佐藤一斎「(げん)志録(しろく)」その四 岫雲斎補注  

わが鳥取木鶏会で言志録四巻を5-6年前に輪読し学んだ。このホームページに記載されないのが不思議だとの声が関西方面からあった。言志禄は、指導者たるべき者の素養として読むべきものとされたものである。言志四録の最後の言志耋録(てつろく)佐藤一斎先生八十歳の著作である。岫雲斎圀典と同年の時である。そこで、思いを新たにして、多分に、愚生の畢生の大長編となるのであろうが、言志四録に大挑戦することを決意した。
平成23530日 岫雲斎圀典


平成23年9月度

 1日 88.

眼を高くつけよ
(ちゃく)(がん)高ければ、則ち理を見て()せず。 

岫雲斎
大局観あらば、物の道理が見えて迷うこと無く決断できる。日本人は島国で、国際的視野が低い、これだけ国際化したら日本人の目の高さの低すぎるのが危険因子となった。地方分権の怖さを痛感している。  

 2日 89.    
後世の毀誉(きよ)

当今の毀誉は(おそ)るるに足らず。後世の毀誉は懼るべし。一身の(とく)(そう)(おもんばか)るに足らず。 

岫雲斎
後世では拭うことが出来ぬから恐ろしいが、現世での毀誉褒貶は恐るるに足りない。自分自身の得失、利害は心配するに当たらないが、子孫に及ぼす影響はよく良く考えておかなくてはならぬ。

 3日 90

過去は未来への教訓

(すで)に死するの物は、(まさ)に生くるの用を為し、既に過ぐるの事は、将に来らんとするの(かん)を為す。 

岫雲斎
遠く昔に死んだものは生きている者の役に立ち、また遠く昔に過ぎ去った事柄は未来への教訓となる。
 4日 91.   

月を見て思うこと

人の月を()るは、皆(いたず)らに看るなり。(すべから)(ここ)に於て宇宙窮り無きの概を想うべし。  

岫雲斎

日本人は鑑賞的に月を眺めるが、一斎先生は、宇宙の果てしない事に思いを致せという。先進的なものが秘められており流石である。

 5日 92.    

花 

已むを得ざるに(せま)りて、而る後に(これ)を外に発する者は花なり。 

岫雲斎
花は、大自然の生気が満ち満ちて開くものだ。已むに已まれぬ我々の思い、精神の発露が物を実らせる。

 6日 93.   

自然の妙

布置(ふち)宜しきを得て、而も按排(あんばい)を仮らざる者は山川(さんせん)なり。 

岫雲斎
山や川の配置の妙を感嘆したのであろう。私は登山家だが、山には「安らぎ」が流れている。大自然の環境により微妙に異なる植生に驚くことばかり。

7日 94

()(どう)三則
その一

人は(すべか)らく地道を守るべし。

地道は敬に在り。

順にして天に()くるのみ。
 

岫雲斎
易経「天道(てんどう)下済(かさい)して光明 地道卑(ちどうひく)うして上行(じょうこう)す」なのである。
地道とは、敬でもある。人を敬し、己は慎むことなり。
さすれば、上行す。

 8日 95.  

 
()(どう)三則
その二

耳・目・口・鼻・四肢(しし)(ひゃく)(がい)、各々其の職を守りて以て心に聴く。是れ地の天に(したが)うなり。 

岫雲斎

身体の各部分は、夫々自己の職務に忠実に必死に働いて心の指図を受ける。
これは地が天に従うの道理である。

 9日 96.
()(どう)三則
その三

地をして能く天に()けしむる者は、天之を使()しむるなり。身をして能く心に(したが)わしむる者は、心之を使()しむるなり。一なり。 

岫雲斎

地が天の命をよく聞くのは、天が上で地を支配するからである。
同様に身体が心によく従うのは心が全体の機能をよく総括するからである。その理由は一つだ。

10日 97

百物皆来処あり

目を挙ぐれば百物(ひゃくぶつ)皆来処(みならいしょ)有り。()(かく)の父母に出ずるも、亦来処なり。心に至りては、則ち来処(いず)くにか在る。()(いわ)く、躯殻は是れ()()の精英にして、父母に由って之を(あつ)む。心は則ち天なり。躯殻成って天焉(てんこれ)(ぐう)し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚(ほろ)びぬ。心の来処は(すなわ)(たいきょ)()れのみ。 

岫雲斎

全てのものは、大元がある。心は何処から来たのか。

肉体は地の気のエッセンスを父母を通じて集められたものだ。
父母により肉体が完成すると天が宿る。

天が宿ると知覚が生まれるし、天が肉体を離れると知覚も滅する。

故に、心の由って来るのは太虚、則ち宇宙の本源からである。

11日 98.    

