「宰相」の顔
人物を観るのに八観六験がある。
宰相学は人物学の範疇である。
宰相とは人間の中の指導的な人間・人物をいう。
第一等の人物とは、深沈にして、厚重でなくいはならぬ。
最近の宰相連中の、あの軽薄さを慨嘆する。
[剛明、事に任じ、慷慨、敢えて言い、国を愛する事、家の如く、時を憂うる事、病の如くにして宰相である。]
麻生氏も鳩山氏も、宰相として心服させる顔ではない。媚びるばかりの軽薄な面だ。
彼らの話の内容に微塵も哲学がない。
宰相としての、滲み出るような人間味ある風貌も見られない。
最近の政治家の顔は劣化が著しい。
軽薄な面ばかりだ、
あの加藤紘一、山崎拓、古賀誠、小沢一郎、石井一、菅直人、輿石東、岡山の不倫女議員、藍子パパ、つまらぬ奴に膨大な歳費を与えている。こんなのが山ほどいる。
顔を見れば大体精神内容が分かるものであります。
尊敬してやまないような政治家が不在である。
そして話すことと言えば、お金のバラマキだけ。
これでは唯物主義そのものではないか。
もっと、深い思索と哲学のある、国民を心服させるような経綸に富む話題で国民を導いて欲しいものである。
すべて、お金、お金、これは間違いなく「唯物主義」に他ならない。
ああらゆる議論の根幹に「義」が欠けているからである。
国家の義、国民としての義、公務員としての義、勿論、政治家としての義、これらが何一つ論ぜられない。
将に、マネタリズムの国民となっている。これは素晴らしい国・日本ではない。
国民の投票を「金バラマキ」で釣り上げて選挙に勝ったのは亡国の兆しである。
平成21年9月1日
徳永日本学研究所 代表 徳永圀典