仏教再考--「空海を考える」 

              ---釈迦と空海の仏教の違い--

平成24年9月

1日 釈迦の仏教の疑問

釈迦の仏教はなぜ、発祥の地インドで永続しなかったのか。釈迦の教えに従っても人間が肉体を持つ事による苦しみから解脱することは、極めて高級な境地は得られるが、解脱に成功する者の数が少なく、その道は英才の道であったのが原因かも知れなかった。大多数の平凡な生活者達は煩悩を保有したまま現世の肯定を望んだからであろう。
これは現在でも少しも変わらないと思われる。だが、日本の庶民は、現在の葬式仏教に満足しており宗教的知的欲求が見られない。

2日 現代仏教は宗教に非ず

日本の僧侶達は依然として葬式仏教に満足しており、この末世的現実の最中に於いても、彼らに、真に衆生を救いたいと言う姿勢は欠片も感じられない。僧たちは宗教的に怠惰で、ただ遺族に対して極楽浄土のお説教をし、庶民は、それを信じていないが聞いているだけである。私は、これらに極めて強い不満を抱いている、現代仏教は宗教に非ず、お寺ビジネスだと。

3日 坊主落第の
判定基準は

たかが、仏教大学を卒業した程度の若輩で、高齢の人生経験豊富な老人に高い目線から臨んでお説教をしている青い僧侶達。そんな暇があれば、自分の寺の門前を塵一つないくらい日々清掃精進をして欲しいものだ。私の僧侶判定基準の第一は、日々の門前の清掃であり除草である。門前の様子で僧としての真贋が判定可能である。これをしない坊主は落第である。第一、人の死で、ぬくぬくと生活している坊主は、社会的に、はしゃいで貰っては困る、下を向いて歩くくらいの気持ちでなくてはやりきれぬと徒然草の吉田兼好も書き残しているが多くの現代人もそう思っている。余談が過ぎた。

4日 「釈迦仏教と空海密教の相違」

釈迦の解脱とは人間が本然(ほんねん)として与えられている欲望を否定する。欲望の束縛から脱して自主的自由を得ると言うのが釈迦以来の仏教に於ける最高目的である。至高の自主的自由を「涅槃」と呼ぶ、生きながらの涅槃を「有余(ゆうよ)涅槃(ねはん)」と呼ぶが、生きながら涅槃に入る人など希有である。先ず有り得ない。多くの人間は、本然の持てる煩悩のもとである身体が離散した時に涅槃に入る。これは「無余(むよ)涅槃(ねはん)」であり「死」である。死ねば涅槃入りするのは当然である。死ねば誰でも煩悩が消滅するから覚者=仏となる、悪人さえもと説いた親鸞の言う通りである。これでは生きている価値が無いではないか。

5日 奇妙な矛盾の
極楽浄土

極楽浄土に行けるから、誰にでも来る「死」を喜べというのは実に奇妙でありおかしい。お浄土に行かれたと言いながら忌み明きをする。奇妙な矛盾した論理である。「死」が来た後に「成仏」出来る、「そういうバカな事があるのか」と空海は感じたのではないか。私も全く同感である。宗教は生きている人間の生きる為の哲学でなくてはならぬ。死ねば誰でも煩悩が消滅し覚者=仏となるのは当然なのである。

6日 煩悩について

私自身も、これらが最大の疑問であった。生命は正当に宇宙的に位置づけられなくてはならぬ。なぜなら、生命の当然の「属性」が煩悩であり本能であり宇宙の実在である。この煩悩を否定するのが成仏とは、或は覚者とは真の衆生救済とならぬと思われる。それは宇宙の原理に反する。

7日 毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)

これを包含し容認するのが毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)という思想仏だという。私には実に理解できるのである。これぞ、求めてきた宗教の感もある。毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)は生きた人間ではない、釈迦と異なる。毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)形而上的にシンボル化した現実宇宙の真理を象徴する本尊なのである、分かる、分かる。これこそ真理である。ここで大日如来という太陽神のような存在を中心に据えた空海に思いを更に馳せたいのである。

8日 大日如来

空海の密教的宇宙では、大日如来は最高の理念であるとされる。釈迦のような自然人ではない、(ほっ)(しん)である。自然法=森羅万象の存在を抽象化したものであろう。太陽に近いと思える。人類が過去に持った虚構の中で大日如来ほど思想的に完璧なものは無いと云う。大日如来は無限な宇宙の全てであり、宇宙に存在する総てのものに内在していると説かれている、これも実に分かる。

