11講 弥生時代は平和だったか

大和国家の発生  弥生時代の国家

地域ブロック的「クニ」からなる小国家が次第に地

方国家レベルへと統一されると云うことが、考古学的に九州の遺跡・遺物などから考えられますが、文献の上からも、先ず日本の国家の出現の地域として、弥生時代には九州のあたりに先進国家があったと云われています。

勿論、卑弥呼の支配していた女王国の存在を大和に求めるという、いわゆる邪馬台国大和説から見ますと、大和に当然、始原的な国家が存在したことが主張されるわけです。そこで、その大和地方に、同じ弥生時代、九州に見られるような国家が存在したのかどうかという問題が、考古学的にも検討されなけばなりません。 

大和国の特殊性

大和の国と云われる地域は、周囲を山々によって囲まれた大和盆地を中心とした地域です。この地域を基盤として発祥したのが原大和国家であり、それを大和朝廷と呼んできました。即ち、大和朝廷とは、大和に発生した一首長国の強大な首長によって統合された大和地方の首長国連合というべき国家に対して古くから云われてきた、その王権を指す言葉なのです。

処が、大和という所は地形的に見ると、日本列島の中心をなす本州島の、しかもその中央を占める山地の中心部に存在する、大和盆地という地域です。この日本列島の中央を占める、四周を山に囲まれた地域になぜ国家の発生を見ることができたのでしょうか。これは説明を要するところです。

第九講で述べました通り、日本列島の西方にいく程、縄文文化は段々と希薄化していきます。大和盆地は、縄文文化の末梢地域であるその西日本の中に於いても、一つの中心地であったと見られています。

即ち、その時代から、大和盆地は、人間生活の上で生活条件に適した地域として、一つの中心地をなしていた恵まれた地域であったということが認められます。例えば、竹内石器時代遺跡、橿原神宮周辺の遺跡など大きな遺跡もありますし、また隣接する河内の国府遺跡なども、縄文人の生活址として知られています。 

註 弥生時代

  弥生土器が使用された時代。日本で稲作が農耕・鉄器、青銅器の使用が始まってからの古墳が出現するまでの時期であり、凡そ紀元前三世紀ころから紀元後三世紀までを指す。

 

(から)()遺跡は弥生時代の大和の中心

弥生時代に移っても、依然として大和盆地とその周辺の地域は文化の一つの中心地域であった、と見て差し支えない遺跡に富んでいます。例えば、弥生文化の最古期の遺跡として有名な唐古遺跡や、その周辺の遺跡を挙げることができます。

この唐古遺跡は、初瀬川と寺川とに挟まれた標高50メートル、盆地床との比高が僅か10メートルにも及ばない低湿地帯の遺跡であって、約700平方メートル程の地域の中に100戸以上の竪穴式住居跡が発見され、弥生時代前期の大集落の遺跡であることが知ら

れています。また、ここに古くは唐古池と呼ばれる池があって、その水辺の遺跡だと見られています。その昔、唐古遺跡はさらに大きな沼であり、湖であったもので、この唐古池のある大和盆地中心部の低湿地帯は、弥生時代にはまだ大和湖と呼ぶべき湖沼地帯で

した。この湖沼に向って多くの川が注入し、土砂を運搬してきて堆積が始まり、その水辺の堆積層の上に竪穴集落が営まれていたと考えられます。即ち、初瀬川などの自然堤防の上に集落が形成されていたと見られます。

唐古遺跡から出土する弥生土器には、遠賀川式土器、及びそれ以降の形式の新しい土器も出土するので、この湖岸の弥生の集落は大和に於いても長期に渡って存続していた集落であることが明らかです。伴出している土器に描かれた絵画などによって、当時の人々の水辺低地における漁撈生活や初期の農耕、即ち水稲栽培の生活を十分推定することができます。そして、夥しい木器の出土は、この地域での農耕生活の著しい発達の歴史を示しています。こうした遺跡の実態を見ますと、大和地方に於いても弥生時代に大きな集落が発達しており、そこに一つの大きな政治勢力が発生していたと見て差し支えない

でしょう。そして、これらの地域の文化と、弥生時代の先進文化地帯として九州に於ける文化とを対比させて見ますと、互いの関係が考古学の上からもはっきりしてきます。

  

註 竪穴式住居

  地面に所要の範囲を掘り込んだ床面を作り、上部に屋根をかけた家屋の構造を竪穴式住居と呼ぶ。  

九州・大和対立の構造

九州島文化と対立する大和文化圏

弥生時代中期の大和地方の弥生土器は、いわゆる櫛目文系土器が主体ですか、この櫛目文系土器は、瀬戸内沿岸以東に分布します。そして、瀬戸内以西の須玖式土器と、瀬戸内以東の櫛目文系土器の対立は、ちょうど同時代の青銅器における銅剣・銅矛文化圏の対立に合致する分布型を示しています。

