人物と教養  安岡正篤先生講話 

安岡正篤先生が、住友銀行の主管者(しゅかんじゃ)(住友銀行では経営者の謂いであり部・支店長の事)に対して十回に亘り講話された事がある。時は昭和51年から52年にかけてであった。安岡先生の高弟である岩沢正二副頭取の時であった。その全講話記録を開陳する。
                  平成248月吉日 徳永岫雲斎圀典

 1日

序説

住友財閥、小倉正恒総理事のこと

先刻、御社の応接間にはいり、故小倉正恒大人(たいじん)の胸像を拝見、大変懐かしく思いました。小倉先生は私にとりまして、知己と称すべき人であります。ご承知のようにあの方は、非常に教養が高く、特に漢学がお好きで、その道には深い造詣を持っておられました。従ってその点でも、年齢や身分を忘れた、所謂忘年忘形の交が自然に生まれました。先生は漢詩がお好きで就中名高い幕末の志士であり詩人であった梁川星厳の詩を愛好され、自ら私財を投じて星厳の遺稿の出版もされております。

 2日 星厳

話が少し外れますが、この梁川(やながわ)(せい)(げん)が最も相許した親友の一人に、京都の春日(かすが)(せん)(あん)という、日本陽明学の大家があります。潜庵は学者ですが、なかなか英雄的な人で、不覇奔放で名高かった横井小楠(しょうなん)も潜庵には一目措いたようであります。西郷南州なども、潜庵には傾倒致しまして、弟の小兵衛と、後に明治天皇の侍従になりました村田新八の二人を、わざわざ鹿児島から入門させて、教を受けさせております。まあ、そういうことで、自然と星厳が話題となり、又それに関して親友の潜庵のことなども、よく小倉先生と話し合ったものであります。

 3日 小倉先生のこと

その後、戦局が悪化して大東亜戦争が破局に向いました時、小磯内閣の重光外相が中国を対象に顧問を置くことになり、大阪では小倉先生が、東京では結城豊太郎氏と私とか懇請されて、時を同じくして顧問を務めました。こうして先生と私とは、深刻な時局に肝胆を砕く同志として、又深くご縁が結ばれたのであります。先生は、後に日銀総裁になられた荒木栄吉氏等を補佐役に伴われて、王兆銘政府の顧問として現地に赴任されたのでありますが、当時を思い出すと、いろいろの事が限りなく浮んで参ります。或るとき、先生は、これは私があちらへ参ってお会いした時のことでありますが、こういうことを申されました。

 4日 貨殖伝

「かねて自分が愛読している「史記」の貨殖伝は正に中国経済通論ともいうべきもので、これを読むと自分が新しく着眼した中国経済の諸問題が悉く書かれてあって、驚くほど今日に当てはまる。何とか戦局がうまく片付けば自分は中国の経済開発に大きな希望と自信を持っておる」と。然し先生のそのような苦心や抱負もすべて水泡に帰してしまいました。

 5日 忙の字 さて、前々から浅井副頭取や岩沢常務から、御社に参って皆さんにお話をするように懇嘱されておったのでありますが、私は躊躇してはかばかしいご返事を申しあげませんでした。それはみなさんが御社のエリートで、大変ご多忙であるから果して話がしみじみと出来るかどうか、懸念したからであります。多忙は現代社会に共通の現象で、私もそれを免れぬ一人でありますけれども、人間、忙しいと、しみじみ話など聞くどころではありません。それどころか、自分の大事な心まで失ってしまいます事は、忙しいという「忙」の字がりっしん(べん)(うしなう)と書いてあることから見ても良くわかることであります。
 6日

佐藤一斎と言えば、幕府の大学総長の職に長くあった有名人でありますが、出身が美濃岩村藩であった関係で、藩の憲法とも言うべき「重職心得箇条」というものを作っております。これは17条から成っておりまして、凡そ重役たるものは是非共読んで味わうべき文献の一つでありますが、その中に「重役たる者は忙しいということを口にしてはいけない」と言うております。つまり、忙しいと、文字通り心が亡して、大事なものが抜けてしまうからであります。忙しさのために大事なものを失うようでは重役としての務めは果たせません。そういうことは、重役である皆さんは日常しばしば実感されることであろうと存じます。

