彼の過去を知る日本人は到底信服できまい。さすれば、国家は大混乱となるは必定である。

敗戦直後、占領軍司令官のマッカーサーを訪問された昭和天皇は何と言われたか「私の身は貴職に預ける、国民を餓死から救って欲しい」と。このような元首は世界歴史を顧みても記憶が無い。天皇の神格化は無用である、だが、政治的に超然として2000年間、八百万の神々に国民の平穏を祈り続け、自己抑制による「徳」を求め続けてこられた天皇という存在る。この存在を「人類の叡智」と言わずして何と言うべきか。

多くの在日外国大使が離日に際して、昭和天皇に拝謁し涙を見せて離日する所以が分かるではないか。多くの日本人は、その有難さは無意識には分かっている、だが、為にするマイノリティの反日リベラルが故意にこれを(さげす)もうとしているだけなのである。

 

6.祖先の歩んだ事実が国史である。それが我々日本人の「縦軸」である。自己の確立を知的な人間ほど希求し、自己確立に努力する。否が応でも、自分のアイデンティティは先祖に在る。

個人と同様に日本民族のアイデンティティは日本人の祖先に在る。その祖先が歩んだものが日本歴史であり、それが原点となる。さらば、自己を確立するには国史を学ばなければならないのである。祖先の事績を知らずして自己の確立など出来る理由はない。(いわん)国家に於いておや。

 

7.そして、国史を紐解けば日本人はやはり「日本の神様」即ち「神道」に帰結してしまう。神道は、キリスト、イスラム、ユダヤのようなゴッド(唯一絶対神)ではない、「日本の神様」なのである。古代から、天地・自然を(あが)め、その恵みに感謝する「自然崇拝」が日本の神様(神道)の本質なのである。

端的な例が、ギリシャのパルテノン神殿、これは単なる廃墟に過ぎまい。日本では、延喜時代、既に全国には9万の神社があったが延喜5年、905年の『延喜式(えんぎしき)』の神名帳には、2861社の国家公認の神社が掲げられており、北は奥羽から、南は大隅・薩摩に及んでおり深く国民に浸透していたのである。その神社が今尚、各地に鎮守の森として、恰も神様は生きておられるように佇み国家を鎮護し、国民を鎮守しておられ、元旦など8千万人の国民が神社に参拝する。これは神道が日本人の血肉となり日本人の心に深く宿していることの証左である。

これらが日本人の縦軸そのものなのである。

 

この日本の「縦軸」が現代人の意識の中で、大揺れに揺れて溶解しそうなのである。日本の「背骨」に相当する「縦軸」が、日本の伝統断絶により溶融してきたのである。

あらゆる日本の混乱、混迷、迷走は、この縦軸溶融に起因する。現今日本は、最大級の速度でこれを復元しなくては、「日本が日本でなくなる」所まで来ているのである。

 

「横軸」について

縦軸溶融の危機と申したが、それは横糸が強くなり縦糸が霞んできて本来の織物の体をなさなくなったのである。

なぜ横糸・横軸が強い基調となったのか、如何にすれば本来の基調を復元できるのか。それは

1.「まともに先祖を正しく見直すことに尽きる」

2.「それは国史の真実を知ることである」。

 

では、何故、ここまでに到ったのかであるが、

1.   直近の原因は、余りにも伝統を捨て去ったことであるが、契機は、対米敗戦の結果、アメリカ占領軍命令による戦前日本のあらゆる伝統が完膚なきまで否定され、強圧的に排除されたからである。

それが恰も遅効性の毒薬の如く日本全身に行き渡り戦後60年にして「真の敗戦を深く味わう」破目となっているのである。

本来なら、昭和27年日本独立直後から、伝統再建を図るべきであったが、社会党、共産党、民主党、日教組等公労組がどっぷりと反日左翼に浸かり、政権党の自民党も多くの国民も「経済一辺倒の金権本位」となり、重症の拝金症のまま今日に到ったからである。

 

その結果、敗戦後60年の間に、二世代の日本人が余りにも「アメリカナイズされてしまった」ことに尽きる。ここに伝統の断絶が発生したのである。

 

2.   過去の大きな横糸は、明治初期の、鹿鳴館(ろくめいかん)に代表される「欧米化」が余りにも急速過ぎたまま底流となり自己の価値の高さを知らぬまま「舶来至上主義」から脱することなく推移し欧米崇拝の気運が日本人の体質化されてしまったことも否めない。

