中国、あれやこれや その33

平成19年9月度

 1日 地球・人類をメチャクチャにする中国 ナポレオン三世が200年前に言った、「中国を眠らせておくべし」と。今、目覚めた中国は市場経済参入により解き放たれたエネルギーと道徳無き13億のマンパワーが、ハチャメチャに人類や地球を破壊しつつある。 中国人密航者に乗っ取られたイタリアの織物産業。チープな中国製品に圧迫され衰退しているアメリカ中西部。食糧需要がシベリア、インドネシア、アマゾンの森林を消滅させ、スーダンでは、石油合弁の余波で住民が大量虐殺されている。技術移転という名の盗用、知的所有権侵害、食品、医薬品に毒の混入は日常茶飯事である。
 2日 世界中に公害垂れ流す中国 世界の工場となった中国は世界中から資源を買い漁り、それまでの「法と秩序」を破壊してしまった。 それは、そのまま中国の国内まで、河川から大地から沿岸・海域までメチャクチャにしてしまつているのである。
 3日 イタリアの町・プラトーが中国人進出で滅亡 人口18万のプラトーに中国人が2万人いる。700年の織物生産の歴史あるこの街はイタリア有数の繊維工業の中心地ここに中国が溢れてしまったのは、人の嫌がる仕事をする中国人が流入した。そして廉価な人件費で中国人企業家が続

出し本国・中国浙江省の温州の工場を下請けにするようになった。
やがてプラトーの製品ソックリの温州の安価な製品が世界中に売られるようになった。プラトーの工場は次々に倒産か閉鎖に追い込まれた。
 

 4日 資源買い漁りの態度 世界の資源買い漁りの態度は、荒っぽいの一語に尽きる。自分さえ、良ければ良いの態度なのである。 スーダン、大虐殺を繰返し世界中から非難されているのが典型的な例である。
 5日 武器の供与 スーダンの専制政権へ武器を与え、兵器工場を作ってやり、代わりに油田の採掘権を得る手法である。 人権抑圧のジンバブエ、ガボン、コンゴ、ルワンダという独裁国の指導者に対して、武器を与え支持し石油、鉱物資源も採掘権を獲得する無法である。
 6日 中国人の対外発言は蒋介石時代から同じ対欧米対策 多くの日本人は政治家初め大バカで知らないが、中国語のできるアメリカや英国の新聞記者が中国人と話をすれば、必ず話題は日本の罵詈(ばり)讒謗(ざんぼう)へと誘導されるという。 それは、日本人を、小人、強盗の蔑称で呼び、日本人を非難攻撃し、その凄まじさに外国の記者は辟易(へきえき)するという。幼稚園の時からウソの日本悪逆非道を叩き込まれた教育の結果なのである。
 7日 中国の融通無碍 中国の変容過程で繰り返し見られてきた融通無碍と実利主義こそが、悲劇的な将来のシナリオへの反論となっている。 中国は、今や世界にぴったりと、特に日本にぴったりと寄り添い他国に依存して共倒れを狙っているのではないか。
 8日
日本は一貫して中国に好意的
日本の興起と繁栄は、中国の孔孟思想のお蔭とか戦後日本の経済発展は、中国が賠償金を請求しなかつた恩義のおかげという説は中国の文化人のよく唱える処で日本のバカな進歩的文化  人の俗耳に入るところである。これ程見当違いの物の言い方はない。寧ろ、正反対で、そのような中華思想と決別し脱亜入欧を敢行したから日本は成功したのだ。中国とか韓国が遅れたのはその中華思想から脱却できなかったのである。
 9日 台湾の発展 言うを待つことなく、日本の投資と人的支援の成果である。だが、韓国は、人間性が台湾のように良くなく極端に性質が悪いから恩を 仇で返し素直に認めようとしないのである。また、台湾民間人の地道な努力が実を結んだことも事実である。その基盤は日本の教育の成果である。
10日 中華 人類文明の中国起源説は、不幸に見舞われた時代の中国人の慰めであった。この中華思想は朝鮮半島にも伝播しているが、実に野郎時大なもので、進歩、発展、繁栄の障害であったことは彼等の歴史を見ればよく理解できる。 だが、田舎者の、井戸の中の蛙と同じで広い世界、世間を知らぬ独りよがりのものである。だが、その意識は強烈である。それを吹き飛ばしたものに、日清戦争、日露戦争における日本の勝利という信じ難いハプニングがあった。中国要路、識者から中華に対する自信を剥奪したのは事実。
11日 李鴻章(りこうしょう)

