「人つくり本義」その二 安岡正篤 講述 「人つくり本義」索引

          人づくり入門  小学の読み直し 

三樹(さんじゅ) 一年の計は(こく)()うるに()くはなし。

十年の計は木を樹うるに如くはなし。

終身の計は人を樹うるに如くはなし。  菅子・権修

平和22年9月

 1日 ヘレン・ケラー

あの世界の奇跡と言われるヘレン・ケラーは、二つの時に胃腸を悪くして脳膜炎を起し、とうとう失明して耳も聞こえなくなってしまった。然し、不屈の精進に加うるに両親の慈悲と、サリバンという立派な家庭教師等の力によってハーバード大学を卒業、数ヶ国語を話すと共に偉大な思想家、偉大な社会指導者にまでなったのであります。

 2日 保己一

日本では(はなわ)保己一(ほきいち)といった例もあります。吉田松陰は肺病であったし、王陽明もまた肺病であった。肺病で喀血しながら学問に、教育に、行政に、或は内乱の鎮定にそれこそ超人的な業績を残してえるのであります。

 3日 エドワード・グレー

また忙しいから時間がないとよく言うのでありますが、古来忙中激務の中に偉大な仕事をした人が沢山おります。例えば前大戦の時にイギリスの外務大臣をしておったエドワード・グレーは、小鳥の研究では世界的な権威であった。ローズベルトを迎えて森の中を散歩しながら小鳥の説明をしたのは有名な逸話になっております。彼は小鳥の研究の大家でもあったそうであります。

 4日 ロングフェロー

また私の好きな詩人にロングフェローという人がありますが、彼は毎朝食事前の15分ずつを利用してダンテの神曲の大翻訳を完成しております。

 5日 志の問題

また大阪近郊の八尾という所に住んでおった黙叟(もくそう)飯田武郷という人は、春日潜庵等の志士達と交りのあった国学者でありますが、当時大阪におられた有栖川家に仕えておった。昼は宮家に出仕し夜はお父さんの晩酌の相手をする。そうして老父が寝た後、大日本史を完成したのであります。
まあ、以上のような例でもお分かりのように、志がありさえすれば、貧乏も、多忙も、病弱も、鈍才も決して問題ではないのであります。

 6日 立志

立志は、言い換えれば我々の旺盛なる理想追求の求道心であります。この道心・道念を失うと、物質的な力、或は単なる生物学的な力に支配されるようになる。この頃の人間は特にそれが甚だしいのであります。

 7日

弱いから勉強が出来ぬ、忙しいから勉強が出来ぬ、となにも出来ないものばかり集るから益々何にも出来ない。出来るのは喧嘩だけ、何事も破壊しなければ気がすまない。これでは幾ら破壊しても本当のものは出来ないのであります。

 8日

そこで、一番大事な事は、己に還るということ、人各々をして己に還らしめるということであります。では如何にして己に還るか。我々にはこれを知る為にこの四日間小学を勉強しようというのであります。

 9日 小学とは

小学とは知識・学問を体現することである
さて、この小学でありますが、昔は、少なくとも明治時代までは、この小学を読まぬものはなかったのでありますが、今日はまだ大学は読むけれども、殆ど小学は読まなくなってしまいました。然し、小学を学ばなければ大学は分らないのであります。それは小乗を学ばなければ大乗は分らないのと同じであります。

10日 章楓山

私の好きな大家の一人に(しょう)楓山(ふうざん)という人がおります。明代の碩学で、王陽明とほぼ同時代に生きた人でありますが、或る時、新進の進士が訪ねてきて私も進士の試験に及第しましたが、これから一つどういう風に勉強すれば宜しいのでしょうか、ご教示願いたいと頼んだ。

11日

章楓山はこれに答えて言うには「なんと言っても小学をやることですね」と。言われた進士は内心甚だ面白くない。進士の試験に及第した自分に小学をやれとは人を馬鹿にするにも程があるというわけであります。

12日 言語・応対の間に自ら現れる

そうして家に帰り、なんとなく小学を手に取って読んでみた処が、誠にひしひしと身に迫るものがある。そこで懸命に小学を勉強して再び章楓山を訪れた。するとろくろく挨拶も終わらぬうちに章楓山が言った。「大分小学を勉強しましたね」と。びっくりして「どうして分りますか」と訊ねたところ、「いや、言語・応対の間に自ら現れておりますよ」と答えたということであります。

