平成に甦る安岡正篤先生警世の箴言」11
平成20年9月

 1日 選挙政治の堕落 大事な政治にしてもそうで゜す。東京・大阪を始めとして地方自治体の長から、各議会議員の選挙が終わったばかりで、今、政界は大変混沌としておりますが、そもそも日本の選挙制度そのものが今やシンギュラー・ポイントに達しておることは、よほど鈍感な者でない限り感得するところであります。 一例を申しますと、議会には委員制度というものがあって、商工委員会、文教委員会、運輸委員会等という風に色々委員会があります。その委員会は互いに分立・対立して、各々城壁を高くして他の者が干渉することを許さない。然し、政治というものは議会が中心でありますから、ここで議して行政にうつるのが本筋であります。
 2日 内閣官房 更に、その行政のヘッドが内閣でありますから、閣議というものは非常に権威のある重大なものであります。処が、大臣はどの大臣も特別の閲歴の 人を除いては行政的に素人が多い。だから次官任せになりがちであります。また次官会議というものがあって、これは内閣官房副長官が主催いたします。
 3日 素人の大臣

日本の法律では、各省庁長官が内閣の大臣を兼ねております。本当は行政の長官と内閣の大臣とは別個のものでありますが、それでは不便だというので一つになっておるわけであります。そこで官房長官なり、次官なりが、提出する書類をもって閣議に臨むのを通例とします。その閣議の席で堂々と国策が論じられ、国

家の運命、国民の死活に関する問題、或は世界の大勢に関して熱のこもった論議が行われるのが当然でありますが、然し、一応素人に等しい各省大臣でありますから、事実は官房長官や次官の報告だけで簡単に終わるのが普通であります。従って、国政は各省の行政事務及び議会の委員会の決定した事項を取り上げておるというのが現実であります。 
 4日

戦前の議会

また毎日の新聞やテレビで議会の模様を見ておりましても、真に私達が聞きほれるというような大演説がありません。戦前は中野正剛とか永井柳太郎等という論客がお って、大演説をやりました。
だから議場内は勿論のこと、日比谷公園などの演説会場に行きましても市民が会場を十重二十重に取り囲んで熱をあげたものです。
 5日 選挙の原理とは 最近、そういう国民の情熱を喚起するような演説がなくなりました。それどころか、選挙が始まると、よく見る光景ですが、運動員はもとより候補者までが、お願いします、 お願いしますとやっております。これは選挙の原理から言うても反対でありまして、国民が候補者にお願い申しあげるのが本当であります。
 6日 マツチーニの言葉 兎に角、日本の選挙は、今や堕落・脱線して、これでは議会制になりません。民主主義というものになりません。民主主義政治というものは政治学的に大体いくつかの結論が出でおりますが、 民主主義政治の定義とまで言われるのがこの前ご紹介しました「民主主義、議会政治というものは、一人一派の進歩ではなく、国民全般を通じて、民衆の中の最も善良で最も賢明な人々の指導のもとに国民全般の進歩をはかる」というマツチーニの言葉であります。
 7日 深刻な大問題 彼は民主主義というものは最も善良で最も賢明な人々の指導が必要だと言っておるのであります。頭がよいということと、賢明ということとは違います。色々な知識というものは勉強すれば誰でも相当できますが叡智というものは修養しなければできません。 西洋でも、これははっきりと区別しております。民主主義というものは知識人を出すのではなく、善良にして賢明な人々の指導のもとに国民全般の進歩を図るということでありますが、その選挙が全くナンセンスになって、国政も地方行政もだんだん駄目になってきました。これをどうするかが今や深刻な大問題であります。
 8日 安岡正篤先生の予言 こういう風に一々具体的にとりあげてゆけば、際限ありませんが、兎に角あらゆるものが行き詰まって参りました。最初はそれが発達と考えられておったものが、大枝から小枝、小枝から葉先へといってしまつて、遂にあがきがつかなくなり、これをどう回復するか、甦らせるか、ということがこの20世紀の終わりから21世紀にかけての 人類文明の深刻な問題であります。
そこで専門家はこの難しい大問題と取り組んで、回復が可能か不可能か、と白熱した議論を展開しておるのでありますが、一般の人は我関せず焉で実にのんびりしております。日本人は相対的にそういうことら対する自覚と努力が不足しておると申してよいと思います。
 9日 現代の破局回避を

この様に考えますと、本年・来年は一つの画期的な時局、難局になっておりまして、これを好い加減にしておくと、恐るべき色々の問題が発生するシンギュラーポイントに入ってゆくことは明瞭であります。

