徳永圀典の「日本歴史」そのR 

平成19年9月度

近隣外交・国境画定

 1日 国際法による領土画定 領土問題の解決は、近代国民国家である事を示す前提条件であった。国境を画定しなくては、住民の生命、財産の保障や国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を明確に定め られないからである。
日本は明治維新を経験して、近代国民国家を目指し、欧米列強が作り上げてきていた国際法(当時は万国公法と言った)を受容することとした。
 2日 中国・朝鮮・ベトナム等 中国や朝鮮、ベトナムなどは欧米とは全く異なる、古来から続く国家概念に従っていた。 古来、東アジアには、中国を中心とした中華秩序が存在していた。朝鮮やベトナムは、その中華秩序にすっぽりと内部におさまり中国歴代王朝に完全に服属していたのである。
 3日 頑迷固陋な朝鮮王 古来から、その中華秩序の影響が薄かった日本は、中国とは対等な関係であり自由に行動してきた。
明治元年、1868年、日本は朝鮮に使節を派遣
明治新政府の樹立を告げて、新たな国交と通商を求めた。然し、朝鮮は、文面に天皇の「皇」という中国皇帝と同列の称号が使われているのは許せないと国書の受け取りを拒否したのである。
 4日 清国との国交樹立 そこで明治政府は、頑迷固陋な朝鮮を後回しにし朝鮮の親分・清国との国交樹立を先行した。明治4年、1871年、日清修好条約を

締結した。
これは欧米列強同士で行われる国際法の原理に基づく両国対等の関係を定めた条約である。
 

 5日 台湾出兵 明治4年、琉球の島民66人が台湾に漂着し54人が台湾住民に殺害される事件が発生した。琉球は人種的にも言語的にも日本と同系統の土地柄だが、それ迄は半独立国家として日本と清国の双方に属していた。日本は琉球島民殺害の責任を清国に問うたが清国は台湾住民を「化外(けがい)(たみ) (国家統治の及ばない民)であるとして責任を回避した。そこで日本政府は、台湾の住民を懲罰するのは日本の義務であるとして明治7年、1874年、台湾に出兵した。この衝突は、近代国民国家の観念をまだ理解していない清国と、既に国民国家の国境概念を身につけていた近代国家日本の意識の差を表す最初の象徴的事件である。
 6日 琉球処分 台湾出兵問題は、清国との協議の結果解決したが、清国はこれにより、琉球島民を「日本国属民」と認めた。 日本は、そこで琉球に沖縄県を置いて日本領土とした、これを1879年の琉球処分という。処が清国はこれを承認せず、日清戦争の後、漸く沖縄の日本帰属を正式に認めたのである。
 7日 日朝修好条約 日本の軍艦が朝鮮の江華島で測量をするなど示威行動を取った為、朝鮮の軍隊と交戦した事件(江華島事件、1875)を契機として日本は再び朝鮮に国交の樹立を 強く迫った。
その結果、明治9年、1876年、日朝修好条約ん゛締結された。これは朝鮮側に不平等な内容だったが長く懸案であった朝鮮との国交が樹立した。
 8日 北方の領土の画定 清国、朝鮮との国交樹立や南方の国境画定と共に、明治政府にとりロシアとの北方の領土問題は重要な案件であった。特に樺太(サハリン)は幕末以来、日本とロシアに両属する雑居地とされ 所属が不明確であった。日本は、これまで蝦夷地(えぞち)という名称を樺太と改称して明治3年、1870年樺太開拓使を設置した。当時、樺太在住の日本人とロシア人の間では、紛争が度々発生していた。
 9日 千島・樺太交換条約 アメリカやイギリスでは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道までロシアに奪われてしまうだろうと明治政府に対して警告してきた。更に、朝鮮や沖縄の問題が新たに身に迫ってきたので、明治政府はロシアとの衝突を避けるために明治8年、1975年ロシアと樺太・千島交換 条約を結んだ。
その内容は、日本が樺太全土をロシアに譲り、その代わりに千島(クリル)列島を日本領土にするものであった。この結果、カムチャッカ半島のロバトカ岬と千島列島最北の占守島の間が、両国の境界となった。新聞は「ああ、樺太は放棄せられたり」と嘆いた。
10日 小笠原諸島 日本は明治9年、1876年、小笠原諸島を日本領とし各国の承認を得た。既に英国船がここにも英国旗を立てていたが、アメリカが反対し日本領土となったのである。英米は兄弟国だが、この国益の厳しさを学ぶ必要がある。 明治の日本はこのようにして、近隣諸国と国交を結び、日本領土をほぼ画定させることに成功した。これはいち早く日本人が世界の動きを洞察し勇気と気概を以て世界に進出したからであり改めて明治の偉大なる先見性を学ばねばならぬ。
11日

北海道の開拓

明治2年、1876年、政府は蝦夷地を北海道と改称、士族(しぞく)屯田兵(とんでんへい)(農業兼営の兵士)の集団移住や、諸産業の開発を積極的に推進した。 維新前後の人口はアイヌの人々が約2万人、日本人が約10万人と推定されたが、半世紀後の北海道の人口は約236万人に達した。農耕可能土地は、ほぼこの期間に開拓を終えたと言える。
12日 岩倉使節団 明治4年、1873年、廃藩置県の後、条約締結国へ明治政府としての表敬、条約改正の予備交渉の為に全権大使・岩倉(とも)()を初め大久保利通、木戸(たか)(よし)らの使節団がアメリカとヨーロッパに

