日本古代史の謎 その四 水野 祐氏より
第二講 古代史の概説
平成23年9月度
1日 | 建国伝説 二種の伝説の謎 |
さて、こうして渡航伝説と大和平定伝説の本質的な相違を把握してみると、この両伝説からなる神武天皇の建国伝説とは、異なる二種の伝説を後から組み合わせたものであると理解されます。そして建国物語の中心とみなすべきは、どちらかと言えば、今述べてきた検証・推理から、明らかに大和平定伝説の方であると考えられるわけです。 |
2日 |
従って、「古事記」「日本書紀」に伝えられている日本建国ので仮説を、日本国家の起源すなわち、日本の歴史の始まりとして理解することは無理ではなかろうか、そういう考え方をするに至ったのです。 |
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3日 | 神武天皇の実名 |
彦火火手出見命 一般の伝承の中で最も伝承され難い部分は何かといいますと、それは先ほども述べたように、固有名詞や数詞です。文字・記録のない時代のことであれば、この”法則”は、ほぼ確実に成立すると見られます。 |
4日 |
アイヌのユーカラなどを見ると、ユーカラは伝承者ごとに伝承の中心人物の名前が変化するのです。伝承者が伝えやすい形、覚えやすい名前で伝えられており、これは固定したものではないということができます。 |
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5日 | 記紀の編纂者だったら |
そこで、もし私たちが「記紀」の編纂者だったらと想像するならば、編纂に当たって次ぎのようなことになるのではないでしょうか。 |
わが皇室の始祖が偉大な人物で、その人が大和周辺の地を統一したという伝承は古くから伝えられている。しかし、その人の名前は分らない。かと言って名前なしで天皇家の歴史を記述するわけにはいかない。さて、どうしたものか?止むを得まい。その人の名に相応しい名前を考えて記すことにしょう。 |
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6日 | 苦労をした 「記紀」の編纂者 |
とまあ、こういうことになるのではないでしょうか。 |
7日 |
いずれにせよ、こうして当時の状況を考えて見ますと、”神武天皇”でなく、別の人でもいいということもできるわけです。 |
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8日 | 日本磐余彦は諡名か |
処が、神武天皇には彦火火出見命という実名が使われないで、神日本磐余彦命という尊号が使われています。この神日本磐余彦命は和風諡号といいますが、日本的な死後の諡名に似ているので諡名であるとすれば、この名前はずっと後に定められたとみてよいものです。従って、本来は彦火火出見命というごく簡単な名前で呼ばれていた時代があったけれども、それが後に神日本磐余彦命というようになったのだと理解することができます。 |
9日 | 「日本」のこと |
ちなみに「日本」という言葉が名前に入ってますが、この言葉がわが国の国号として用いられるのはずっと後のことです。 |
10日 | 和風諡号 |
天皇の名前に諡号が使われたのは奈良時代の初め |
11日 |
このように考えていくと、初代の天皇に神日本磐余彦命のように「日本」という文字が使われているのはこれらの元明・元正天皇時代に初めて使われた天皇の諡号と全く同じ系統のものではないかと疑わなくてはなりません。 |
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12日 | 同じ系統の諡号 |
そこで更に「記紀」を見ますと、第二代の綏靖天皇 |
13日 | 日本名 元明・元正天皇時代 |
こうしてよく天皇の名を見ていくと、結局、「日本」という文字、「やまと」という言葉を冠する一番古い頃の天皇は、「記紀」が編纂されたころの元明・元正天皇の時にやっと見ることができる一番新しい諡名を、後から与えられているのだと考えてよいと思います。つまり、一番古いころの天皇の名前は、奈良時代の用例によって付けられたのではないか。このことは、神武天皇が初代の天皇として後から作り出された天皇ではなかったかと思わせるものでは、史料批判の一つの材料になります。 |
14日 |
こうして、御名の「日本」という文字だけを考えても、” |
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15日 | 架空の天皇 |
私は、どう古く見ても、第四十代の天武天皇のころから、初代の天皇として神武という方がおられたのだと架空の天皇が伝説的に作り出され、「記紀」編纂が日程にのぼってきて諡名をつくらなければならなくなった時、当時の歴史家が認識していた元明・元正両天皇の諡名に似た名前を奉ったのだ、と考えます。 |