こういうことは心ある人々、見識ある人々は心得ておかなければならないことであります。その心得がありますと、少なくとも自分の生活範囲ぐらいは何とか補えましょう。
10日 母親の役割 例えば、子供が学校で給食を受けておるのであれば、母親は時々弁当をつくって、休みの日など、手弁当で一緒に出かけるとか、或は家族団欒して、母親の手料理で味覚の回復を図ってやる。 また学校の先生の極めて概念的、論理的、機械的な講義ばかり聞いておる子供には、たまには両親が家庭において情熱や感動のある小説、或は論文などを子供に与えて、読ませて補足する等、現代の破局から救う配慮が必要であります。 
家庭の崩壊は民族の滅亡につながる
11日 人間生活の核は家庭 去る二月十三日全国から私の知友が東京に集まって喜寿の祝賀会を催してくれました。これを記念して私は「日本の父母」という書物を作り皆さんに差し上げたのでありますが、なるべく一気に読んで頂けるように百数十ページにましめました。その書物の内容 の一部をご紹介したいと存じます。
今や、家庭というものが段々廃れ、文明社会化が、インターナショナルになるということが流行しておりますが、どんなに国際的になっても、人間生活の核は家庭であるということは世界の識者の動かぬ常識であります。
12日 家庭の核は「父」 その大事な家庭が次第に滅びんとしておるので、最近家庭の回復ということが喧しく言われるようになって来ました。これは恐らく文明国民の最も基本的な問題でありましょう。 その家庭を人類社会の中核とすれば、家庭のまた核は何かと考えますと、今までは母ということになっておったのでありますが、この頃はヨーロッパ、アメリカ等に於いては父だということになっております。
13日 深刻な家庭問題 父がしっかりしなければ、家庭は駄目だ、今までのように子供は母まかせ、女房まかせでは駄目だ、というのが共通の結論になっております。日本ではまだそういう議論が殆ど行われておりませんので、私は「日本の父母に」の本の中に、父というものの意義を解説しておきました。

これについては、今まで随分とお話を致しましたから、この上申し上げる必要はありませんが、大事なことは今やそういう文明の危機とか、公害とか、言うような深刻な問題が続発して、非常に恐るべき時期を迎えておるということ、これを忘れてはなりません。 

覇権問題について王道と覇道
14日 切実な国際感覚に乏しい日本人 先ず日本を取り巻く環境を注目いたしますと、よほどしっかりしなければなりません。日中の間で結ぼうという平和友好条約の案文の中に例の覇権問題があります。条約の中にそういう項目を入れるか否かが問 題になっておりまして、覇権という古い語が新しく生き返っております。
これは深刻な問題でありますが、日本人はこういう問題になると、どうもピンと来ない。即ち切実な国際感覚に乏しいのです。
15日 鈍い国際感覚の日本人 これ程、交通や通信機関が発達して、国際的に自由に旅行ができ、また日常いろいろな情報等を見聞でき、感覚が世界的になっておるのですが、どうも日本人は国際感覚が鈍い。 これは島民の民というものは大体そうでありまして、特に日本のような単純平和な歴史・文化、そしてそれによる国民性ともの程免れ難いと言えば言えますけど、然し、心掛け或は指導の如何によっては補正・是正もできるのです。それにその努力が足りません。
16日 切実感の無い日本人 例えば、ベトナム問題にしても、日本にとって痛切な問題であるにかかわらず、単なる他国の悲劇のように見ておって、いかにも実感が乏しい。況や、韓国問題になりますと、日本人は概して関心が薄いようです。 反対に韓国の方が日本に対して切実な実感を持っております。今日の国際情勢から申しますと、韓国と台湾は日本に最も近い国でありますから、若しこれらの国が日本に対して反対勢力となるようなむことになると、日本は本当に孤立状態となりましょう。
17日 謀略戦の近代 従って、日本としては、この両国に対して交誼・情誼を厚くすることが大切であります。世界の文明国、大国の中で日本ほどその立地条件の複雑な国がないということは幾度も申しあげました。 然も戦争というものが昔とまるで違って来ております。今までは戦争と言えば、武力が主体で、専ら武力戦であったわけですが、それが第二次世界大戦後、次第に武力戦から謀略戦・政治戦というものに移って参りました。
18日 叡智と勇気を 武力は後退して、直接交渉戦は専ら政治謀略に変わって参りました。特に日本は政治的、謀略的に最も危険な状態にありますから、我々は大いに研究し勉強して堂々として世を渡る心構え、叡智と勇気が必要であります。 ところが大国に対しては、どうも隷属国か衛星国のような迎合的態度が、政府はもとより、議員間や言論機関に見られるのは情けない限りであります。
19日 人間の政治原理 