明治時代では清国は大国で日本は小国、侵略は清国サイドからのものであろう。日清戦争では陸、海とも清国は日本に連戦連敗、中国が世界に誇った李鴻章の北洋海軍も陸軍も壊滅したのだ。

それは富国強兵を目指して永年続けてきた清国の洋務運動の破綻を意味した。世界に冠たる道徳文化をそのままに西洋の科学技術を導入しさえすれば中国は必ず世界一になれると信じていた中国人は、ここで大反省した。

12日 日本見習えと謙虚な中国 中国人は日本の明治維新のように、伝統文化を捨て去っても抜本的な近代改革を行わなくては絶対に富国強兵はできないと気がついた。中国と同様、西洋列強に迫られて開国を余儀なくされながら、西洋の先進文明を摂取して見事近代化を 成し遂げ、僅か3、40年足らずで清国、ロシアを破った日本。中国の官僚、知識人の目を見張らせ、東洋の一小国・日本として見下していた日本であったが、彼らの日本に対する思いは尊敬に変わり、日本を手本として近代改革に乗り出した。
13日 戊戍(ぼじゅ)維新(いしん)

これは完全なる明治維新の模倣であった。当時、清国を訪問した伊藤博文は光緒帝初め官民の大歓迎を受け帝からは政府顧問の就任を求められた。伊藤は維新政府への協力を約束したが

結局維新勢力は西太后を中心とした頑迷な守旧派のクーデターで失敗したが、その後日本が日露戦争でロシアに勝利したので守旧派も日本の近代化政策を認めた。そして留学生が陸続と日本に派遣された、20世紀の指導者が育てられたのである。
14日 中国近代化の基礎 また日本の官民から政治、経済、法律、産業、教育、軍事にいたるまで各ジャンルの顧問が多数招聘され日本語による日本式の新制度、新設備が大量に導入され、それが現代中国に残り 中国近代建設の基礎となった。一般の史書には詳述されていないが、日清戦争の終結から清朝崩壊までのこの十数年間は、当時世界からも「中国の日本化」と称される時代であった。
15日 レイノルズの発言 米国人学者、ダグラス・R・レイノルズは、その中国の近代化政策を見て、「一つの温和な革命と称される資格がある」(著書・中国の新政革命と日本)とさう言わしめたものである。 それは1898年から1907年の十年間である。日本から教員や顧問の招聘、日本書の中国語翻訳、日本モデルの教育改革、科挙制度廃止、軍事制度の改革、警察監獄制度の確立、法律、司法制度の改革である。
16日 お決まりの中国の発言 これらの史実に対して中国ではお決まりの「日本陰謀史観」から「友好」の仮面を被り留学生を招いて日本の傀儡を作り或いは改革に協力することで中国で指導的地位を確保しようと したたという見方をする。
つまり日本のやること、なすこと、凡てが侵略の為の陰謀だったというのである。これは史実であり中国の牽強付会の発言は当らない。
17日 辛亥(しんがい)革命(かくめい)

辛亥革命という近代化運動を推進したのもまた、留学先の日本であった。日本の富強ぶりを見て、革命を志した留学生たちであった。

しかし、実際に革命戦争で主役となったのは清国の官軍である新軍であった。これも日本人顧問と日本から戻った軍事留学生が率いる軍隊で、こうした勢力がやがて軍閥となり民国時代をリードして行くのである。 

18日 蒋介石

蒋介石もまた日本の陸軍の士官学校で学んだ人である。内戦を収拾し、民国を再統一したのがその蒋介石で、「新生活運動」を全国的

にした。これなど全く中国の日本化、中国人の日本人化を目指す近代化運動である。蒋介石は何事も手本にしたがる人物であった。
19日 戦後中国のモデルも日本 ケ小平の改革開放運動なども、日本の近代化をモデルにしたのである。中国人が「師日」に走るのは たいてい、中華思想、中華意識の扇動が行われず、国全体の雰囲気が比較的に穏やかで、謙虚さ、理性がある時期である。
20日 一貫して善意の日本 日本は戦前も戦後もそして現代も一貫して中国に対して善意である。今日でさえ日本官民は謙虚に中国人に反省と謝罪を繰り返してきたのである。いかに嫌中感情が高まっているとはいえ それでも良好な日中関係を望む声は高いのである。中国政府が日本の善意を素直に受け止め、日本の支援の手を借りるなら、更なる国家建設にプラスであろう。だが、逆に反日政策を取り幾多の問題をこじらせているのは愚の骨頂であろう。
21日 日本の情熱と中国の民族的性癖 中国の一から近代化を指導したのが日本である。中国のように、人間不信社会で生まれ育った人間は、誰であろうと人間の真心をどうしても理解することは出来ないのであろう。 近代に於ける日本と中国とのイザコザに就いて中国人は、兎に角に日本の侵略の行動、陰謀に原因を求めようとする。アメリカのシナ学の大家、フェアーバンクは、人間の行為について常に下心を探ろうとするのが中国人、中国人の建前と本音の不一致には中国人の謀略的思考が働いていると指摘している。
22日

