1日 |
御間城入彦五十瓊殖 |
崇神天皇の名前の謎解き
御間城入彦五十瓊殖
「ハツクニシラスミコト=初代天皇」という称号を与えられている崇神天皇の実名は「御間城入彦五十瓊殖」(日本書紀)です。「御間城」「入彦」「五十瓊殖」という三つの言葉の複合として構成されるこの名前は、何を意味するのでしょうか。 |
2日 |
真木 |
先ず、「御間城」は、「御」と「間城」という言葉の合成と見るのか、それとも「御間」と「城」という言葉の合成と見るのかで意味が違ってきますが、私は「御」と「間城」に分解するのが正しいと解釈します。「御」と「間城」に分解して考える場合、「御」は美称であり、「御間城」という言葉の本体は「間城」であると見ます。この「間城」は、「古事記」では「真木」の字を当て、同じ字は「神功紀」の中にも「真木の灰を瓢に納れて」という文に出ています。つまり、「間城」=「真木」であり、真木とは植物の槙なのです。(槙は杉の古名。) |
3日 |
槙=真木=聖樹=神木 |
真木を檜とする説もありますが、私は槙でいいと思います。槙は古くは一種の呪木であり、聖樹であるたため、神木であるのを尊んで「御」をつけて「みまき」という名前になったと考えられます。つつまり、「聖樹」・「神木」の名が天皇の名前に付けられている、ということになります。 |
4日 |
入彦・入姫 |
次に「入彦」ですが、「入彦」は「入姫」と対をなす語で、これは覡を意味する称号と考えられます。(ミコの事を男の場合は覡と言い、女の場合は巫という)。「入彦・入姫」という言葉に対して「寄彦・寄姫」という言葉が別にあります。何れも巫覡を意味する点は同じですが、巫覡としての成り立ちの違いによってどちらの言葉を使うかが変ってきます。 |
5日 |
神霊 |
神霊の方から能動的に人間の男女に寄り付き、その人間が神霊を帯して神聖な存在となり、巫覡になったという場合は「寄彦・寄姫」です。それに対し、人間の方から能動的に神聖なる存在の領域に入っていって神霊に接し、奉仕かる身となり、その神霊を体に受けて神聖なる霊能を有する巫覡になったという場合に、「入彦・入姫」という言葉が適用されるのです。 |
6日 |
神聖なる存在体 |
従って、「入彦」と「御間城」の言葉の組み合わせは、聖樹・真木の樹林の中に自ら入っていって神霊を体得した、そして覡になったという意味になり、「御間城入彦」は「神聖な真木の樹林において神霊を受けた神聖なる存在体」と解せます。 |
7日 |
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さらに最後に出てくる「五十瓊殖」という言葉ですが、「い」は「厳」のことで、神聖性を帯びたものの尊称であり、「にえ」は「苞苴担子」という時の「にえ」、或は色々な捧げ物の「御贄」で、食べ物のことです。そこで、「いにえ」は「神聖なる贄」を意味する言葉となり、そこから「神霊の祀りに捧げる神饌を主宰する」という意味が出てきます。 |
8日 |
実質初代の天皇は崇神天皇 |
まとめると、崇神天皇の御名は、「神霊を帯した霊的で、覡的な存在体である」ことを意味する御名であり、この天皇が初代の天皇とするに相応しい、神聖な呪術的司祭的主という資質を持ち、カリスマ的な王として君臨した天皇だということが、はっきりと御名の上から明らかになります。私は、この名前を見ても崇神天皇の方が神武天皇よりも初代の天皇としての具体的な資質を備えた天皇であると判断します。 |
9日 |
註 |
槙
ここではスギの古名。
苞苴
携えてゆくその地の産物のこと。土産。
司祭
信仰の対象と俗人との間に立って宗教上 の儀式・典礼を司る者。 |
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架空天皇の再検証 |
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10日 |
崇神天皇の初代性 |
こうして、「ハツクニシラスミコト」という称号、そして、「御間城入彦五十瓊殖」という名前が示すところの初代天皇として具体的な資質と言うものを考えますと、第十代崇神天皇こそ初代天皇としてみなすことは十分に根拠があると考えます。 |
11日 |
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そして、これに加えて、既に第一章で述べた通り、神武天皇から九代までの天皇の架空性という事も併せ考えますと、真の意味での「ハツクニシラスミコト」とみなすべきは崇神天皇であると断言してよいでしょう。 |
12日 |
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第一章の復習になりますが、推古天皇まで33代の天皇がおられたと言うのは、「記紀」にしか存在しない記述です。この33代の天皇の中には、「記紀」編纂時の事情や編纂方針から、架空の天皇が入っているとみられます。その事は、神武天皇の西暦紀元前660年の即位という伝承一つをとっても、それが明らかに創作されたものである事なとどを思い出して頂ければ十分に再認できると思います。 |
13日 |
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そうした第一章の講義の中でも、ここで特に思いだして頂きたいのは、まず神武天皇から九代天皇までが架空の天皇であるということ、そしてその九という数字が持つ意味についてです。 |
14日 |
初代性を示唆する崇神天皇 |
崇神天皇以外に、「ハツクニシラスミコト」と称される神武天皇が架空の天皇であり、しかも九代までの天皇も神武天皇を初代天皇とした「記紀」編纂者たちによって一挙に創作さされた架空の天皇であるならば、当然、次の第十代崇神天皇こそが初代天皇ということになります。然し、それだけの理由ではなく、崇神天皇が“第十代”であるということも初代性を示唆していることを忘れてはなりません。 |
15日 |
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第一章で述べた「記紀」の編纂原理とでもいうべきものを簡単に復習しておきますと、一つには過去因を求めるために架空の天皇を創作していること、二つに天皇の配列を中国の数字理論に合致させる為に架空天皇を創作していることです。 |
16日 |
過去因を求める |
過去因を求めるとは、ある出来事を正当化或は権威化・神聖化する為に、それと同様な出来事が過去にもあったとすることです。中国の数字理論とは、陰陽五行説などによって数字に与えられる意味から考えられる理想的な数字配列、例えば、中国の伝説上の聖帝の配列のような、太一としての最初の王が現れ、次いで三皇の時代が現れ、その後に五帝の時代があるのが理想的であるというように考えるわけです。 |
17日 |
加上された |
こうした「記紀」の編纂原理からみても、本来は初代の天皇として伝えられていた崇神天皇の上にさらに天皇を加上して、歴史を古くし、初代天皇を格付ける目的で、つまり過去因をつくる目的で、より本源的な初代の天皇(神武天皇)を作り上げ、その際、中国の聖帝に因んで、神武天皇を太一神に設定し、その後に三天皇・五天皇を配列して初代の神武天皇と併せて九代の天皇が加上されたと考えられるのです。 |
18日 |
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こうした考えに立てば、崇神天皇の前に九代の架空性の濃厚な天皇が配置されていること自体、崇神天皇が真に初代の天皇として伝えられていた天皇であろうことを証明していると思えます。 |
19日 |
註 |
太一
中国の古代思想、天地・万物の出現または成立の根元。宇宙の本体。天帝。
三皇
中国古代の伝説上の三天子。伏羲・神農・黄帝
か (女偏に渦の右)
燧人・伏羲・神農・天皇氏・地皇氏・人皇氏など諸説あり。五帝
古代中国の伝説上の五聖君。「帝王世紀」には、小昊、??、帝?、唐堯、虞舜、「史記」には、帝、堯、舜が挙げられている。 |
20日 |
崇神天皇の時代 |
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特定の十五天皇に就いて |
以上のように、崇神天皇を初代天皇とみる場合、その崇神王朝とも言うべき大和国家の政治や歴史を検証する為に欠かせない基本知識として、崇神天皇が一体いつの時代の人であったかを考えなくてはなりません。 |
21日 |
信用できない |
「日本書紀」には神武天皇の西暦紀元前660年から順番に繰り上げて計算した年代が記されていますが、それは後から創作されたもので、殆ど信用できません。然し、それちは別に、古代の天皇に就いて年代が示されている史料、第一章でも述べたとここの崩年干支註記のある「古事記」があります。 |
22日 |
崩年干支註記により架空裏づけ |
この崩年干支註記のある「古事記」は、古い帝記の中に初代の天皇から推古天皇までの歴代数を15代として構成する記録があり、その記録を註記しておいたものと見られ、非常に信憑性の高いものです。ちんみに、この崩年干支註記のある「古事記」の存在からも架空の天皇の存在は裏付けられたわけです。 |