 7日 相という字 そこで、私のこれからのお話は、その大事なものを失わぬ為の、或は忘れておるものを思い出して戴くための、そういうお話でなければならぬということになります。そうなると、これは責任と同時に能力を要することになりますから、ますます躊躇せざるを得ないのでありますが、それについては、「相」--みる(○○)という字が一つの答を出しておる、と私は思うのであります。ご承知のように「相」という字は、木扁(きへん)に目という字を書いてあります。これは、目が木の上に来るのが本当でありますが、目の下に木を置いた字では(たて)に長くなるので、右側に持ってきたわけです。同じみる(○○)でも「見」の方は、目が二本足の上に乗っておって、つまり立ったままの低い所からみるのですから、余り遠方は見えません。これに対して「相」は木に登って高い所からみるわけですから、遙か遠くまでみることが出来る。見通しが利く。言い換えれば、大所高所に立って先が見通せる、というのが相の意味であります。もっとも木に面してよくその木を観察する意味もあります。
 8日

人間・先を見通すことが出来て、始めて迷っておる者・目先の利かぬ者に対して教え助けることも出来る。そこで相の字をたすける(、、、、)と読む。また民衆や大衆というものは、みな目先のごたごたした事に振り回されて、先の事など考えない、わからない。その民衆に代わって十年・百年先を見通して大計を立て、彼らの生活を助けて幸福にするのが大臣の役目ですから、昔からシナでも日本でも大臣のことを何々(なになに)(しょう)と言うのです。 

 9日 「亮」の字のこと

これとよく似た字に諸葛亮の「(りょう)」という字があります。亮は高の字の下の口を取って儿=足をつけた文字で、やっぱり高い所から見通す意味のあきらか(、、、、)という字です。中国人は今でも手紙の終りなどに、亮察(りょうさつ)を請うという風にしばしばこの字を使っています。

10日 七十になってやっと

それで私はこの頃しみじみ感じますが、私は大学で政治学を専攻したのですけれども、東洋の政治学というものは治乱興亡の道理を明らかにするのが本筋で、西洋のそれとは大分趣が違うということであります。勿論、西洋にも民族興亡の歴史哲学はありますが、東洋ではそれが政治学の一番大事な意義・使命になっておるのであります。私はそういう学問を勉強して、いつの間にか一生の終わりに近づいたわけですが、七十という年になって、やっと自分や世の中というものが少しわかって来たような気がしたのであります。

11日 「暁」のこと ある朝、今まで何やらわけがわからず、闇の中に蠢いていたものが段々わかるような気がして来た時でありました。私がしみじみ「暁」という字に感じたのは・・・・。一夜、深更から調べものをしておりまして、気がついた時には、もう夜明けになっていました。ああ、もう夜明けだなあと、そう思ってしばし窓外に目をやった。いつか暁が近づいて、周辺がほのぼのと白み、今まで真っ暗闇で何も見えなかった景色が次第にはっきりと浮き上がって見えてきた。私はふと「暁」という字を思い出すと共に、この字をあきらか(、、、、)と読み、さとる(、、、)と読んだ、古人の心がしみじみとわかるような気が致しました。
12日

あきらか(、、、、)という字は外にも沢山ありますが、暁のあきらかと、夜の暗闇が白々と明けるにつれて、静寂の中に物のあやめ・けじめが見えてくる、物の姿がはっきり見えてくるという意味で、言い換えればそれただけ物事がわかるということであります。誰でもそうですが、若い時には夢中になって暮らしてきても、或る年齢に達すると、ちょうど暁を迎えたように、物事がはっきりしてくるものです。物事がはっきり分かるという事は、つまりさとる(、、、)ということです。

13日 「了」の字 もう一つ、同じあきらか(、、、、)でも、少し趣の違うのが「了」という文字です。これはあきらかと同時に、おわる(、、、)という文字であります。弘法大師の詩に「(かん)(りんに)独座(どくざする)草堂(そうどうの)(あかつき)三宝之声聞一(さんぼうのこえをいっ)(ちょうにきく)(ひとに)(こころ)有声人(ありいっちょうの)(こえで)(しる)性心雲水倶了々(せいしんうんすいともにりょうりょう)」という有名七言絶句がありますが、この場合の了々はあきらか(、、、、)という意味です。
また従って了にはさとる(、、、)という意味がある。漸く物事があきらかになり、人生がわかってきた時が、もうその生涯の終る時でもあるのです。人間というものは実に微妙なものであります。了の一字深甚な感興(かんきょう)を覚えるではありませんか。
14日 思考の三原則