日中間のトラブルは実際、多くの場合は根本的には、あれ程手取り足取り近代化を指導、支援、協力した日本に対して、恩を感じることが出来ないばかりか、寧ろ、くみしやすくカモにしやすい善人と見て増長し、日本人を侮辱、排斥したことにある。

これは、韓国にも似通った性癖が認められる。野郎事大があるのである。強いものには媚びてくるか、井戸の中の蛙の大局観に欠けた行動に出るかとなる。両者の共通しているのは中華思想であるが、まだ中国の方が大人で柔軟である。 

23日 張之洞(ちょうしどう)

最初に熱心に日本留学を奨励する政策を取ったのが張之洞である。彼は日清戦争後、仇日意識からロシアに歩みより、ロシアに学ぶ近代化を主張していたが後に伊藤博文などからの助言

もあり、一転して師日派となった実力者である。彼の著「勧学篇」には、「洋行の一年は読書五年に勝る。海外の学校での勉学は国内の学校の三年に勝る」とした上で「留学するなら西洋より日本だ」と書いている。
24日 光緒帝 光緒帝は上諭を下し「学堂中優秀な学生を選んで日本へ留学させよ」と各省に命じ、日本流学は清国政府の政策の一つとなった。

張之洞の「奨励遊学畢業生章程」が公布され、「日本の中学、高校、実業学校、大学も帝国大学、大学院を卒業した中で優秀な者には、貢士、挙人、進士と看做して禄を授ける」と規定された。 

25日

最初の清国留学生

1869年の最初の清国留学生13名は、駐日公使裕庚が時の文部大臣・西園寺公望に彼らの教育を委託し、西園寺は東京高等師範学校校長・加納治五郎に委託した。 これ以降、日本の朝野は清国の留学生に対して熱烈歓迎の姿勢であり、政府、軍部、教育界は彼らの為に、学校を立て、カリキュラムを作り、熱心に教育したのである。
26日

日本の中国への期待は同じ東洋人の真摯な意識から

当時の日本人が清国に期待したのは国家の近代化である。同じ東洋人として、清国が欧米に侵略され酷い国になっており見るに見かねた善意そのものであった。

三国干渉以降、西力東漸による危機感であり、清国が速やかに弱体、腐敗体質を改善して日本と提携することの切実な期待があったからである。 

27日 ロシアの動き 1901年、最初に留学生を受け入れた加納治五郎は清国に渡り、菅学大臣・張百煕と恭親王に対して「今、貴国が留学生を派遣することは最も急務であり、それが一日遅れれば国運の進歩も一日遅れる」と熱心に訴えた。

北京のロシア公使は「日本は憲政国家だから留学生がその気風に感染して民権思想に感染する恐れがある。わが国だけは貴国と同じ専制国だから子弟を沢山遊学させても問題ない」と説いて日中提携の牽制に努めた。 

28日 その後の推移 留学生受け入れから二年後、毎年百人前後が日本に留学し、北神事変の翌1901年、西太后の新政により清国政府が留学生派遣政策を本格的に進めた為、総数は年々増加し1905年には8千人を超えピークの1906年には一万人前後

或いは2,3万人との資料もあるという。日露戦争に日本が勝利し、日本が近代化のモデルとなったのである。陸軍士官学校も多数の中国人を受け入れた。陸軍はわざわざ中国人のために振武学校を設置までしている。 

29日 中国人留学生は 留学生が関心を抱いたり感嘆したのは日本の軍事力だけでなく、国民の間に漲る強烈な愛国心、国家防衛意識、団結心、で彼らは日本人を心から崇拝し信頼し

ながら懸命に学んだのである。このように日本が中国の軍事的人材を育てた意義は大である。帰国後彼らは軍の近代化を推進、急成長しそれを見た欧米列強が脅威を感じた程である。 

30日 日本人の顧問 当時、中国の顧問を務めた日本軍人は、やがて日中戦争が始まると思いつつ中国軍と戦っている。もし顧問団が侵略の意思あらばあそこまで中国軍の為に心血を 注ぐわけがないのである。中国は、必ず日本の陰謀と言いふらし日本軍事顧問団は中国侵略の為などウソをつくが、そのような欺瞞を吹っ飛ばすような活躍をしているのである。