13日 embody

学問・知識などというものは単なる論理的概念に止まっておるうちは駄目であります。これを肉体化する、身につけるということが大事であります。所謂、体現・体得であります。西洋で申しますとembody或はincarnate ということであります。

14日 直ぐ顔や態度に現われる

そうなると直ぐ顔や態度に現われる。よく謦咳に接するなどと申しますが、しわぶき一つにしても同じことで、よくその人を現すものであります。

15日 謦咳

信州飯山の正受老人は、あの白隠禅師の師匠でありますが、実に峻烈な人で「終日ただ謦咳(けいがい)を聞くのみ」咳払(せきばら)いをするだけで滅多に口などきかなかった。然しその咳払いが弟子達にはなんとも言えぬ魅力であったという。

16日 原則を肉体で受け取るのが小学

体現して来ると謦咳にまで無限の意味を持つものであります。小学も然り、人間はかくあらねばならぬという原則をこの肉体で受け取る。これが小学というものであります。  

17日 三つの意味

この小学というものには大体三つの意味があります。
第一は初級の学校という意味で、昔宮城の一隅に置かれた国立の小学校のことであります。その後別の意味に使われるようになって、漢代に入ると色々の知識や学問の根底をなすところの文字・文章に関する学問のことを小学というようになり、更に発展して今度は仏教に於ける小乗と同じように、我々の日常実践の学問を小学というようになったのであります。

18日 朱子の学風 そうして、 我々の普通に言う小学というのは、朱子が先儒(せんじゅ)や偉大な先覚者達の(あと)を尋ねて、その中から範となるものを拾って内外二編、274条目とし、これを兎角知識や論理の遊戯に走り勝ちな弟子に与え、名づけて小学と呼んだのであります。
19日

然し、この小学は表向きは朱子の編著ということになっておりますが、本当は弟子の劉子澄という人が専らその編纂に当たっておるのであります。

20日

彼は元来立派な役人であり、学者であったわけでありますが朱子に会って初めて自分の今までやって来た学問が如何に浅薄であり、雑駁な知識・技術の学問であるかを悟り、そうして深く道の学問に入って行った人であります。朱子も亦この人を単なる弟子としてでなく道の上の親友として重く遇しておるのであります。

21日

朱子は名を()と言い(あざな)元晦(げんかい)と号した。元来は安徽省の出身でありますが、生まれたのは父の任地である福建省尤渓であります。父は韋斉と号し、これ又篤学の士であります。朱子の最も影響を受けたのは父の学友である李延平で、この人は実に超俗の人で、山水の間に庵を結んで学を楽しみ、書を読んで生涯を終った人であります。

22日

その延平の学んだのが羅従彦という人で、これも立派な篤学者。羅従彦の先生が名高い楊亀山で実にスケールの大きい内容の豊な人であった。亀山の先生が(てい)明道(めいどう)であります。

23日 知行合一

これらの系統を通じて見られることは、彼等の学問は単なる知識とか功利のためにする学問ではなくて、所謂体現・体得を重んじた知行(ちこう)合一(ごういつ)の学問であったということであります。これらの人々の人物・言行等を調べてみても、人間もここまで至るものか、とつくづく感ぜしめられるような人物ばかりであります。日本にも徳川時代これらの学問をやった人に偉大な人物が多いのであります。

24日

精神の革命なくして人間は救われない

それを考えると、今日は決して昔より進歩しておるなどと言うことは出来ないのであります。世の中の法律や制度を如何に変えてみても、イデオロギーを如何に振り回してみても駄目である。人間そのものを何とかしなければ絶対に人間は救われない。
25日

やはり人間革命・精神革命をやらなければならぬ、と言うことになって参りました。己を忘れて世のため、人のために尽すような、己れ自身が学問・修養に励んで、それを通じて人に感化を与えるような、そういう人物が出てきて、指導的地位に配置されるようにならなければ絶対に世界は救われない、ということが動かすべからざる結論になって参りました。要するに世の中を救うためには、先ず自らを救わなければならない、自らを救うて初めて世を救うことが出来るのであります。

文章の区切り上、この後は10月1日からとします。