40講 政治改革の治業聖徳太子の国家構想

冠位制と十七条憲法

推古天皇の十一年、西暦603年から同十八年までの八年間、つまり私が第三期と位置づける聖徳太子の30才から37才までの期間、太子はそれまでに練り上げた政治改革を一挙に断行されます。蓄積した知識や太子の胸のうちに築かれたであろう国家仏教的政治理念がいよいよ具体的なかたちをとつて現れてきたのです。

太子の政治改革は着手すると同時に矢継ぎ早にその眼目が打ち出されているのが大きな特徴です。第三期のはじめ、僅か三年の間に内政改革の基本政策は全て示されているのです。

「日本書紀」、「推古天皇紀」によれば、推古天皇の十一年十二月五日、太子はまず第一に冠位制を定めました。てわゆる、「冠位十二階」、大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の順に位を設け、位ごとに色を定め、中国風の服装を採用するというものです。これは能力主義的な官司登用による人材発掘、そしてそうした官司による集権的な支配体制を意図するもので、後の律令制への前提をなすものです。

翌十二年正月一日、早速、その冠位制に基づいて諸臣に冠位が授けられました。

次いで四月三日、聖徳太子はいわゆる「十七条憲法」を定められています。

「推古天皇紀」は「憲法十七条を作りたまう」と「憲法」という字を当てているのですが、これは決して今日の公法としての憲法の意味ではありません。十七条憲法はその内容からみて公法ではなく、総じて官司の服務規程というべきものです。

冠位制が国家組織の基本を定めたものであると見るならば、十七条憲法はその組織構成員が守るべき規制・心得を定めているのです。従って、冠位制と十七条憲法はセットになって国家組織の大本を定めたものといえます。

両施策によって、聖徳太子が中国的な官司制度による国家組織の構築を企図されたことは明白です。太子はそれまでの日本の社会組織であった氏姓制度社会を解体し、後に完成される律令国家の中央集権的な官僚支配型の国家組織、その国家組織へつながる支配体制を構築しょうとしたわけです。冠位制と十七条憲法は太子のそうした国家構想を端的に表しているのです。

 

註 冠位十二階

  冠の種類によって位階を明示し、朝廷での席次を示した最初の制度。聖徳太子により603年、推古十一年制定。徳・仁・礼・信・義・智をそれぞれ大小に分けて十二階とし、冠の色は、紫・青・赤・黄・白・黒。大小の区別は色の濃淡による。

 

  十七条憲法

  604年、推古天皇朝、聖徳太子制定の十七条の条例。和の精神を基本とし、儒・仏の思想を調和し君臣の道及び諸人の則るべき道徳を示したもの。

 

和の精神を基本とする

聖徳太子が、どのような国家体制を目指したのか、その国家理念というべきものは十七条憲法の内容が雄弁に物語っています。

まず第一条において、官司として持つべき基本精神が次のように述べられます。

「和を以て(とうと)しとなし、(さか)ふることなきを(むね)とせよ・・」

即ち、争いを起こしてはいけない。和が全ての中心であると述べられ、君臣(きみおみ)間、官司間はもとより、一般の人間関係においても、人倫関係の大本を「和」というものに求められているのです。「和」を基本精神とされたことは、国家仏教の基本的な理念と通じています。即ち、聖徳太子の国家理念は、国家仏教に基づいて、その教理を政治上の、或いは生活上の心得に結びつけたものなのです。太子は、この和の精神を先ず第一条にもってくることで「和」の精神が一切の基本であると定められたのです。

そのことはまた、言外に崇神天皇暗殺事件のようなことを二度と起こしてはならない。天皇家と蘇我氏の間も「和」の心で接すれば、そうした事件は決して起こらないのだと示されたとも理解できます。

太子が崇神天皇暗殺事件で受けられたショックがいかに大きなものであったか、そして太子がいかに蘇我氏との関係に心を砕いていたかが推察されます。恐らく、太子は天皇暗殺という忌まわしい事件を目の当たりにされ、そうしたことのない世の中にするには何が必要かと考えられたのです。そう考えたとき、自分が幼少期から学んできた仏教の中の和合の精神がクローズアップされ、それが「和を以て貴しとなす」国家の基本精神となって表出されたのではないでしょうか。