命の旅      

気づいた時、人は既に命の旅をしている。宇宙の一生命にすぎない人間の命は滔々たる大宇宙の命の大河の小さな存在にすぎない。自覚のないままに、この命が与えられ歩いていた人生。生命(いのち)溢れる若き時はひたすら前を見て歩むのみでこの道の儚なさに気づかない。なるものに気づくのは、限りあると実感する年齢に達する頃というのは愚かな私だけであろうか。私達は命の旅をしている、終着駅のあるいのちの旅を。十八史略、夏后氏も「生は()なり、死は()なり」と言う。その命も一日の集積、一日中動き回り、疲れては休むまさに動くことが命であり人生。大宇宙も大自然も人間も、常に変化即ち動いてやまない。天地は時に鳴動し、時に震撼し時に静寂。巨大な震撼でこの世も終りかと思うことすらあるが、然るべき時が到れば必ず止む、赴所(きせざるところ)不期天(におもむいててん)一定(いちにさだまる)動於无妄物(むもうにうごくもの)(みな)(しかり)」。無始から無終に至る果てしなき変化の流れ、その流れの中で生滅する万物は有限死しては生じ生じてはまた死ぬ。ある時はとなり、ある時は満ちる。盛衰を繰り返し一瞬たりとも古い形に(とど)まることはない。(いん)が消えれば陽が息ぶき、()ちては()け、生滅変化の果てしなき流れ。終ればまた始まり無限の循環を繰り返す。万物の生々変化は一瞬一瞬の動きの中で不断に変化し、一刻(いっこく)一息(いっそく)の時間とともに絶えず推移してゆく、だが宇宙に恣意(しい)はない。刻々変化し止むこと無き流れ、人間などは芥子(けし)粒ほどの存在。大自然の本質は変化、命の本質も変化と見つけたり!! 生きるとは動く事、命とは動くことと喝破す。

                                                        徳永圀典 86