 
気は自然の凝縮
気に自然の形有り。結んで体質を成す。体質は(すなわ)ち気の(あつま)れるなり。気は人人(ひとひと)異なり。故に体質も亦人人同じからず。(もろもろ)其の思惟・運動・言談・作為する所、各々其の気の()くる所に従って之を発す。()(せい)にして之を察するに、小は則ち字画・工芸より、大は則ち事業・功名まで、其の(あと)皆其の気を結ぶ所の如くして、之が形を為す。人の少長童稚(しょうちょうどうち)の面貌よりして、而して漸く以て長ず。既に其の長ずるや、凡そ(あと)を外に発する者は、一気を推して之を条達すること、体躯の長大にして已まざるが如きなり。故に字画・工芸若しくは其の結構する所の堂室(どうしつ)園池(えんち)を観るも、亦以て其の人の気象如何も想見す可し。 

岫雲斎

人間の気は天・大自然より夫々が別々の形で受けている。

気は万物創造の大元である。

人間の思考も、運動も、言論も、仕事も、その気が発動したものだ。

人間の為すあらゆる作為はこの気から発現し、全て異なる発現をしている。

その人間の作為の結果である産物を見れば、その人の気質が想像できるのである。

12日 99

性と質
性は同じゆうして質は()なり。質の異なるは教え由って設くる所なり。性の同じさは、教の由って立つ所なり。

岫雲斎
人間の本性は同一だが気質が異なる。そこに教育する必然的理由がある。本性が同一だから人夫々に相応しい教育が望ましい。

13日 100.
人倫は重し その一

人君は社稷(しゃしょく)を以て重しと為す。而れども人倫は殊に社稷より重し。

社稷は棄つ可し。人倫は棄つ可からず。
 

岫雲斎
社稷、この概念は戦後余り知らない。社は土地神。稷は五穀神。国王は戒壇を設け祭祀を行う。社稷とは国家のことである。大名は領土を大切にするが、人間の踏むべき道徳は、領土より大切だから領土を棄てても人倫を棄ててはいけないと一斎先生は言う。近代国家を棄てよという意味ではない。

14日 101 

人倫は重し その二

或ひと疑う。成王、周公の三監(さんらん)を征しなば、社稷を重んじ人倫を軽んぜしに非ずやと。予謂う、然らずと。三叔(さんしゅく)()(こう)を助けて以て(そむ)けり。是は則ち文武に(そむ)きしなり。或王、周公たる者、文武の為に其の罪を(ちゅう)せずして、故らに之を騙して以て其の悪に覚せんや。則ち()お是れ人倫を重んぜしなり。 

岫雲斎

成王、周公は聖人と言えるが、三監(さんらん)を討伐した。

自分の先祖等の反逆者を討伐しないで三人のなすままにしてその悪には組みする事はできない、成王、周公は人倫の道を選んだのである。

15日 102.

上より禍が起きる
諺に云う、禍は(しも)より起こると。余謂う、是れ国を亡ぼすの言なり。人主をして誤りて之を信ぜしむ()からずと。凡そ禍は皆上よりして起こる。其の下より出ずる者と雖も、而も亦必ず致す所有り。成湯之誥(せいとうのこう)に曰く、(なんじ)万方(ばんぽう)の罪有るは()れ一人に在りと。人主たる者は、当に此の言を(かんが)みるべし。 

岫雲斎

禍は上より起きる、大名はこれを信じてはならぬ。

全ては上から起きるものだ。例え下から出た禍も、上に立つ者がそうさせている処のものがある。殷の(とう)(こう)の模範的な言葉がある。それは「四方の国々の人民に罪悪があるのは自分一人の責任である」と。上に立つ者の在り方次第だということ。
上の者の在り方が全ての鍵を握るのだ。

16日 103

.井田(せいでん)の法

(せい)、十が一に止まれば則ち井田なり。経界(けいかい)(まん)にせざれば則ち井田なり。深く耕し(おさ)(くさぎ)れば則ち井田なり。百姓親睦すれば則ち井田なり。何ぞ必ずしも方里(ほうり)九区に拘拘(くく)として然る後井田と為さんや。 

岫雲斎

征は税、井田は殷・周時代の田制。田を九等分して井の形とし、周囲を八軒に分ける。税金が収穫の十分の一であれば井田法の原理に適う。則ちお上の管理が行き届き田地区画も明快で乱れていない。田をよく耕し、十分除草しておればそれで十分。
徒に法にかかずらうことはない。

17日 104. 

