国家の本質  安岡正篤先生

平成21年9月   

 1日

邪見的国家観

道徳と愛国心とに疑いを(いだ)き、ともすればこれを否定しようとするのは近代日本の悪い思想傾向であります。これには新説を面白がって、批判を忘れた講壇学者やジャーナリストによる弊害が大きいものです。
 2日 邪見的国家観

この種の説の根本的な考え方は次のようなものです。国家というものは、実は一部特権階級が無力な大衆を組織的に搾取する機関が過ぎない。被搾取階級をも含めた「国民」などという観念は一つの幻想か、権力階級の欺瞞的理論の産物ではないか。一般人民によって組織されているものと言えば、それは国家ではなくて社会なのである。

 3日 国家と政府とを混同

或は、ブルジョア支配を倒して無産大衆の手に国家権力を奪取しブルジョアの滅亡と共に、階級的存在を条件とする国家を滅却し無産階級に依る社会を実現しようというマルクシズム、サンディカリズム、ボルシェズイズム、こういう階級国家論までには至らずとも、少なくとも国家の本質を民衆生活の長い歴史の間にさまざまな便宜上から構成された一種強大な機関に過ぎないものであって、そんな絶対的性質のものではないのだと見るコールやラスキやマカイヴアーあたりの多元的国家論等、それらはみな現実生活の苦患に懲りた者の邪険であり人間性というものに盲な唯物的偏見に過ぎません。第一、それらの考え方は斉しく国家と政府とを混同しています。

 4日 近代国家

例えば、ラスキも近代国家を現実的に解剖すれば、吾人が国家行為と称する者はその実政府に外ならぬことが分かると言っています。またそれらは国家の法的性質を偏執して国家のあらゆる自然性を無視しています。法律さえ始めから成文の形を取るものではなく、トーテムやタブーの発達もあり伝統的慣習や戒法の観念に基づくものがあります。
国際条約に依る新国家の成立でも実際は既存の自然的国民国家の変化や復活に過ぎません。

 5日 国家の本質 国家は民族自然の肇造(ちょうぞう)であります。決して単なる構成社会ではなく、根深い本然(ほんねん)社会です。 
そういう自然的性質(血縁・協同生活関係・全体意識・共通文化等)の久しく強いものほど勝れた国家で、国家と社会とを強いて区別して人民の自然的組織を社会とし特に権力服従関係を本質として国家を定義し、国家を人民生活から乖離して考させ、引いて敵視させるような理論は無知な民衆を煽動するには魅力があるが、人間生活の歴史に即した真理から言えば寧ろ非科学的な戯論です。
 6日

支配とか権力とかいうものも実は人間が集団生活を発展してゆくうちに自ら生じた即ち自然的事実に基づくものであって、人間が勝手に作為して成り立つものではなく、例え、一時成り立っても忽ち破れることは歴史がいつも証明しています。

 7日 国家の三形態

第一
そこで国家というものを治者・被治者の相生相剋関係から観ると三つの種類に分けることが出来ます。
第一は、治者被治者関係、換言すれば国家における命令服従関係が自然のままに行われて、まただ矛盾を意識されない素朴な状態にあるもの、これを素朴国家といってよい。
 8日 第二

第二はこの統治関係に疑惑と抗争とを生じて常に革命性を含む不安状態にあるもの、これを矛盾国家、過渡的国家ということが出来る。この不安状態が昂ずるに従って人民は国家の圧迫を感じ、敵意を抱くようになり、国家は強制権力を強くし、人民は権利闘争を盛んにする。その結果は革命的崩壊やポルシェビズム的権力政治になります。

 9日 第三

第三は、この矛盾過程を経て、国家が人民各自の内面に善く理解され、進んで人民に依る最高の協同体となる状態。これを文明国家あるいは文化国家といいます。歴史的に見て、各国家は常にこのいずれかに属します。

10日 日本の場合 日本は明治時代まで大体、素朴国家で来たのですが、前大戦と共に西洋近代国家理論が流入して爾来とみに矛盾の悩みを生じたものを、満州事変が契機となって典型的な文明国家に徹底させようとした国家主義者が誤ってその矛盾性を煽ったということが出来ましょう。しかし、日本国家はいまさらいうまでもなく最も自然性に富む国家ですから、この矛盾を解決して真に創造的な文明国家にせねばなりません。
11日 日本は家族国家 日本は最も家族的な国家です。文字通り国という家であり、小なる家に対して国家は大なる家(おおやけ、大宅、公)と呼ばれます。人間の最も自然な直接社会は家族であり、
12日

この家族の中に我々は生まれ、ここに成長し、この愛と教との世界を外にしては円満に成人することは出来ない。家庭の破壊は恐るべき人性の破壊を生じ、社会国家を呪詛する者は多くこういう境遇から発生するものです。

13日

この家族を拡大した即ち同胞意識を以て結ばれ、愛と教とに(はぐくま)れる国民を内容とする一大家族国や、まして階級国家論を断じて排斥するのであります。それだけに国家は国民に対する愛とさらにそれ以上に教とを閑却(かんきゃく)してはならない。

14日

愛と教とを(みだ)ることは国家の、特に日本国家の自滅的行為です。今度の敗戦はこの意味において日本の為に深刻な悔悟(かいご)を触発し、徹底維新が出来れば幸いであります。これなくして世界国家を考えることなど空想であります。

