徳永の「古事記」その6
「神話を教えない民族は必ず滅んでいる」
平成24年9月
国争いの最終決着
国をめぐる高天原と葦原中国の争いに決着をつけたのは、国生みの神・イザナミの死の原因となった「火之迦具土神――切られ、岩に飛び散った血」から生まれた「建御雷之男神」であった。
三度の失敗を経て、アマテラスと高木神が地上に派遣したのは建御雷之男神(タケミカヅチ)であった。
タケミカヅチは、出雲の稲佐の浜に降り立ち、波の上に剣を逆さまに突き刺し、その先端に胡坐をかいて、「葦原中国は、天照大神がご自分の子に統治を委任された国である。どう考えるのか」と、大国主に国の統治権を譲る事を求めた。
これに対して、大国主は、「私には答えられない。我が子、事代主神なら答えられます。然し、息子は漁に出かけています」と答えた。
タケミカヅチは事代主神を呼び出して同じ質問をする。すると事代主神は、「畏まりました」と国譲りを了承し、直ぐに呪力を込めて、手を打つ天の逆手をし、乗っていた船を柴垣に変えて身を隠してしまった。
タケミカヅチは、「他に意見する神はあるか」と尋ねると、大国主は、事代主神と同様な自分の子である、建御名方神(タテミナカタ)の名を挙げた。するとタテミナカタが現れて、タケミカヅチに力比べの提案をした。然し、タテミナカタがタケミカヅチの手を掴もうとした時、その手が氷柱に変わり、さらに剣の刃に変化した。それを見たタテミナカタは驚いて手を引いた。するとタケミカヅチはタテミナカタの手を掴んで軽々と投げ飛ばした。「敵わない」と感じたタテミナカタは全力で逃げ出したが、科野国の州羽の海(長野県諏訪湖)で捕らえられた。「恐れ入りました、どうか殺さないで下さい。私はこの地を二度と離れず、父の言うことにも、事代主神の言うことらも逆らいません。この葦原中国を天つ神の御子に献上致します」と答えた。
註 鹿島明神の要石
常陸国の鹿嶋明神の土着神である建御雷之男神は、地震除けの神として知られる。江戸時代、大地震除けの「鯰絵」には建御雷之男神が多い。
諏訪湖
建御名方神が稲佐の浜から逃走し、追い詰められたとされるのが諏訪湖。氷結の湖面せり揚りは御神渡と言う。
国譲りの実現
「千引の石を手末にフげて来て「誰ぞ我が国に来て、忍び忍びにかく物言ふ。然らば力競べせむ。故、我先にその御手を取らむ」。
タテミナカタは逃げ去り、科野国の州羽の海まで追い詰めたタケミカヅチ、遂にタテミナカタは命乞いをする。
「恐し。我をな殺したまひそ。この地を除きては、他処に行かじ。また我が父、大国主の命に違はじ。八重事代主神の言に違はじ。この葦原中国は、天つ神の御子の命の随に献らむ」。
タテミナカタを降参させたタケミカヅチは出雲に帰る。大国主と協議する。
そして大国主は言った、「私も息子たちも背きません。葦原中国は献上します。だが条件があります」と。
その条件とは「地の底に届くような立派な柱と、高天原に届くような千木(神殿の屋根に上に交差する木)を持つ屋敷を建てて下さい。さすれば私は遠い幽冥界に隠退します」であった。
大国主の住居として、天つ神が住むような立派な宮殿を建てて貰えるなら国を譲るということであった。
国譲りを了承した大国主は、出雲の多芸志の小浜に、天つ神を迎える為の宮殿を造り始めた。完成後、水戸の神の孫・櫛八玉の神を料理人として神饌を整えた。
この時、燧臼と、燧杵の板に窪みを作って臼とし、先端の尖った木の棒を杵として、それを擦って火を熾し神聖な火を鑽りだしてこう唱えた。
「この我が燧れる火は、高天の原には、神産巣日の御祖命の、とだる天の新巣の凝烟の、八拳垂るまで焼き挙げ、地の下は、底つ石根に焼き凝らして、栲縄の、千尋縄打ち延へ、釣せし海人の、口大の、尾翼鱸、さわさわに、控き依せ騰げで、打竹の、とををとををに、天の真魚咋、献る。」
ここで語られる大国主命の宮が、出雲大社の起源であり、古くは「杵築大社」と言われる。