()禄の法

()后氏而来(こうしこのかた)(じん)(くん)皆子(みなこ)に伝う。是れ其の禄を世にするなり。人君既に自ら其の禄を(よよ)にして、而も人臣をして独り其の禄を(よよ)にすることを得ざらしむる者は、斯れ亦自ら(わたくし)するならざらんや、故に()(ろく)の法は天下の公なり。 

岫雲斎

皇帝が地位を子に譲り、臣下には禄を伝えさせないならそれは私であり、公ではない。

18日 105.      

無用の用 その一
天下の事物、理勢(りせい)然らざるを得ざる者有り。学人或は(すなわ)ち人事を(しりぞ)けて、(もく)するに無用を以てす。殊に知らず、天下無用の物無ければ、則ち亦無用の事無きを。其の斥けて以て無用と為す者、(いず)くんぞ其の大いに有用の者たらざるを知らんや。若し輒ち一概に無用を以て之を目すれば、則ち天の万物を生ずる。一に何ぞ無用の多きや。材に(あた)らざるの草木有り。食うべからざるの禽獣(きんじゅう)虫魚(ちゅうぎょ)有り。天果して何の用有ってか之を生ずる。殆ど情量の及ぶ所に非ず。易に曰く「其の(ひげ)(かざ)る」と。(ひげ)亦将(または)た何の用ぞ」。 

岫雲斎

人間は簡単に、無用と物を考えてはならぬ、自然の趨勢と言うものがあるとの趣旨。

事実、世の中、みな存在理由はあり、自然の成り行きでそうなるというものがある。

学者・知識人は目先の理屈で非難、排斥し無用視するが、大自然には無用の物、無用の事も無いと知るべし。

(あご)(ひげ)は何の役に立つのか、簡単に物を考えないことだ。

人間が万物の原理を知らないだけなのだ。

19日 106      

無用の用 その二

凡そ年間の人事万端、(かぞ)(きた)れば十中の七は無用なり。但だ人、(へい)(せい)()り、心寄する所無くば、則ち間居(かんきょ)して不善を為すことも亦少なからじ。今貴賎男女を連ね、(おおむ)ね無用に纏綿駆(てんめんく)(えき)せられて、以て日を(わた)れば、則ち(おも)い不善に及ぶ者或は少なからん。(ここ)も亦其の用ある処なり。蓋し治安の世界には然らざるを得ざるも、亦理勢(りせい)なり。 

岫雲斎

一年間の仕事の七から八割は無用、人間は平和な時代には、心を寄せるものが無いと小人閑居して不善をなすものである。

今の世は、上から下まで、男女を問わず無用のものに引き廻されて忙しくしている、悪事を思いつくのも人間である。

太平の世というものはこのようなものである。

現代日本の事のようだ。

20日 107
  
本性と()(かく) その一

性の善なるを知らんと欲せば、(すべか)らく先ず悪を為すの由る所を究むべし。人の悪を為すは、果して何の為ぞ。()目鼻(もくび)(こう)四肢(しし)の為に非ずや、耳目有りて而る後に声色(せいしき)に溺れ、鼻口有りて而る後に臭味(しゅうみ)(ふけ)り、四肢有りて而る後に安逸(あんいつ)(ほしいまま)にす。皆悪の由りて起こ所なり。()し躯殻をして耳目鼻口を去り、打して(いっ)(かい)の血肉と()さしめば、則ち此の人果して何の悪を為す所あらんや。又性をして躯殻より脱せしめば、則ち此の性果して悪を為すの(そう)有りや否や。(なん)(こころみ)に一たび之を思わざる。 

岫雲斎

性善説の解明を試みておられる。
人がなぜ悪をするのか。

耳や目があるから音楽や女色に溺れる。

鼻や口があるから匂いや味に耽る。

手足があるから、これを動かさずに安楽を求める。

これらが悪の原因という。

これらの耳目鼻口を身体から取り払い一つの血肉の塊となればこの人間はどんな悪をなすのか。

また人間の本性を取り除けば、この本性はどんな悪をなそうとするのか。

考えて見ては如何。

21日 108.  

