()(じゅく)

機熟という言葉がある。機とは(まこと)に深遠な意味と味がある。

機に臨んで風雲を捲き起こす、機を失して生涯(しょうがい)陋巷(ろうこう)(ちん)(めん)する。

機嫌が良くて、機敏に動いて、機会を(つか)んで、機密に参画して、機宜(きぎ)に適してゆく機能があれば申し分ない。 

機は、天地の働き(作用)と人智のそれとぴたりと合一した折に熟する。

と云って向うから柿の実のように赤くなって見せてくれるものではない。薄っぺらな合理主義者の眼には到底見えまい。 

禅家は、この「機熟」の摂取を機用(きよう)と称して重視する。

機転(きてん)を利かせて、熟した機を鋭敏に察知し、これを即座に活用する為に禅問答を繰り返す。 

熟した機は人を待たない。一瞬にして来たり、一瞬にして去る。その機を備えて、常に気(呼吸)を整えておくのが座禅であろう。 

「――気にそなえて気を正す」 

平成19年月10日

徳永日本学研究所 代表 徳永圀典