日本、あれやこれや その53

「美しい日本の私」 その二  川端康成

平成20年9月度

 1日 白そして露 色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています。そして、そのつぼみには必ず露をふくませます。幾滴かの水で花を濡らしておくのです。
五月,牡丹の花を青磁の花瓶に生けるのは茶の花として
最も五月,牡丹の花を青磁の花瓶に生けるのは茶の花として最も豪華ですが、その牡丹はやはり白のつぼみ一つ、そしてやはり露をふくませます。花に水の「しづく」を添へるばかりではなく、花生けもあらかじめ水に濡らしておく焼きものが少なくありません。
 2日 日本の焼きもの 日本の焼きものの花生けのなかで、最も位が高いとし、また(あた)ひも高い、古伊賀(こいが)(およそ十五、六世紀)は水に濡らして、はじめて目ざめるやうに、美しい生色(せいしょく)を放ちます 伊賀は強い火度(かど)で焼きますが、その()きもの(燃料)藁灰(わらばい)や煙が降りかかって花瓶の体に着いたり流れたりで、火度のさがるにしたがつて、それが釉薬(ゆうやく)のやうになるのです。
 3日 自然と一体

陶工による人工ではなく、(かま)のなかで自然のわざですから、窯変(ようへん)と言ってもいいやうな、さまざまな色模様が生まれます。

その伊賀焼きの渋くて、(あら)くて、強い肌が、水気を含むと、(えん)な照りを見せます。花の露とも呼吸を交はします。
 4日 日本の美の心の目ざめ 茶碗もまた使ふ前から水にしめしておいて、(うるお)ひを帯びさせるのが、茶のたしなみとされています。
池坊専応(いけのぼうせんおう)は、
野山水辺(のやまみずべ)をおのづからなる姿」(
口伝)を、自分の流派の新しい花の心としても破れ

た花器、枯れた枝にも「花」があり、そこに花による「さとり」があるとしました。

「古人、皆、花を生けて、悟道(ごどう)したるなり」。
禅の影響による、日本の美の心の目ざめでもあります。日本の長い内乱の荒廃のなかに生きた人の心でもありませう。
 

 5日 藤の花 日本の最も古い歌物語集、短編小説とも見られる話を多く含む「伊勢物語」(十世紀に成立)のなかに、
「なさけある人にて、かめのなかにあやしき藤の花ありけり、花のしなひ、三尺六寸ばかりならむありける」。
という、在原(ありはらの)行平(ゆきひら)が客を招くのに花を生けた話があります。
 6日 平安文化の象徴 花房が三尺六寸も垂れた藤とは、いかにもあやしく、ほんたうかと疑ふほどですが、 私はこの藤の花に平安文化の象徴を感じることがあります。
 7日 日本の美の確立 藤の花は日本風にそして女性的に優雅、垂れていて咲いて、そよ風にもゆらぐ風情は、なよやか、つつましやか、やはらかで、 初夏のみどりのなかに見えかくれで、もののあはれに通ふようですが、その花房が三尺六寸となると、異様な華麗でありませう。
 8日 日本美の確立 唐の文化の吸収がよく日本風に消化されて、およそ千年前に、華麗な平安文化を生み、日本の美を確立しま したのは、「あやしき藤の花」が咲いたのに似た、異様な奇跡とも思はれます。
 9日 至上の名作は平安時代 歌では初めての勅撰和歌集の「古今集」(905)、小説では「伊勢物語」、紫式部(907年ごろー1002年ごろ)の「源氏物語」、清少納言(966年ごろー1017) 「枕草子」など、日本の古典文学の至上の名作が現れまして、日本の美の伝統をつくり、八百年間ほどの後代の文学に影響をおよぼすといふよりも、支配したのでありました。
10日 源氏物語 殊に「源氏物語」は古今を通じて、日本の最高の小説で、現代にもこれに及ぶ小説はまだなく、十世紀に、このやうに近代的でもある長編小説が書かれたのは、世界の奇跡として、海外にも 広く知られています。少年の私が古語をよく分からぬながら読みましたのも、この平安文学の古典が多く、なかでも「源氏物語」が心におのづからしみこんでいると思ひます。 
11日 美の糧・源氏物語 「源氏物語」の後、日本の小説はこの名作へのあこがれ、そして真似や作り変へが、幾百年も続いたのでありました。

和歌は勿論、美術工芸から造園にまで「源氏物語」は深く広く、美の糧となり続けたのであります。 

12日 平安文化人は女性

紫式部や清少納言、また和泉式部(979年―不明)や赤染衛門(およそ957

1041年)などの名歌人もみな宮仕えの女性でした。平安文化一般が宮廷のそれであり、女性的であるわけです。
13日 平安以降は武家

「源氏物語」や「枕草子」の時は、すでに栄華極まった果ての哀愁がただよっていますが、日本の王朝文化の満開がここに見られます。

やがて王朝は弱まって政権も()()から武士に移って、鎌倉時代(1192年―1333)となり、武家の政治が明治元年(1868)まで、おほよそ七百年続きます。 
14日 妖艶・幽玄・余情の鎌倉 しかし、天皇制も王朝文化も滅び去ったわけではなく、鎌倉初期の勅撰和歌集「新古今集」(1205)は、平安の「古今集」の技巧的な歌法をさらに進めて、言葉遊びの弊もありますが、