9日 宇宙の原理

大日如来は「智慧」と「慈悲」の二大要素で成立している。宇宙の原理を苛酷な悪魔的なものと捉えず、絶対の智慧と慈悲で成立した所に思想的温かみが感ぜられると言われる。そうでなくてはやりきれぬ。

10日 光被

釈迦が感じたような「飢餓や老、病、苦、死」を与えるのではなく、宇宙=大日如来は、たゆまず万物を育成し無限の慈悲心を光被(こうひ)してやまないという存在と言う密教のご本尊である。太陽を彷彿とさせる。これは実に素晴らしい現実的である。

11日 孔雀明王のこと

孔雀明王は密教の本尊であるが、大日如来の化身とされる。猛毒を持つ毒蛇さえ食べる孔雀を崇め、思想化し、昇華し、形而上化した末が大日如来である。人間の持つ精神毒を食べさせてしまいたい願望の表現が孔雀明王である。

12日 儒学は無力

処で、空海は言った、
1.「儒学儒学と言っても、上古の俗経ではないか」(つね)に思へらく、我が習う所の上古の俗経(儒学)は、眼前()べて()(ひつ)なし、と。宇宙と生命の真実を明らかにして生きることの秘密を知るについては儒学は無力であると云う空海には実に納得性がある。

13日 「儒教は世俗の作法にすぎない」

中国文明は宇宙の真実や生命の深秘に就いてはまるで痴呆であり、無関心であった。例えば、中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰がいつ何処で何をしたか。そのような事実の累積がいかに膨大であっても、元々人生に於ける事実など水面に浮ぶ泡よりも儚く無意味であると観じきってしまった意識からすれば、ばかばかしくてやる気がしない。インド人は、それとは別の極にいる。

14日 「これが、自然の本質が己の本質を語る時の言語か」

真言は、同時に(しゅ)としての力を持つと言う修法(しゅほう)さえ通ずれば、宇宙動かすことが可能という意味で真言は(しゅ)であり神変の働きとなると空海は考えた。 .空海は人間とか人類というものに対する共通する原理を知った最初の日本人ではあるまいか。

15日 虚空蔵菩薩

「天地の全てを法則化して考える」=虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)

虚空蔵菩薩とは自然の本質そのものの「謂い」であると云う。肉体と生命を肯定するのが密教。具体性を止揚(アウフヘーベン)して天地の一切を法則化して考えるのはインド的知性であると言われる

16日 空海の密教

密教は非釈迦的な世界であり、空海が確立した世界である。密教は釈迦の思想を包摂はしているが、然し他の仏教のように、釈迦を教祖とする事はなかった。大日如来という「宇宙の原理」に人間が形を与えてそれを教祖としたのである。空海は、それまでの煩悩から解脱することだけを目的とした釈迦仏教にはない思想がある。空海の真言密教の中には型どおりの仏教的厭世観は淡水の塩気ほども無いと言う。生のままの人間の即身成仏ができるという体系である。

17日 現世

現世というのは実在である。その諸現象は宇宙の真理の現われである。私は釈迦の仏教には宇宙の真理を否定している所があるから現実的ではないのではないかと思う。平たく言えば煩悩を否定するからそこに宗教と現実との欺瞞的生活が発生する。

18日 儒学は世俗の作法 人間は生命を持つという点で、虫や魚と少しも異らず。例え、日本国の大臣になっても生命が他の人間や生物と別種のものになるわけではない。と言う事は人間は当然のことながら普通の生き物なのである。
19日 仏教と密教 人間の幸福は、欲望からの解脱にあるとした釈迦の仏教。密教は、その密教仏に於いて見る限り、人間の富貴への願望を丸呑みにするようにして大肯定する所に立つ。虚空蔵(こくうぞう)菩薩(ぼさつ)求聞持(ぐもんじ)(ほう)の如く菩薩に接近し得る方法さえ行ずれば、この菩薩の持つ一効能である現世の福徳も享受できるという。空海は「密教こそ仏教の完成したもの」との自信を抱いていた。
20日 孔雀と密教 孔雀は平気で強烈な毒虫を食べる。それが発展して、人間の解脱を妨害する精神の毒―三種―「(むさぼ)る」、「(いか)る」、「(おろ)か」−をも解脱されると古代人は解釈した。それを徹底的に抽象化したのが孔雀明王である。
21日 華厳経(けごんきょう)毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ) 中国、日本の思想にこの経ほど強い影響を与えたものはないと云う。一個の「塵」に全宇宙が宿るという不思議な世界把握はこの経から始まった。
22日 一とは 「一」は即ち「一切」であり、一切は即ち一である。これは、禅が唱え武士道に影響を与えた「静中動」であり、「動中静」であるという思考法、或は、絶対矛盾的自己同一の思考の原型である。
23日 宇宙を表現する