そこで先ず、ものを考える上に大切な三つの原則を述べておきたいと存じます。
第一は、目先にとらわれず、長い目で見る。
第二は、物事の一面だけを見ないで、出来るだけ多面 的・全面的に観察する。
第三は、枝葉末節にこだわることなく、根本的に考察する。

15日 兎角、人間というものは、てっとりばやく安易にということが先に立って、その為に目先に捕らえられたり、一面からしか判断しなかったり、或は枝葉末節にこだわったり、というようなことで、物事の本質を見失いがちであります。 これでは本当の結論は出てきません。物事というものは、大きな問題、困難な問題ほど、やはり長い目で、多面的に、根本的にみてゆくことが大事でありまして、殊に人の上に立つ人ほどこれは心得なければならぬことであります。
16日 日本と中国
その歴史的文化的関係


近未来
周知の如く、現代社会はかってない変化の目まぐるしい時代であります。それで20世紀末、或は21世紀の文明社会はどうなるであろうか、ということで「未来学」というものも生まれて、「1985年グループ」だの「21世紀研究グループ「だの、と言った研究グループが世界のあちらこちらに、出来ております。そして、それらのグループには、少なくとも数年前までは「輝かしき21世紀」という合言葉があって、どちらかと言うと、非常に明るい、期待に満ちた見通しをしておりました。処が、それが次第に変って参りまして、昨今では寧ろ暗く考える傾向の方が強いようであります。
17日 シンギュラー・ポイント 例えば、現代は三Gの時代であると言われます。第一は、Great Change -大いなる変化の時代。今世紀末、或は来世紀になったら文明はどんなに偉大で輝かしい、幸福なものになっておるだろうか、現代はその輝かしい未来へ向かっての大いなる変化の時代であるというわけです。 処が、それがいつのまにか一変して、未来は決してそんなに輝かしいものではない、それどころか、Great Illusion-大いなる幻想であって、現代はその微妙な分岐点、物理学上の専門用語で言うと、シンギュラー・ポイント、singular point-特異点に当るということに変ってきておるのであります。
18日 考えてみるとシンギュラー・ポイントというものは決して物理学的だけのものではなくて、この人生・社会も亦多くのシンギュラー・ポイントによって左右されると言うことが出来ます。
19日 例えば、タバコの吸殻ぐいと思って油断すると、とんでもない大火事を起す。サラエボでセルビアの一青年が撃った一発の弾丸がオーストリアの皇太子に命中した。それがきっかけとなって第一次世界大戦が始まったのです。或る晩、忘年会を催して賑やかにやっておるうちに、遂に好い気になってふっと洩らした一言が、大事なシンギュラー・ポイントになって喧嘩になったり、折角の商談が破裂してしまったりする。また逆に、その一言が大いに共鳴されて、自分の生活・活動を好い方へ急転させることもあるわけです。
20日 何百枚の研究論文だとか長文のレポートだとかいうようなものよりも、案外片言隻句が多くの人生・社会を決定することもあるものです。人生も、社会も、自然も、シンギュラー・ポイントというものが左右している。従って、今日の輝かしい発明・発見が果して偉大なる未来のユートピアを作るかどうか、或は大いなるイリュージョンに終るのではないか、とこういう議論が深刻に行われるようになってきておるのであります。
21日 三Gの偉大な覚醒を そこで結論として、今こそ我々は本当にGreat Awakening-偉大なる覚醒をしなければならないということになるわけであります。
22日 この、グレイト・チェインジ、グレイト・イリュージョン、グレイト・アウエイクニングの三Gは、現代の専門家が斉しく指摘しておることでありまして、正に現代文明は非常な危機にあると言わなければなりません。特に恐るべきは大都市化の現象であります。もうメトロポリスの時代は遠くに過ぎ去って、今やメガロポリスからエキュメノポリスの時代に入って来ておる。日本も今世紀末には全人口の80パーセントが京浜・阪神など大都市に集まってメガロポリスを形成し、やがて日本列島全島がエキュメノポリスになるだろうと言われています。