第一
そこてで覇権という語を解明するために、人間の政治原理から言って、根本的な先ず四つの範疇について申しあげる必要があります。 第一が「道」であります。宇宙万物はこれがあるので存在することができる。これが無ければ存在できない、という根本的・本質的なものが道であります。
20日 人間の政治原理 第二 第二が「徳」。道に基づいて、これがあることによって人間が人間として存在し、発達することが出来る。即ち人間たる所以の最も本質的なもの、これが徳です。 道と徳を結んで道徳であります。西洋人は、宗教と道徳を分けますが、東洋では、宗教は道徳の中に入れております。
21日 人間の政治原理 第三 この道徳と言うものが、人間生活、社会生活の上に、政治とか、経済とか、文芸等になって作用する。この仕事を功利と申しまして功名の「功」の字をもって表しております。これが第三であります。 功業とか功利とかいうものは、徳に根ざし道に根ざすほど本物であり、それから離れるほど手段的になり、往々偽物になります。だから東洋では功利主義を嫌がり、道徳主義、徳利主義というものを尊重します。 
22日

徳利(とっくり)

酒入れる器に徳利というものがあります。これは西洋に無い東洋独自の言葉ですが、酒というものは独りで、こそこそと飲んでもうまくありません。 そこで、どんなケチでも、酒ただけは「一杯どうですか」と云って人にすすめるところから、徳利というのだそうでありまして、大変面白い言葉であります。
23日 人間の政治原理 第四 「覇道」 第四が、人間が人間を動かしてゆくエネルギー即ち「力」であります。 そこで政治、経済、軍事等を専ら力づくでやる功利主義を覇道と申します。
24日 王道 これに対する王道は、徳利、道利のように、利が深いむ精神的基礎に立つ場合を申し ますから、日本や中国を通ずる東洋の政治哲学では王道を尊んだのであります。
25日 複雑な中国人 元来、中国人は、非常に複雑な文化と心理を有する民族であります。長い年月にわたって栄枯盛衰を繰返し、 これに耐えて今日に至った民族でありますから、如何なる国民の一人と雖も中国人特有の複雑性を有しております。 
26日 人物と役者のいない日本人 これに較べまして日本の政治家や外交家はだんだん事務屋になり、外交交渉を例にとりましても、機械的になってしまいました。つまり人物と役者がいないのであります。このまま推移しますと、日本は内外の色々の問題の矛盾、行き詰まりと取り組まなければなりませんので型の如き従来の習慣 的、機械的なやり方では到底対応してゆけなくなります。どうしても、活きた人材、活人、活物が必要となりますので、このように人材、活きた人物が乏しくなりますと、ここに日本のまた一つの大きな行き詰まりが生じて、どうしても飛躍しなければならなくなる、そのギリギリが本年と思われます。
27日 優れた候補者難 先般行われた統一地方選挙をみましても全く候補者難です。優れた候補者が非常に少なくなりました。我々は痩せても枯れても日本は大国だと思っております。その大国日本の首都東京、その東京の知事を出すのに政権を担当している自民党の中に候補者がおらない。 これは昨日、今日の問題ではないのです。候補者などというものはもっと早く決まっておらなければならぬのが常識でありますのに、選挙直前になるまで決まらないというのはどう言うことでしょう。こういう点は外国人には全く理解出来ぬようです。然も候補者がおらぬのは都知事選ばかりではありません。何とも情けない限りであります。
28日

深刻な日本の弱点

そこで必要なことは人材の養成、準備ということであります。これは政治ばかりではありません・経済も、教育も、みな同じであります。よく時勢を洞察してその準備が必要です。人材が乏しいということは、今日の日本の最も深刻な弱点でありましょう。

何故そうなつたのかと申しますと、文明の一つの傾向が人間をそういう風にしたということです。そこで人間革命という議論が起る所以であります。然し、そういうことを申しておっても恐らく間に合いません。 

29日 国民の真の自覚が必要 とは言っても昔から「天下は自に人なしとせず」という言葉もありますように、国民の総てが真剣になって努力すれば、自ら人も出てくるというものであります。 いづれにしても今迄のような因習的政治では駄目であって、このままでは取り返しのつかない運命にあるということは、或る意味においては厳粛な事実であります。
30日 志を持ち覚醒を このように煮詰めてまいりますと、結局、人間は学問・修養しなければならぬということであります。ただぽかんとその日その日を機械的、因習的に暮らしておるというのでは、所謂迷える羊になってしまいますので、志ある者は本気に目を覚まして真剣に学問し修養すると いうことより外に日本及び日本民族を救う途はないということであります。
そういうことを自覚して書を読み、また人物を検討、研究する。これが活学でありまして、そういう意味において益々活学が必要であります。深く反省を要する問題であります。
(昭和50年4月25日講)