本性と躯殻 その二

性は(これ)を天に()け、()(かく)(これ)を地に受く。天は純粋にして形無し。形無ければ則ち通ず。(すなわ)ち善に一なるのみ。地は(ばく)(ざつ)にして形有り。形有れば則ち(とどこお)る。故に善悪を兼ぬ。地は()()く天()けて以て功を成す者、風雨を起して以て万物を生ずるが如き是れなり。又時有りてか、風雨も物も(やぶ)れば、則ち善悪を兼ぬ。其の謂わゆる悪なる者、亦真に悪有るに非ず。過不及有るに由りて然り。性の善と躯殻の善悪を兼ぬることは亦此くの如し。 

岫雲斎

人間の本性は天から、身体は地から受けたもの。
天は純粋で融通無碍で形無く善一筋。
地は色々形があるから制限もある。
時に善、時に悪と両用だ。
地は天から活力を受けて地の働きをする、風雨を起こし万物を生ぜしめる。
風雨は破壊があるから地は善悪を備えていると云える。

地の悪は真悪でない、本性が善であるからだ。
ただ活力オーバーか、不足かの問題である。

人間の身体が善悪を備えているのもこれと同じ原理である。

22日 109.

本性と躯殻 その三

性は善なりと雖も而も躯殻無ければ、其の善を行うこと能わず。躯殻の設け、本心の使役に趣きて以て善を為さしむる者なり。但だ其の形有る者滞れば、則ち既に心に承けて以て善を為し、又過不及(かふきゅう)有るに由りて悪に流る。孟子云う「(けい)(しき)は天性なり。惟だ聖人にして然る後に以て形を()む可し」と。見る可し。躯殻も亦(もと)不善無きことを。 

岫雲斎

本性が善であるにしても身体が無ければ善を行えない。
身体は心に使われて善を為すためである。
その心も身体の中に停滞すると善も為すけれども時には行過ぎたり及ばないで悪に流れてしまう。
孟子は「身体も顔色も天の賦与したものだが、聖人にして初めて天性通りに実践できる」と言った。
このように考えると身体も元々不善でないことが分かる。

23日 110

聖人は欲を善処に用いる
人は欲無きこと(あた)わず。欲は()く悪を為す。天既に人に()するに性の善なる者を以てして、而も又必ず之を(みだ)すに欲の悪なる者を以てす。天(なん)ぞ人をして初より欲無からしめざる。欲は果して何の用ぞや。余()う、欲は人身の生気にして、(こう)()精液(せいえき)(じょう)ずる所なり。此れ有りて生き、此れ無くして死す。人身の欲気(よくき)四暢(よんちょう)九竅(きゅうきょう)毛孔(もうこう)に由りて(ろう)(しゅつ)す。()りて躯殻をして其の願を(さかん)ならしむ。悪に流るる所以なり。凡そ生物は欲無き能わず。唯だ聖人は其の欲を善処に用うるのみ。孟子曰く「欲す可き、之を善と謂う」と。孔子曰く「心の欲する所に従う」と。(しゅん)曰く「(われ)をして欲するに従い以て治しめよ」と。皆善処に就きて之を言うなり。 

岫雲斎

人間に欲は本源的なものだ。だが、欲が人間を悪くする。天は本性に善を与えている。

その上にそれを乱すものとして欲を付加した。

欲は何の役に立つのか、なぜ初めから欲を無しとしなかったのか。

思うに、生身の人間の生気そのものが欲である。
身体の膏や精液の蒸ずる所である。
欲があってこそ人間は生きられるが無ければ死ぬ。
欲気が体内に広がり身体の穴や毛穴から漏れ出て欲望を盛んとならしめる。
これが悪に
流される所以である。
生き物は欲が無い訳には参らぬ。
聖人がその欲を善用するばかりである。
孟子は「思うままが善である」、
孔子は「自らの心のままに従う」、
舜皇帝は「心の欲する処に従って民を治めさせよ」と言った。

聖人は、欲の本質を理解して善用したのである。

24日 111.

人身の生気

人身の生気は、(すなわ)()()の精なり。故に生物必ず欲有り。地、善悪を兼ぬ。故に欲も亦善悪有り。 

岫雲斎
人間の活き活きとした元気は地気の精だ。だから、生物には必ず欲がある。地は善悪を兼ね備えているから欲にも善と悪がある。

25日 112.