また、北九州を中心とする地域の弥生古墓にみる葬制としては、大陸・朝鮮系の葬制と合致する(かめ)(かん)()()

(せき)()がみられるのに、大和を中心とする銅鐸文化圏での弥生古墓をみると、葬制は不明確であり、甕棺墓をも含めて、北九州の葬制と同じであったことは証明しにくいのです。

最近特に注目されてきた方形周湟(ほうけいしゅうこう)()が近畿を中心とする地域でも発見されていますが、やはり同じ弥生文化ではあっても、北九州の葬制と近畿・大和の葬制とでは、異なった葬制が行われていたのではないかと思われます。

例えば、近畿地方い゛は、葬制は埋葬するよりも、草筏もしくは葦舟のようなものに乗せて河川・海に流すというような水葬による葬法が行われた為、考古学的には埋葬遺跡として残らなかったのだと思われます。こう見て来ると、銅剣・銅鐸文化圏の対立は、単に銅器の種類にみる対立だけてなく、他の文化要素の上でも対立する異質の文化複合体の存在さえ考えさせるのです。即ち葬法の相違は、それによって両者間の信仰形態の相違を示唆することになり、単に物資文化のみならず、広く精神文化の面でも対立するものがあったと言ってよいでしょう。

その事は、両地域において更に政治勢力上にも対立があったと見る可能性を示唆することになります。即ち、須玖式土器は、北九州の女王国部族連合国家の領域での土器文化であり、櫛目文系土器は本州島における部族連合国家の領域での土器文化だというように見ることができるということです。

さにら、後期の弥生文化(第三世紀)は、土器形式がますます統一的になって、土師器の文化へと移行します。これは政治的に見れば、統一への動きが活発化してきて支配権力が拡大され、国家統一への動向を示唆しているとも見られます。 

註 弥生土器

  日本に於ける初期鉄器時代に使用された素焼の土器。縄文式土器と区別されるこの種の土器が東京都文京区向ヶ丘弥生で最初に確認された  

遠賀川式土器

  西日本の前期弥生式土器の総称。 

  櫛目文

  櫛歯状の施文具でつつけた文様の総称。主として弥生時代に見られる。

  須玖式土器

  福岡県春日市須玖遺跡から発見された土器が標準の名となっている。 

  甕棺墓

  弥生時代に見られる単棺。合口甕棺に埋葬する葬法。北九州で盛行。 

  方形周湟墓

  方形に溝を巡らし、内側に低丘を盛り上げ、その中央部に土壙を掘って遺骸を埋葬する。 

対立する国家群

銅鐸文化圏の東限近くの、静岡県の登呂遺跡は有名ですが、そこでは灌漑と排水の兼用水路が500米以上も連続して設備され、その両側には400乃至600にわたる、均分的な面積な区切られた水田が並んでいて、農耕技術の著しい進歩が、その土木工事の上から

推測できます。その技術は、後の法隆寺建立をも可能にする程に進んだものであるとさえ云われています。水田の背後には、自然堤防上に10軒ほどの住宅が並んでおり、この集落は、世帯共同体が耕作を営む上での、恒常的な協業単位でした。則ち、この集落は、消費と生産とを営む共同体の単位であったと見られます。そして、この東国の遺跡に於いては、まだ階級的専制権力の発生は考えられないような状態だとされています。

と言う事は、同じ文化圏内に属する大和地方も同様な状態であったことを示し、大和地方が部族国家ないし部族連合国家のレベルに留まっていたことを意味すると云えるのです。因みに、九州の国家も、同様のレベルの国家であったと見られます。いずれにせよ、九州に於いては恐らく女王国と狗奴国という二つの地域ブロック的な国家が対立していたと見られますが、本州島に於いてそれらと同じような国家が成立していたと見られる公算は、考古学上から見ても頗る大きいことになります。 

日、九州においては弥生時代の遺跡、例えば吉野ヶ里遺跡のように大規模な集落遺跡が発見されて、九州における弥生時代の国家の形成という問題が益々解明されてきています。また大和に於いても同様の遺跡が発見される可能性は十分にあり、従って九州にも大和にも、同じ時期に、ある国家の勢力の中心が存在したというようなことが考古学的にも立証されていくと思われるのです。さらに、日本の文献上に見られる、本州島における吉備とか出雲、或は播磨、丹波などに地域ブロック的国家が存在していたことが、遺跡の上からも立証されつつあり、こうした国家間で盛んに統合への動きが見られた事は十分に考えられます。 