16日 | 「磐余=いはれ」の意義からみる神武天皇の実在性 |
天皇の宮殿が設けられた地域か? いま一つ、神日本磐余彦命の「磐余」という言葉について考えてみましょう。この「磐余」は大和の磐余という地名で、磐余彦は磐余の地域で生活しておられた首長と解することができます。 |
17日 |
然し、「記紀」は神武天皇の宮殿は橿原にあったと記し、磐余に存在したとは伝えてはいません。また「日本書紀」にある磐余の地名説話にしても、天皇の称号の由来とは全く関係がありません。 |
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磐余の宮の建設時期 |
それでは何ゆえに磐余の地名が名前に選ばれたのか。 |
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18日 |
一番新しいのが、31代の用明天皇の宮殿で、磐余の地につくられた池辺雙槻宮と言われている宮殿です。 |
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19日 |
磐余の地を聖地化する |
由緒ある地域に遷都する |
20日 |
例えば、飛鳥京にせよ、平城京にせよ、昔、帝都があったという由緒ある地域だという理由から多くの天皇たちはその地を新都にしたのでした。これは、遷都を肯定するための過去因として由緒ある地を求めたのだと理解されます。そして、持統天皇も藤原京造営にあたり、その地に関する”由緒”を求めたと見られるわけです。 |
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21日 |
藤原京は、わが国最古の都城制を敷いた大規模なものでしたので、持統天皇はこの地域こそは、古くから歴代天皇の帝都の地と比べても、決してひけをとらない由緒ある聖地であめことを強調しようとしたのでしょう。 |
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22日 |
また、それだけでなく、履中・清寧・継体天皇という古代史上、特に重要とみられる天皇も全て磐余の地を都と定めたとすることで、磐余の地を由緒ある聖地にしたと見られます。そして、いわばその聖地化にとどめをさすかのように、初代神武天皇の名前の中に磐余の地を結びつけたのだろうと考えられるのです。 |
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23日 | 磐余彦が奉られた |
まとめると、非常に古い時代から磐余の地が大和の国の中心をなす地域であったのだと言うことを強調する必要が生じていた持統朝以後、初代の天皇も磐余の地と関係あるのだと言うことを示す為に、神武天皇に磐余の地の彦であるという尊号・磐余彦が奉られた、というのが私の結論です。 |
24日 | 実在の天皇ではない神武天皇 |
こう見ると、「記紀」の編纂に関係した人々の過去因を求める意識により、神武天皇は由緒の深い地域に君臨された天皇であることを名前の上に反映させられていると言えます。 |
25日 | 渡航伝説年表 |
干支 西暦 月 日本書紀 古事記 安芸埃宮に到着 乙卯前666 3月 埃宮出発、吉備高嶋宮に到着 吉備高島宮に到着(8年間滞留) 丙辰 前665 滞留 丁巳 前664 滞留 |
26日 | 大和地方統一伝説 |
干支 西暦 月 日本書紀 古事記 戌午 前663 2月 高嶋宮出発、難波之崎着 速吸之門経由、宇豆菎古帰順 3月 難波崎遡行、河内白肩之津着 浪速渡経由 白肩津着仮泊 4月 白肩之津から龍田越え失敗 |
27日 | 大和平定伝説年表 |
干支 西暦 月 日本書紀 古事記 戌牛 前663 6月 名草邑に到り名草戸畔を誅す、 熊野高倉下が?霊しとう霊剣献上 7月8月 菟田県の魁師兄猾・弟猾を攻め |
28日 | 10月 国見岳の八十梟師を斬る。 11月 菟田より磯城に進軍、兄磯城を斬る。 12月 長髄彦と戦い勝利をおさめる。 己未 前662 2月 新城戸畔、居勢祝、猪祝および 3月 畝傍山の東南橿原の帝宅を造り始める。 9月 媛蹈輔五十鈴媛命を正妃とする。 辛酉 前660 正月 天皇橿原宮に即位。 |
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29日 | 天皇実録 |
干支 西暦 月 日本書紀 古事記 壬戊 前659 2月 論功行賞 甲子 前657 2月 鳥見山中に皇祖天神を祭る(4年)。 辛卯 前630 4月 天皇国巡り。国号由来の話。(31年) 壬寅 前619 正月 皇子を皇太子に立てる(40年) 丙子 前585 3月 天皇127歳にて橿原神宮に崩御す。明年9月 畝傍山の東北の |
30日 |
神武天皇の東征経路 高千穂峰→日向→早吸之門→宇佐→岡田宮→埃宮→高島宮→難波→紀伊亀山→雄水門(浜宮) →荒坂津→宇陀→吉野→磯城→橿原宮 |