風姿花伝 世阿弥
この本は、どうして若い時に、育児の前に読まなかったのかと、悔やまれてならない書物であった。
老骨に残りし花
――老の身に残った幽玄な味わいこそ、「まことの花」と言うべきものだーー
岫雲斎「芸の究極を身につけ悟った者は、芸をせずして、芸の極致を感受させるものだ」
人生の七段階
世阿弥の説く7段階の人生は、何らかを失う「衰えの7つの段階」である。少年の愛らしさが消え、青年の若さが消え、壮年の体力が消える。何かを失いながら人は、人間はその人それぞれの人生を歩んで行く。然し、世阿弥は、このプロセスこそ、「失う」と同時に、何か「新しいもの」を得る試練とした。それが、つまり「初心」である。「初心忘るべからず」は正に至言である。後継者に対し、一生を通じて前向きに挑戦し続けよ、との「世阿弥の真願」であろう。
.似事の人体によりて、浅深あるべきなり。
(物学条々)
――物まねをするにも、似せる対象の人物によって、細部まで似せるのが良いとばかりは言えぬーー
岫雲斎「物まねと雖も、芸は品位が落ちる所まで写してはならぬのだ」
女懸り、仕立をもて本とす。
(物学条々・女)
――女の風姿は、衣裳や、その着様、身の持ちようなどを以て基本とするーー
岫雲斎「世阿弥の時代、女人への憧れは幽玄無上の美であった。たけた女人の風情は衣裳の着つようにより先ず生まれ出ている」
老人の立振舞、老いぬればとて、腰膝を屈め、身を約むれば、花失せて、古様に見ゆるなり。
――老人の立振舞は、年老いているからと云って腰や膝を屈め、身をちぢめては、花もなくなり、いかにも古くさい型にはまった風体になってしまうー
岫雲斎「老体を身に写すとは外形を真似るものではない。老の心の味わいである。若やぎを秘めて「老木に花の咲かんが如し」という気分を感じさせる所にある」。
能の位上らねば、直面は見られぬ物也。
――能に於いては、素顔も「面」と考え、その「直面」に能の位の到達度を見たのである。美貌もさる事ながら芸格の深さを顔に鑑賞する方向がみられるーー
岫雲斎「能の芸力、品格などが高く達していない者の直面(素顔のシテ役)は見てはおられないものだ。