安岡正篤先生「易の根本思想」7
平成20年9月
1日 | 應と不應 |
初爻と四爻と相対し、二爻と五爻と相対し、三爻と上爻と相対するのであって、三つの相対に於いて、一方が陰爻である場合、他方が陽爻であれば、應或は正應と |
言い、同じ陰であるときは不應というのである。 陽と陽のときも亦然り。正應を吉と観、不應を不吉と観る場合が多い。不應でも吉とするのは二と五に多い。 |
2日 | 承・據・乗・比 |
六爻中、下爻が陰で、上の隣爻が陽なる時は、上に陽爻を承けるという。承は消極的作用である。 |
この場合陽は據るという。陰爻が陽爻の上にあって序を失うと観る場合を乗という。相隣接する爻同志を比(親)とする。大抵一方はーで一方は- -の場合を比とする。 |
3日 | 互卦 |
一卦のうちで、二爻と三爻と四爻とを下卦となし(互體という)、三爻と四爻とを上卦となし(約象)、これを合せて全卦となすものを互卦という。 |
澤火革の互卦は天風?である。革命の時、内に陰謀あり、秘密活動をする人物あることを暗示する。 |
4日 | 畫象 |
畫象とは、易の卦の畫の象形を観て、これを物の形に見立てることである。 |
例えば、山地剥の卦を、高い所に木の実が成って居ると見立てるが如き。或は山雷頤の図象を顎とみるようなものである。 |
5日 | 爻の變 |
易は變化を示す。宇宙は不断の造化である。宇宙造化の変転に応じてそれを示すものは易である。 |
變化にはおのづからなる法則がある。その法則に応じて動くものが易理である。 |
6日 |
爻の変化 |
例えば、乾為天の初爻變ずれば天風?。 |
二爻變ずれば天火同人。三爻變ずれば天澤履。 |
7日 | 爻の変化 |
四爻變ずれば、風天小蓄。五爻變ずれば火天大有。 |
上爻變ずれば澤天夬となるのである。その他、爻の變によって卦は様々に變ずる。 |
8日 | 二爻と五爻 |
いづれの爻も大切であるが、中なも重要なのは前述のように二爻と五爻である。 |
二爻は下卦の中心で、五爻は上卦の中心であるからである。 |
9日 | 爻の変化 |
二と五とに於ては五爻を更に重要の位とする。何となれば、二は中と雖も陰位である。 |
然るに五爻は上卦の中で陽位であるのみならず、五の数は生成の中数である。五爻は全卦の代表位に当る。 |
10日 | 初爻、三爻 |
初爻は基礎・土台というべきもので、未発より出発する初歩の地位である。三爻は、下卦の終わりで、上卦へ上らうとする危険な位である。 |
そしてこの爻は陽位にあって下卦の上位なるが故に、高ぶり、或は過ぐる意味を有する。又この位は、上卦に影響し、或は上卦よりも影響を直接に蒙る意味でも警慎を要する。 |
11日 | 四爻と上爻 |
四爻は陰位である。三爻の上に在って、君位である五爻に隣する位で、柔位なるが故に多くは消極的、受け身に居る。 |
そして初爻より三爻に至る下卦の終りを承け、同時に上卦の初めをなす位に居るのがこの爻である。物事これより変らんとする意味を有する。故に甚だ危険多き位である。 |
12日 | 爻の変化 |
上爻は、物事の終わりの、或は満ちた地位である。或は責任を退き、無位の境地に居る立場でもある。 |
既に変化の機を含む。その卦の性質によって、或は変って吉とも成り、或は凶ともなる。 |
筮法と占例 |
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13日 | 占筮の本質 その一 |
易経は元来卜筮の書である。故に秦始皇帝の焚書にも免れたと言われる。易経を学べば、占筮に興味を持つのと当然である。 |
然し、占筮は近代人と違って理論的思惟に長じない古人が、その代わりに近代人よりは素朴・純真で、敬虔と直感に富んでいたから、よく行ひ得たので、決して面白半分に行はるべきものて゜゛はない。 |
14日 | 占筮の本質その二 |
易経にも占筮は(けが)れては駄目だ(蒙卦)と言ってをり、「易は以て険を占ふべからず」(左伝昭公十二年)、 |
即ち人間を危くするような不正なことの成否を占うてはならないとしている。当然なことである。 |
15日 | 易の本質 |
又「卜は以て疑を決す。疑はずんば何ぞ卜せん」(左伝桓公十一年)である。学問の第一義は、窮して困しまず、憂へて意衰へず、禍福終始を知って惑はぬ(荀子・宥坐)にあるから、聖人は卜筮を煩はさない(左伝哀公十八年)。 |
易経を深く学べば特にそうならなければならない。いかなる難事に遇っても、ここは易の何の卦の何の爻に当る。ここはこう之かねばならぬと自分で考定できなければならぬ。 |
16日 | 霊性の回復を |
荀子も善く易を為むる者は占はず(大略)と言っている。これは本筋である。凡人は疑多く、決し難い。 |
理知は疲れがちである。時に浅薄で、騒々しい理知の営みを排し、静座して無念無想になり、霊性を回復して、占筮を試みるのもよいことである。或は座禅して昏睡・妄想し易いのに勝るであろう。 |
17日 |
霊性の回復を 2 |
易経繋辞上伝第九章に筮法が出ているが、文章簡古で、意が明らかでない為に、古来諸家の解に少なからで異論があり、現在も本筮・中筮・略筮その他色々行われている。これを詳解する必要もない。 |