欲を漏らすな

草木(そうもく)の生気有りて、日に暢茂(ちょうも)するは、是れ其の欲なり。其の枝葉(しよう)の長ずる所に従えば、則ち欲漏る。故に其の枝葉を()れば、則ち生気、(こん)(かえ)りて、(かん)(すなわ)ち大なり。人の如きも亦躯殻の欲に従えば則ち欲漏る。欲漏るれば則ち神耗(しんもう)して、霊なること能わざるなり。故に欲を外に(ふさ)げば、則ち生気内に(たくわ)えられて心(すなわ)ち霊に、身も亦健なり。 

岫雲斎

草木に生気あり日々伸張するは草木に欲があるからだ。

だが枝葉の伸びるに任せれば欲が漏出する。

だから枝葉を伐採すれば生気が根に帰り幹が大きくなる。

人間も同様で欲に任せておれば欲が漏れ出して精神消耗し、霊妙なる働きが失せてくる。
だから欲が外に漏れぬようにすれば生気が内に充実し、心は霊妙な作用をするし身体も健康となる。

26日 113

欲を(ふさ)

鍋内(かない)の湯、蒸して(えん)()を成す。気、外に漏るれば則ち湯減ず。(ふた)を以て之を塞げば、則ち気漏るること能わず。露に化して滴下(てきか)し、湯(すなわ)ち減ぜず。人能く欲を塞げば、則ち心身並に其の養を得るも亦此の如し。 

岫雲斎

鍋の中の湯が蒸発し湯気となる。
湯気が外に漏れると湯は少なくなる。
蓋で鍋を塞ぐと湯気は漏れないで露となり再び鍋の中に滴り落ちて湯は減らない。
欲を塞ぐと心も体もよく養生できるのと同様である。

27日 114. 

孝子(こうし)の表彰

近代孝子を賞するに、金帛(きんはく)(ぞく)(べい)を賜いて之を(あら)わす。頽俗(たいぞく)風励(ふうれい)するの意に於ては則ち得たり。但だ其の之を賞するには、当に(これ)孝子(こうし)の心に(もと)づくを可と為すべし。孝子の心は、親を愛するの外に他念無し。其の身の(かん)()すら、且つ甘んじて之受く、(いわん)や敢て名を求めんや。故に金帛粟米の()、宜しく其の親に厚くして其の子に薄くすべし。蓋し、其の子に薄くするに非ず。其の親に厚うする所以の者は、則ち其の子に厚うする所以なり。親を賞するの辞に曰く、「庭訓(ていくん)、素有り」と。子を賞するの辞に曰く「能く庭訓に従う」と。此くの如くなれば則ち孝子の素願足る。

岫雲斎

要するに孝行の子供の表彰に金銭物品を与えるが、それは親にした方がよいという一斎先生の主張である。

そうすれば親思いの子供も喜ぶし、親の教訓が良かったからとなるから孝行な子供は満足するだろう。

28日 115 
孝名ある者

孝名の(あら)わるるは、必ず貧窶(ひんく)、艱難、疾病(しっぺい)(へん)()に由れば、則ち凡そ孝名有る者、(おおむ)ね不幸の人なり。今若し徒らに厚く孝子に賜うて、而して親に及ばざれば則ち孝子たる者に於て、其の家の不幸を資として以て賞を()り名を(もと)むるに(ちか)きなり。其の心恐らくは安からざる所有らむ。且つ凡そ人の善を称するは、当に必ず其の父兄に本づくべし。此くの如くなれば、則ち独り其の孝弟を勧むるのみならずして、あわせて以て其の慈友を(すす)む。一挙にして之を両得と謂うべし。 