23日 ギリシャの世界的な都市問題の大家ドクシャデス、アメリカの名高い人類学者エドワーヅ・T・ホール、或はロックフェラー医学研究所のルネ・デュボスや、先年亡くなりましたが世紀の偉人と云われたアフリカのシュペングラー、今度の大戦ではアーノルド・トインビー、また戦後では、スペインのオルテガ・イ・ガセ等々、凡そ世界的な学者で現代の文明に対して楽観しておる人は一人もおらないのであります。
24日 そういうシンギュラー・ポイントなポイントの時代に生きている我々は、従って余程注意しないと大事なものを失ってしまう。多忙であるという事は、同時にまた多くを失う危事に外ならないのです。仕事や研究に追われて、だんだん機械化してゆく、大事な心を失ってゆく、その大事な心を取り戻そうとする心掛けと努力が三Gに対する我々の根本問題である、言っても少しも過言ではないと思います。
25日 恵まれて来た日本 私は元来、東洋政治哲学を専攻したのでありますが、だんだん治乱興亡の活教訓に興味を持つようになり、それを研究して今日に到ってしまいました。その私の半生の学問・研究から申しまして、わが日本くらい歴史的に恵まれた国はありません。第一に地の利と言いますか、こういう大陸と離れた島国でありますからも他の大陸諸国のように異民族から攻撃されたり、征服されたり、或はそれに抵抗して、反乱を起すとか、革命をやるとかいうような惨憺たる悲劇を一向に経験することなく、建国以来、単一民族・単一言語の平和な一大家族的国体を持ち続けることができました。それは外に較べれば本当に穏やかで平和な民族生活でした。
26日 易姓革命の国・中国 その正反対がお隣の中国です。昔からシナ二十四史とか二十五史とか言われますように、中国という国は全く易姓革命の国家でありまして、夏・殷・周・秦・漢・隋・唐・宋・元・明・清というように始終王朝の姓が変っております。こういう姓の変ることを易姓というのですが、これはヨーロッパ諸国なども同じことであります。
27日 万世一系の日本 処が日本には、その易姓革命がない。神武天皇以来、万世一系の皇統を戴いている天皇国家・一大家族国家でありまして、外国のように血の混乱がありません。我々には親は二人しかおりませんが二十代遡るとその親の総数は百万を越え、三十代を越えると十億を越える数になる。そういう風にして段々われわれの先祖を辿ってゆくと、結局最後は皇室に到達するわけですから、日本は一大家族国家なのです。日本の皇室に姓氏がないのもこの為でありまして、こういう例は世界帝王史上類がありません。
28日 明治維新のこと 勿論、政権と争奪はありましたけれども、然しそれは決して天皇と統治の大権を争ったものではないのであります。明治維新をみてもわかりますように、徳川慶喜は300年近く握っていた大政を奉還しております。源頼朝が征夷大将軍を朝廷から受けて幕府を開いてより、700年も続いた武家政治を流血の惨事なしに、平和裡に返しておるのです。そこが明治維新を革命と言わずに維新と呼ぶ所以であります。
29日 天皇に謙虚な歴代英雄たち 初めて幕府を樹立した源頼朝も、天皇に対しては実に謙虚なものでありました。例えば、奈良の東大寺が平重衡によって全焼した時のことですが、復興がなかなか捗らないので結局、頼朝に援助を求めました。その時の頼朝が出した手紙が今も残っておりまして、それを読むと、「君の援助と書いてあるが、君とは私のことか、もしそうだとすれば、以ての外である。爾来、私に対して君という語を用いることはまかりならぬ」というようなことが書かれてあります。
30日 暴君と言えば織田信長などはその代表でありまして、長島一向宗徒の残虐な弾圧をやったり、叡山の焼き討ちをやったりしておるのでありますが、その信長も、朝廷と伊勢神宮に対しては実に敬虔でありました。後を継いだ秀吉にしても、後陽成天皇を聚楽第にお迎えした時には、自ら共奉の中へはいってお迎えしたということです。このように日本の国体は万世一系の天皇を戴いた単一民族・単一言語の平和国家でありますから、一面から言うと、洵に単純でドラマチックな興味に乏しいというものもあります。