妖艶・幽玄・余情を重んじ、感覚の幻想を加へ、近代的な象徴詩に通ふのであります。西行法師(1118年―1190)は、この二つの時代、平安と鎌倉とをつなぐ代表的歌人でした。 

15日 小野小町の歌二首 「思ひつつ()ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを」。

「夢路には足を休めず通へども (うつつ)に一目見しごとはあらず」
など「古今集」の小野小町の歌は、夢の歌でもまだ率直に現実的ですが、
16日 哀愁の象徴

それから「新古今集」を経たのち、さらに微妙となった写生、
群雀(むらすずめ)声する竹にうつる日の 影こそ秋の色になりぬれ」。

真萩(まはぎ)散る庭の秋風身にしみて 夕日の影ぞ壁に消えゆく」

など、鎌倉末の永福門院(えいふくもんいん)(1272年―1342)のお歌は、日本の繊細な哀愁の象徴で、私により多く近いと感じられます。
17日 冬雪月 「冬雪さえて冷しかりけり」の歌の道元禅師や、 「われにともなふ冬の月」
の歌の明恵(みょうえ)上人は、ほぼ「新古今集」の時代の人でした。
18日 喜海「明恵伝」よりその一 明恵上人は西行と歌の贈答をし、歌物語もしています。
「西行法師常に来たりて物語して言はく、我が歌を読むは遥かに尋常に異なり。花、ほととぎす、月、雪、すべて
万物の興に向ひても、およそあらゆる(そう)これ虚妄(きょもう)なること、眼に(さえぎ)り、耳に満てり。
19日 喜海「明恵伝」より その二 また読み出すところの言句(げんく)は皆これ真言(しんごん)にあらずや。花を読むとも実に花と思ふことなく、月を(えい)ずれども実に月とも思はず。 ただこの如くして、(えん)(したが)ひ、(きょう)に随ひ、読みおくところなり。紅紅(こうこう)たなびけば虚空色どれるに似たり。
20日 喜海「明恵伝」よりその三 白日(はくじつ)かがやけば虚空(こくう)明かなるに似たり。しかれども、虚空は(もと)明らかなるものにあらず。また、色どれるにもあらず。 我またこの虚空の如くなる心の上において、種々の風情(ふぜい)を色どるといへども更に(しょう)(せき)なし。この歌即ち是れ如来(にょらい)の真の形体なり。
21日 虚無 日本、あるひは東洋の「虚空」、無はここにも言ひあてられています。私の作品を虚無と言ふ評論がありますが、西洋流のニヒリズムといふ言葉はあてはまりません。 心の根本がちがふと思っています。道元の四季の歌も「本来ノ面目」と題されてをりますが、四季の美を歌ひながら、実は強く禅に通じたものでせう。 
            完
注―本文中に出た人々
22日 道元 鎌倉初期の僧。日本曹洞宗の開祖。内大臣久我痛親の子。 母は藤原基房の女。母の死などが動機となり無常観から十三歳で出家した。
23日 道元禅 二十四歳で宋に渡る。如浄禅師に曹洞禅を学び帰国。永平寺を建立。 道元は、悟りを得る為に座禅をするのではなく、座禅そのものが悟りであると説いた。「人とは何か」「いかに生くべきか」を探求し続けた。著書「正法眼蔵」、「学道用心集」「普勧坐禅儀」等。
24日 明恵上人 鎌倉初期の僧。名は高弁。八歳で父母と死別し九歳で出家。高尾山や東大寺で密教や華厳をおさめた。 後鳥羽上皇・北条泰時らにその学徳を慕われ優れた僧として聞こえた。著書、「さい邪論」など七十余。
25日 西行法師 11181190。平安末から鎌倉初期の歌人。藤原秀郷から九代目の子孫に当り鳥羽院の北面の武士であったが、二十三歳の時出家。 以後、諸国を放浪し自然を詠む。自然を愛し自然を生きた歌人として、幽玄の境地を拓いた。歌集「山家集」「西行上人歌集」などあり二千百余首の歌を詠む。
26日 末期の眼 芥川龍之介・梶井基次郎・竹久夢二などの死に触れて、芸術家の「(ごう)」に肉迫した。 昭和8年に発表した川端氏のエッセーである。
27日 維摩(ゆいま)居士(こじ) 大乗仏教の一経典「維摩経(ゆいまぎょう)」の中で、中心となって活躍する居士(こじ)の名。 その中で、実は、菩薩の化身であると説かれもいわば大乗仏教の理想的人間像として描かれた在家の信者。
28日

金冬心 

1687-1763。中国清代の書家・画家・詩人。冬心と号し、詩人として出発したが、中年から絵をかきはじめた。 竹・山水・仏像などの絵を南宋画の名家に学んだが、その形式主義の枠を破り新鮮で個性的な表現をした。著書、冬心集がある。
29日 (あか)(ぞめ)衛門(えもん) 平安中期の女流歌人。衛門の名は、父赤染時用(ときもち)衛門尉(うえもんのじょう)だったことによる。

藤原道長の妻倫子・中宮彰子に仕え和泉式部と並び称せられた。三十六歌仙の一人。歌集に「赤染衛門集」があり、「栄華物語」の作者ともいわれる。 

30日 永福門院(えいふくもんいん) 鎌倉時代末期の女流歌人。伏見天皇の中宮。
歌風は「万葉集」の素朴性と、
「新古今」の艶な要素を含み典雅である。自然を詠んだ作品が多い。叙情歌にも情熱的な作がある。