註 銅剣

 弥生時代の青銅製利器。柄部分が筒状の鉾に対して、柄部分に短い(なかご)のあるものを言う。

  銅鉾

  銅剣・銅戈とともに弥生時代の青銅製利器。剣と同様に両刃であるが基部が筒状になつて長い柄を差し込むようになっている。

銅鐸

  弥生時代の青銅期。梵鐘を扁平に押し潰したような筒状てで、上部から下部にすそ広がりになる。頭部に半円形のつまみをつけ、そこから身の左右両側に帯状のひれがある。 

狗奴国

  弥生時代の倭の強国。邪馬台国の南にあって男王が支配し、女王を抱く北の邪馬台国と対立していた。 

新しい弥生時代像の構築

中国の正史活用の必要性

考古学上の弥生時代とは、凡そ西暦紀元前第2世紀から西暦紀元後第3世紀に至る500年間だと云われています。最近では、もっと弥生時代の起源を古くみて、西暦紀元前第3世紀或はそれ以前に遡らせようとする見解も出てきていますが、いずれにしてもその500年間という期間、これは縄文時代に比較すると非常に短い時代です。その短い時代に於いて、考古学的事実を見る限り、非常に大きな戦闘が行われ、国々が地域地域で発達していたということが考えられるわけです。それでは、考古学の遺跡・遺物を通して見られる、そうした弥生時代を、今度は文献の上から調べればどうなるのかと言うことですが、その前に先ず、そもそもそれに適用できるような文献があるのかどうかと言うことが問題となるわけです。その点、弥生時代の日では、まだ文字は使用されていません。わが国に文字が存在しなかった時代なのです。従って弥生時代のことを、わが国の文献の上で調べる方法は無いことになります。

今日の未開民族の歴史を考える場合、文字を全く知らない、文字を使わない民族を対象にする時は、物だけによって、即ち人類学や民俗学や考古学の研究だけに頼ってその民族の歴史を考えなければなりません。ちょうど、それと同じように、日本民族の歴史も、弥生時代や、古墳時代の初め頃までは、人類学や民俗学や考古学の研究に頼って考えなければならなかった筈です。処が、幸いにも日本の場合には燐りの中国が世界屈指の文字の国であり、日本の考古学でいう弥生時代の初期の時代のことまでも、わが国に就いて文献の中に色々と記しているのです。それは外国人のおぼろげな見聞による記載であるから取るに足りないと云ってしまえばそれまでですが、中々どうして、そうした不確実なものではなく、日中両国の渉外関係を記した文書など史実として信憑度の極めて高い、根本史料に基づいて記録されたものとして、その価値が実高いものなのです。

従って我々は、そうした中国人の目に映じた原日本人の映像から、我々の祖先のことを追及することができるのであり、極めて幸いなことであったと言わなければなりません。戦前のわが国では、中国正史の倭国に関する伝承などというものは、外国人のおぼろげな見聞によって記載されたたものなのだから信用するに足りないと言って「古事記」「日本書紀」という“神典”中心の研究に終始していました。実はそれは非常に誤った考え方なのです。今日に於いては逆に、そうした中国史料によって考古学だけではなく、文字を通して弥生時代の事を知る事ができる、と考えるようになりました。そして、考古学では知り得ない事実をも、我々は文字を通して知ることもできるのです。そこて、この史料的研究と考古学的研究を併せて使用することによって、正しい歴史へ一歩一歩近づいていくことができる、これが戦後の新しい日本の古代史を考える上において基本的な態度とされるところなのです。 

戦闘に満ちた弥生時代

倭国の大乱

さて、それでは実際、中国側の史料の中に、これまで述べてきたような考古学的に裏付けられる“戦闘に満ちた弥生時代”を検証するものがあるのか、ということです。そうすると、日本の弥生時代の事を書いた中国の史料の中の一つにも「三国志」の「魏志倭人伝」があります。その中に「倭国の大乱」という記述が見られるのです。第二世紀頃(弥生時代中期に相当)の日本についての記述です。この「倭国の大乱」とし何を意味するのか。言うまでも無く、これこそが、弥生時代の首長国同士の戦闘、或は首長国連合統一の為の戦闘が絶えず行われていちということを文献的に裏付ける記述であろうと考えるわけです。即ち「倭国の大乱」という表現は決して「三国志」の著者、陳寿が思いつきで書いた事ではなく、実際、弥生時代に行われていた日本の社会の一面を正確に伝えた記述であると看做せるのです。いま、ここでこの「魏志倭人伝」の記述について論述することはしませんが、私は弥生時代が戦闘に満ちていたことは、考古学によってだけけでなく、このような文献によっても立証できるのだと考えるわけです。弥生時代?この時代について、従来はどちらかと言えば豊かで平和な時代というイメージがありました。然し、こうして考古学や文献が明らかにしていく弥生時代とは、将に戦闘に満ちた時代です。弥生時代の特に中期から後期にかけて、日本列島においては各地で統一への動き、内戦の状態が顕著であり、第10講でも述べましたように、弥生時代は決して平穏無事な時代ではなく、戦闘で傷ついた人骨が多数出土される、日本国家を生み出す為の戦いの時代であったと言えるのです。

註 三国志 

  24史の一。魏・呉・蜀三国の史書。65巻。晋の陳寿撰