この経に於ては、万物は相互にその自己の中に一切の他者を含み、()りつくし、相互に無限に関係しあい、円融無礙に旋回しあっていると説かれている。このような、宇宙の全ての存在とその動きは毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)の悟りの表現であり内容であるとする。それを更に進めば大日如来の存在としての宇宙となる。

24日 思想上の存在

毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)は釈迦のような歴史的存在ではない。法身という宇宙の真理であり思想上の存在である。毘盧(びる)遮那仏(しゃなぶつ)の別称は色々ある。遍照(へんじょう)光明(こうみょう)遍照(へんじょう)(じょう)(まん)(げん)(じょう)などである。それは、日光の如く、宇宙万物に対して遍く照らす形而上的存在という意味であり、簡略に申せば「宇宙原理」そのものである。人間も宇宙の「塵」であるが、それを脱出して法により即身成仏する可能性も開かれると説く。人間が大日如来の「(おう)(しん)」としての諸仏、諸菩薩と交感する時、彼らの持つ力を借用し得ると力強く説く。

25日 読経、(じゅ)(きょう)

お経の内容は生きている者への哲学でなくてはならぬと言うのが私の考え方である。だが、経典は研究すべきものではないと云う。声をあげて読誦すべきもので、その声の中に呪術的(じゅじゅつてき)な効果があるとされているしい。

26日 法華経 法華経は聖徳太子が「この経は諸経の王である」と云われた経で、27章ある。釈迦の本質を詩的に把握したという点でこれに及ぶものは無いと言われる。「空観」の原理を基礎とし「空観を唯一の真理」とする。数学のゼロに一切が充実しているとみる。そのゼロの観念が法華経では壮大なものになる。ゼロこそ宇宙そのものであり、極大なものでありも同時に極小なるものであるという。全ての世界現象もゼロの中に満ち、極小なるものの中に極大という全宇宙が含まれ、同時に極大なものの中に極小が含まれ、そこに「一大統一」があると云う。
27日 顕教と密教 外側から理解できる真理で今の仏教は顕教。密教は、真理そのものの内臓に入りこみ、宇宙に同化する方法と理論。
28日 真言密教の三蜜

宇宙の気息(きそく)の中に自分を同一化する方法。その修行が三蜜である。それは「動作」と「言葉」と「()()」のことである。「真言」とは宇宙の言葉である。印を結び真言を唱えて本尊に念じる。という形の上での三蜜を行じて行じ抜くこと以外に宇宙に近づくことは出来ない。真言密教の真髄は「理趣経」にある。 理趣経に関しては別途に項を改める。

29日 密教と真言宗

真言宗は、弘法大師空海が平安時代初期に大成した真言密教の教えを教義とする。真言密教の「真言」とは、仏の真実の「ことば」を意味するがこの「ことば」は、人間の言語活動では表現できない、この世界やさまざまな事象の深い意味、即ち隠された秘密の意味を明らかにする意味。大師は、この隠された深い意味こそ真実の意味であり、それを知ることのできる教えが「密教」であると述べている。

30日 密教と顕教の違い

それに対して、世界や現象の表面にあらわれている意味を真実と理解している教えを「(けん)(きょう)」と呼ぶ。「(けん)(きょう)」とは、声聞(しょうもん))・(えん)(がく)の教え(二乗)と法相宗、三論宗さらに天台宗、華厳宗などの大乗仏教を指す。密教と顕教の違いの根本的な違いは、この隠された秘密の意味を知る修行の在り方(修法(しゅほう))にある。真言密教の修法を(さん)(みつ)加持(かじ)とか三密瑜伽(さんみつゆが)などと言うが、精神を一点に集中する瞑想(三摩地(さんまじ))のことである。