唯一つ最も便利な略筮を採録しておく。簡単明確で、時間を要せぬから、意識の統一を保ち易く、由って得た卦爻とその変を推定し易い。早暁・深夜、これによって得た卦を研究するうち、いつのまにか造詣を深めることもできよう。 |
18日 | 占筮の法 その一 |
まづ、筮竹と算木(卦を示す木)を浄処に備へ、その前に静座澄心する。 |
その上にて徐ろに五十策を執り、左手の掌にて筮竹の下部を軽く握り、右手で筮竹の中ほどを扶持するようにして額の上に捧げ、祈念を凝らす。 |
19日 |
占筮の法 その二 |
次いで、五十策より一策を抜いて太極とし、これを別に立てておく。神道ならば、「ひもろぎ」を立てるのである。 |
残りの四十九策を捧持して、無念無想の極、妙機にピシリと右拇指を利かして両分する。 |
20日 | 占筮の法 その三 |
この時、筮竹が拇指にひっかかるようではいけない。けい礙があるのである。右策(陰・地)を置いて一策を拾いあげ、小指と無名指との間に挟む。 |
これを(ろく)に掛くと言う。 筆架のような掛ろく器を用いるのもよい。人の位を示す。 |
21日 | 占筮の法 その四 |
左策を春夏秋冬の二本づつ、或は天澤火雷風水山地と読みながら一本二本三本四本五本六本七本八本と数へ、八拂ひを繰返し、八で割り切れ、又は割り切れなかった時、掛の一を加へ、残り一なるときは天、二 | なる時は澤、三なるときは、火、四なる時は雷、五なるときは風、六なる時は水、七なるときは山、八なるとき即ち割り切れた時は地。かくて出来た卦を下卦となし、次に前と同じく八拂ひして残りの数により上卦を出す。以上二回で全卦が出来る。 |
22日 | 占筮の法 その五 |
次に、四十九策を両分し、右方の中より一本取って、左の小指と無名指の間へ挟むことは前と同様にするのであるが、今度は二本づつ天地人と六拂ひ、或は一二三四五六と六本宛を拂ひ去りて(復し |
残数一なるときは初爻変、二残りは二爻変、三残りは三爻、四残りは四爻、残五は五爻、残六は上爻が変るということになる。以上三度の分筮で、本卦と変(之)卦とを得ることになるのである。 |
23日 |
活断は信念 |
晋の公子重耳(後の文公・春秋五覇の一)が亡命先より、革命の為、故国に帰ろうとして占はせ(左伝)、屯の豫に之くに遇った(古筮法による)。 |
係りの役人は皆不吉とした。屯の卦辞に往くところあるを用ふる勿れとあり、豫卦を見て、閉ぢて通ぜずと判断したのである。 |
24日 | 信念と見識を |
司空季子はこれに対して、屯も豫も、侯を建つるに利し。特に豫は師を行るに利しといっている。 |
国家の為だ、これより吉いことはないとした。判断によってこうも違うものである。信念と見識がなければ活断はできない。 |
25日 | 足利義昭の失敗 その一 |
足利義昭が近江・若狭と流浪して、越前の朝倉義景の許に冷遇され、立ち往生してをった時、織田信長の興起を聞いてこれに頼る可否を泰華に占はせた。 |
地澤臨の五爻変、水澤節に之くと出た。 |
26日 | 足利義昭の失敗その二 |
爻辞に、知臨。大君之宜。吉。「柔を以て剛に応じ、自ら用ひずして人に任ずる、吉」とある。節は「苦節、貞くすべからず」とある。 |
彼は遂に信長の許に投じた。然しながら、彼は遂に知臨の哲学がなく、苦節の修養なく、上爻の敦臨を知ることができずに失敗してしまった。 |
27日 | 佐久間象山 |
佐久間象山は易を精研した人であるが、その伝によると、元治元年三月、将軍慶喜に召されて上洛を決意した。 |
それまで彼は毛利・島津諸侯の招聘にも応ぜず、松代に在って自重していたのである。門人の北沢正誠がかけつけて、先生は常に易を好んで事あれば、筮を執られるが今度のことは何と出ましたかと尋ねた。 |
28日 | さすがは象山 |
流石象山である。占筮は事に当って惑う時に用ひるものである。今度の行は、内外多難の国事に挺身するので、吉凶は問う所ではない、敢えて占筮を要せぬと答えた。 |
それでも大事の場合であるからと云うので、然らばと象山も意動いて筮したところが、澤天夬の上爻変、夬の乾に之くに遇うた。 |
29日 | 的中の占筮 |
卦辞に、王庭に揚ぐ。孚ありて號び、あり。戎に即くに利ならず。上六の爻辞は號ぶ无かれ。終に凶あり。伝に、終に長かるべからざるなりとあって、明らかに凶占である。象山は戒慎する外はないといって、遂に上洛を決行し、木曾より駿馬を求め、 |
都路と名づけ、これに乗って出立した。途中美濃の大垣で、小原鉄心を訪ね、談たまたまた易に及び、占筮の結果を語ると、鉄心は暗然として黙した。上洛して七月十一日山階宮邸に伺候し、帰途刺客の凶刃に斃れたのである。北沢はこれを知って、占筮を思い出し、痛哭してやまなかったという。 |
30日 |
易の効用 |
占筮は試むるにその道を以てすれば、実に好い修養になる。もし占筮家が心を用ふれば、随分人を救って、世に教化を及ぼすことができよう。 |
厳君平、城市に占筮を業とし、日に数人を観るだけで、毎に卦詞によって人に忠孝を教え、日に何がしか生計の料を得れば肆をたたんで簾を下し、老子を読んだ。好きな人である。 |