そのような日本人の土壌の上に、敗戦後自覚無きまま、一気にアメリカ化が進み、「自己喪失」しているのである。

明治初期は、西欧に対抗上、彼らの文明の咀嚼は必要なものであった事は否定しない。だが、敗戦までは、「和魂」という「縦軸精神」を大多数の日本人が(しっかり)りと保有した上で「洋才」を活用し、「横糸・横軸」は主軸にはならなかったのである。

 

これらの、欧米文化、「明治の強い横糸」が第一の「横軸」である。だが、「主軸」ではなかった。

敗戦による「強い、強いアメリカの横糸」が第二の「横軸」、否、「主軸」となってしまったやに見えるのである。縦軸が殆ど霞んだ「日本模様の織物」になっているのである。

明治の「横糸」は強いものであった。だが、欧米の文明・科学が「国字」という素晴らしい「術語」に西周(にしあまね)氏等が創造的に翻訳し欧米文化の日本化に著しい貢献をした如く、明治は決して「和魂」は喪失しなかったのである。

余談だが、その「国字」は二十万とも言われ、それが中国・韓国に輸出され彼等の近代化に大貢献して今日に至っている。(例:中華人民共和国の中華以外の人民も共和国も「日本国字」である。)

 

だが、戦後の「横糸」の主流であるアメリカ文化は、「横文字」又はカタカナのまま、政治・メデイア・社会・国民間に拡散し恰も「アメリカ植民地」の体をなしている。アメリカ文化の「横糸」が主軸となっているのである。

「縦軸」を顧みない、学ばない、教えない、知らない、故に横糸が当たり前の如き現代なのである。それは「和魂」という「縦軸の精神」が欠けたままだから、「日本人でありながら外国人」の如き様相を呈していると見る。その自覚も無い国民ばかりになっていると思考する。

 

尚、古代から奈良時代までは、中国文明という強い、強い「横糸」で日本織物を作ったのは間違いない。だが、平安朝には既に日本は独自の文明を作り上げていた。米国のハンチントン教授はそれを指摘し、「日本は世界八大文明の一つ」であるとしている。それ以降千年に亘る縦糸が、日本という織物の主軸であり縦軸なのである。

 

「縦軸」の主軸について

更に、縦軸の主軸の主軸は「日本の神様」であり、その「簡素・清潔・感謝の精神」こそ21世紀の地球を救う原理ではないかとさえ確信的に思える。

古代から八百万の神々や大自然の偉大な働きを考えて「我々の身体は地球からの借り物」という日本人の思想は科学的に正しい。身体の凡ての元素は地球からの借り物で、我々は一定期間地球に存在したら身体をすべて地球や宇宙に返還する。だが、地球の破滅的現状を齎した原理の思想は「西洋の原理」である。21世紀は、「生命の元の親」であるその地球に感謝し自然と共に生きるという日本的存念が世界人類に必要になってきたと言えるのである。

「日本の原理」は「森の原理」即「神道の原理」
その思想の根幹にあるのが神道である。森の中で祈ることを日本人以外は考えつかなかった、森こそ生命の泉であり神である。人類の文明は森の在る所、必ず文明は興り発展している。日本は縄文の太古より21世紀の現在まで国土は深い緑に覆われ愈々栄えている。それは日本民族が古代から森との共生・共存の思想で生きてきたからである。「日本の原理」は「神道の原理であり森の原理」と言える。

これに対して西洋の原理は物質主義に根ざし、大量生産・大量消費の思想を生み自然破壊を招いた。西洋文明は原理的に自然征服・破壊の欲求から生まれた荒々しい文明で、現在の地球環境破壊の思想的元凶である。現在の地球環境破壊はこの西洋原理が破綻しつつある事を示す。このような視点から帰納して行くと、日本の神様はまさに「地球環境保護神」と言える。この日本の神様の原理こそ21世紀の地球・人類の幸せを守る普遍的原理であると信ずる。

神道の原理は、自然と環境に優しく、世界を救う地球的原理だと我々は自信を持たねばならぬ。世界的歴史学者アーノルド・トインビーが伊勢神宮に参拝して「この聖地に於いて私はすべての宗教の根底的統一性を感得する」と感動し毛筆で署名した。神道こそ地球人類の危機を救うと、人類の大英知トインビーが予言した事に日本人は矜持を持ってよいと確信する。以上が「徳永の縦軸・横軸論」である。完