23日 |
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この註記つきの「古事記」で15崩年干支のある天皇の最初の天皇は誰かと言えば、これがほかならぬ崇神天皇なのです。言うまでもなく、このことも、崇神天皇の初代性を立証する材料となります。 |
24日 |
西暦318 |
その崇神天皇の崩年干支を絶対年代の分かっている推古天皇から順番に逆算していきますと、崇神天皇の亡くなった年は西暦318年ということになります。つまり、第四世紀の初めに亡くなったわけで、崇神天皇の時代は第三世紀後半から第四世紀初頭ということになります。 |
25日 |
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これは、前講までに述べてきた通り、大和を統一した原大和国家が吉備や出雲に進出してきたとみられる時代とほぼ一致するわけで、その点からも崇神天皇の初代性ないし崇神王朝による強大な統一国家の成立というものが裏付けられるわけです。 |
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「古事記」の崩年干支註記のある15天皇と |
26日 |
崩年推定年表 |
天皇
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干支
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西暦
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推古
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戊子
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628年
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崇峻
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壬子
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592年
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用明
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丁未
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587年
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敏達
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甲辰
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584年
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安閑
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乙卯
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535年
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継体
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丁未
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527年
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雄略
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己巳
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489年
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允恭
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甲申
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454年
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反正
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丁丑
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437年
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履中
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壬申
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432年
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仁徳
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丁卯
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427年
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応神
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甲午
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394年
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仲哀
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壬戌
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362年
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成努
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乙卯
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355年
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崇神
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戊寅
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318年
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27日 |
原大和国家成立の時期は三世紀後半から四世紀初め |
原大和国家の初代の天皇が活躍した時期は第三世紀の後半期から第四世紀の初めの時期、私はこれが原大和国家の成立の時期であったと考えます。
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28日 |
誤解のないように |
ただし、誤解のないように加えておきますと、一大和地方の首長国王として、崇神天皇の前にも若干の王は存在した。処が崇神天皇のときに首長国が大発展し、そこに一つの首長国連合が成立して、それが大和国家の基をなしたと考えるわけです |
29日 |
考古学的事実とも合致 |
ちなみに、古墳の出現を以て国家の出現とみる考え方がありますが、考古学上、崇神天皇の御陵と云われるものは丁度、第四世紀初頭の古墳と見られており、私が崇神天皇を初代天皇と考え、その崩年を第四世紀初頭とみる見解は将に考古学的事実とも合致するものです。もとより、これは飽くまでも崇神天皇の皇陵が本当に崇神天皇の御陵なのかとどうかが確認されることが前提で、周知のようにそれは現在できないことです。
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30日と31日はお休みします。 |