岫雲斎

孝行の評判の子供は大概にして不幸な境遇から生まれている。

やたらと孝行を褒めすぎると不幸の種で名誉・賞を獲得するに近く却って孝行の子供は内心不安に思うだろう。

善を賞賛するのはその父兄を元に行うのがよい。

さすれば、親には孝も兄弟には親睦を勧めるばかりか、親の子に対する慈の道、兄の弟に対する肉親愛を褒めることとなり一挙両得ではないか。

29日 116          

舜の大孝(だいこう)の名を喜ばず
古今、舜を以て大孝の人と為せり。舜は(もと)より大孝なり。然れども余は舜の為に此の名を称するを願わず。舜果して孝子たらんか。其の此の名有るを聞かば、必ず将に(しょう)(ぜん)として瑞懼(ずいく)し、(ただ)(はだえ)?(へん)()を受くるのみならざらんとす。蓋し舜の孝名は、そう不慈(ふじ)に由りて(あら)わる。瞽そうをして慈父たらしめば、則ち舜の孝も亦(みん)(ぜん)として(あと)無からん。此れ()と其の願う所なり。(すなわ)ち然るを得ず。故に舜只だ憂苦百(ゆうくひゃく)(たん)、罪を負い(よこしま)を引き、父の為に之を隠くす。思う、己れ寧ろ不幸の(そしり)を得んとも、而も親の不慈をして(ぼう)(はく)せしめじと。然り(しこう)して天下後世の論(すで)に定り、舜を推して以て古今第一等の孝子と為して、瞽?を目して以て古今第一等の不慈と為す。夫れ舜の孝名、摩滅すべからざれば、則ち瞽?の不慈も亦摩滅すべからず。舜をして之を知らしめば、必ず痛苦に()えざらん者有り。故に曰く、「舜の為に此の名を称することを願わず」と。 

岫雲斎

舜は大孝の人には間違いない。
だが一斎先生はそう云う事を望まないという。
舜が若しそれを聞いたら鍼で皮膚を突き刺される思いであろう。
父の瞽
そうが親としての慈愛を尽くさなかったから孝行の評判が立ったのだ。
舜は色々憂い、自ら罪を負い、父の為に父の悪行を隠したのである。
一斎は、舜が親の不慈愛な行いを白日の下に曝け出すまいと思ったのである。
後世になりその評価は決まり、舜は第一等の孝行、父は古今第一等の不慈愛なるものとなった。
舜を親孝行と称することは願わない。

30日 117  

      
国家の発生

上古(じょうこ)の時、人君無く、百官有司無し。人各々其の力に()み、以て生を()す。殆ど禽獣と等しきのみ。()の時に当たり、強は弱を(しの)ぎ、衆は()(あら)し、其の生を遂ぐるを得ざる者有り。其の間、才徳の衆に出ずる者有れば、則ち人必ず来り()ぐるに情を以てして宰断(さいだん)を請う者あり。是に於て()いて為に之を理解す。強き者、衆き者、其の直に屈して、而も其の義に服し、敢えて復た陵暴せず。

弱き者、(すくな)き者、()りて以て其の生を遂ぐるを得たり。此くの如き者漸く多く、遂に群然として来り()げ、自ら其の力に()む能わざるに至れば、(いきおい)之を拒絶せざるを得ず。是に於て衆必ず相議(あいぎ)して曰く、「()の人()かりせば(かん)(また)(おこ)らん。(なん)ぞ各々衣食を(いだ)し以て之に給し、是の人をして()た力に食むの労無からしめざる。則ち必ず能く我が為に専ら之れに任ずることを(がえ)んぜん」と。衆議(すなわ)(ととの)う。是を以て再び請いしに、才徳の者果して之を諾せり。是れ則ち(くん)(ちょう)の始にして、而も貢賦(こうふ)の由りて起こる所なり。是くの如き者、彼此(ひし)之れ有り。其の間、又才徳の(おおい)に衆に卓越する者有らば、次なる者も亦皆来りて命を聴き、推して之を上げ、第一等才徳の者を以て(これ)を第一等の地位に置く。乃ち億兆の君師(くんし)是れなり。孟子の()わゆる「(きゅう)(みん)に得て天子(てんし)()る」と。意も亦此れと類す。

岫雲斎

国家とか、指導者の発生過程を記したの。

大昔は君主も人民もなく各自、鳥獣のように自力で生活していた。強い者は弱い者をいじめ、少数は多勢に荒され生活できないものもいた。
才智や徳の有る者が、弱者や少数者の事情を聞いて公平な裁きを受けるようになる。
才徳者は紛争場に行き説き明かし、強者もそれに服して乱暴も無くなり安心して住めるようになる。

かかる事件が増えると才徳者は自分で働けなくなり裁きを断る。

そこで才徳者に皆が衣食を提供し専門的に裁くようになる。
これが君長の初めであり租税や賦役の始原である。

このような事が各地で起きた。才徳の最も優れた者が現れると命令を受けるようになる。

遂にその才徳者が第一等の地位に就く。

これが人民の君であり師である。孟子が言った、「賎しい田野の民の中に在っても徳さえあれば民の心を得て天子になれる」と。

似たものである。