15日

日本の独立自衛

悪の力に対する根本的覚悟

講和条約の締結、主権と独立自由の回復につれて、安全保障・再軍備問題に関する論議が紛糾しております。こういう問題は、根本を忘れて、枝葉末節に亘れば亘るほど解決はつくものではありません。我々は先ず人間として暴力に対する根本的態度を決定しておかなくてはならない。
これに五種を挙げることができます。

16日 対暴力への態度

弱肉強食
第一は、自然界に行われている弱肉強食の現象で、この場合、弱者は唯泣き寝入り、敗北か敗死があるばかりであります。
17日 暴力には暴力を

第二に、一寸の虫にも五分の魂という諺がある。まして人間である。悪の力がいかに強大であっても、その言いなり次第になって泣き寝入り、或は敗死する羊や兎のようで済むものではない。それは良心と気概が許さない。これに基づいて、即ち本能的に、暴力には暴力を以て返報しようとするもの。これは世間に最もありふれた復讐的態度です。然し、この野生的精神行動は人間にいつまでも平和と向上とを齎すものではありません。

18日 惰弱卑屈国家

第三、然るに、ここに弱者があって、暴力に返報するだけの勇気も暴力も持たず、さりとて泣き寝入りするに忍びず。もっともらしい理屈を見つけて、自己の惰弱卑屈を飾り、自己の良心を偽り人前の体裁を作ろうとする。欺瞞的態度とでもいいましょうか。そういう者が必ず引用するのは次ぎの宗教的態度であります。

19日 無抵抗主義は
無知よりもなお悪い浅見

第四、宗教的態度。即ち、孔子の仁とか、釈迦の慈悲とか、キリストの愛とか、ガンジーの無抵抗主義とか、宮本武蔵の丸腰の心境などです。講和後の再軍備について、知名の人々の間に、宮本武蔵やガンジーを引用して、日本の交戦権の放棄、無抵抗主義を主張する者が少なくなかったが、無知よりもなお悪い浅見です。

20日

武蔵は自ら記している通り、生涯六十余度の勝負に一度も負けたことはなく、練達の果てに五十過ぎてから段々、宗教的境地に進んでの丸腰で、青二才やヘロへロ武士の丸腰とはまるで違うことは言うまでもありません。

21日 日本を武蔵に擬するなら

日本を武蔵に擬するなら日清・日露の戦いから始めて、米英中ソを皆打ち負かした果てに戦争放棄を自発的に主張した場合でなければ当りません。

22日 ガンジイズム

ガンジイズムは不殺生の信念に基づく真理の体現を旨とし、英国の支配に対する独立運動に発しては、スワデジ運動となり、英国に対する独立運動に際しては、スワラジ運動となり、英国に対するあらゆる協力、法令に対する服従、納税、通貨、教育、表彰等を一切を拒否する者であり、その為には投獄も死も意としない。

23日

そして、スワデジ運動即ちインド人やインドの国産で生活しよう。英国の恩恵によっては一切生活しまいというのです。もし日本でガンジイズムを実行しようというのであれば、ソ連が来ても中国が来ても、あらゆる妥協を避け、一切の服従を服従を拒み、その為には国民皆死の覚悟でなければなりません。現代日本の平和主義者にそんな覚悟の片鱗でもあるでしょうか。そこで結局、

24日 尚武的態度

第五、に存する尚武的態度であります。これは暴力的復讐的態度と違って、あくまでも暴力を否認し、人間の平和と幸福とを願うが故に、どこまでもこれを妨げようとする暴力の罪を憎んで、その人を憎まず、寧ろその人をも救う為に、その暴力を懲らしめて封じ去ろうというものです。

25日

武と言う文字が即ち、凶器を意味する「(ほこ)」と「()」めるの二字から成り立つものとするのが通釈であります。だから本来、武備とは他国を侵略する用意ではなくて、防衛の手段であります。

26日

武備の中には、兵力・機械力・経済力・政治力・精神力が全て含まれねばならない。その中、兵力や機械力ばかりを重視して、経済力に比較し、日本の経済力ではろくな武備は出来ぬから、いっそせぬ方がましであるという無責任な説もあるが、経済力の許す範囲でする兵力や機械力の足らぬ所は政治力・精神力(教育力)で補うことができる。

27日

そこに友国との政策問題があり、さらにフィンランドやガンジー等の事実のあることを省察せねばなりませぬ。そして正しく全知全能を尽くして、なおかつ暴力の侵略を受け、及ばなかったら、曾子が厳に断言した通り「吾れ何をか求めんや。吾れ正を得て斃れなば(ここ)()まん」のみです。

28日 偏狭であってはならぬ政治 政治は国家の自主独立を確保し、友国との交誼を修め、国民の平和と繁栄とを進め、人類の文化と幸福とを賛美すべきものである。政治は、国民の良心と叡智との表現でなくてはならぬ。善悪や正邪や理解を不明瞭にし公儀と利己とを混同して、人間や事件を篭絡してゆくことを政治と考えるのは堕落である。
29日 国民の良識に

政治は偏狭なイデオロギーに支配されず、国家の実情に即して国民の良識に応じなければならぬ。政治は国民の自治に導くを旨とし不当な干渉になることを戒め、力めて簡易を貴び繁雑を去らねばならぬ。 

30日 政治はいかに省するかである。 故に官庁に「省」の字をつけるのである。省は省みるであり「はぶく」である。何が不要であり、無益であり、有害であるかを国民のためによく省いてこそ・・省である。