派遣された。岩倉使節団である。彼等は2年近く、欧米文明を実地見学し学び取った。そして欧米と日本との文明の進歩の差は凡そ40年と見て、何よりも近代産業の確立、即ち富国を優先して欧米に追いつくべきだと考えた。 

13日 征韓論 処が、国内では、明治6年、日本の開国の勧めを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして士族達の間に武力を背景に朝鮮に開国を迫る征韓論が沸き起こった。廃藩置県で失職していた士族達は政府が旧藩に代り給付す る家禄で生活していた。
そして、徴兵令が施行されたので、戦う者としての誇りを持つ多くの士族達の不満が高まっていたのである。そこで彼らは征韓の戦いで自分達の存在意義を誇示しようとした一面があったのである。
14日 留守居役の西郷隆盛 旧藩の武士達が期待したのが、使節団の留守を預かっていた政府の参議・西郷隆盛であった。西郷は政府にあり改革を進めながら、士族達の精神も重要だと思っており、彼等の社会的な役割と名誉を守ってやらねばと考えていた。西郷は自分が使節として朝鮮に行くこ とを強力に主張した。
これに板垣退助、江藤新平など他の参議も同意した。西郷は日本の進むべき方向性については、自らが犠牲になれば問題が解決されると考えた。自分が朝鮮に行き殺害されれば、それを名目に日本が出兵し朝鮮に門戸を開放させることが出来るとふんだのである。
15日 富国優先 そこに帰国した使節団の岩倉と大久保は「富国」優先の考えであり、征韓が他国を巻き込む戦争になると危惧した。 朝廷や政府内部を工作し、西郷の朝鮮向け使節団を延期せしめた。これに怒った西郷、江藤、板垣らは参議を辞職した。
16日 殖産興業 大久保利通は、内務省を設置し殖産興業に乗り出した。明治初年から政府は鉄道、鉱山事業を自ら運営していたが大久保は政府の強力な指導と政府資金を投入して本格化したのである。 富岡製糸場などの紡績業を中心とする官営模範工場の運営や、勧業博覧会の開催、農業の改良、失職した士族に資金投与し事業をさせるなどを積極的に進めた。
17日 西南戦争

西郷は故郷の鹿児島で私学校を開き、全国の士族の反政府勢力の期待が自ずと集まった。その後、政府は旧藩に肩代わりして士族に給付していた家禄を、一時金の給付と引き換えに打ち切った。(秩禄処分、1876)

その事もあり、各地で不平士族の反乱が起き、これが鎮圧されると、1877年、明治10年、鹿児島の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げた。政府は徴兵により組織した平民の軍隊を中心に、苦戦の末に西郷を破った。これが西南戦争であるが、これ以後は士族の武力による抵抗は終わった。
18日 文明開化の間違い 明治維新当初は、王政復古宣言もあり、国学や神道思想に共感する人々の行動が一部だが過激となり、各地で仏教攻撃が起こり寺院や仏像の破壊をする動向が見られた。廃仏(はいぶつ)毀釈(きしゃく)である。これは行き過ぎである。政府も当初、キリスト教を禁止して神道や儒教により国民を教科しようとしていた。 然し、西洋文明を入れねばならない事が次第に理解されて、文明開化の重要性が説かれた。だが文明開化という言葉は行き過ぎである。近代法と近代技術以外の文明は日本が遥かに優れていた事をキレイに捨て去ったことが事後百年に亘り日本の伝統文明を捨て去る契機となったと言える。
19日 明治人の惑い 明治61873年、キリスト教も黙認され、その前年には太陽暦が採用された。一日が24時間、一週間が7日間日曜が休日とされた。 それまでは、太陰暦で、労働・生活を営んでいた農民たちは大変戸惑った。次第に順応はして行くのでああるが、とてつもないスピードで欧米文化を取り入れている。
20日 欧米思想へ雪崩れ 民間では、廃藩置県の前後から、福沢諭吉の「学問のすすめ」、中村正直が翻訳した「西国立志編」などが出版され、身分では無く、実力が尊ばれる社会の到来を告げた。 それに必用な独立自尊や自助・勤勉の精神の大切さを説いていて広く読まれた。また多くの新聞、雑誌が発刊されたし、私立の学校や塾も開かれ欧米諸国の生活、風俗、思想が紹介された。
21日 日本人の生活変化 人々の生活にも大きな変化が生じた。東京などの都市では、散切り頭、帽子、洋服の着用、牛肉食、ランプの使用が広がる。 レンガ造りの洋風建築、ガス灯の灯る街頭、人力車や馬車の走る文明開化の町並みが出現してきたのである。
22日 文明開化の功罪 文明開化による風俗については、表面的な西洋模倣として非難する声も高かったが、日本人が他の文明から有益なものを学び取る高い能力を備えている表れと見ることもできる。同時に、当時の中国、朝鮮が頑迷に自国文化に執着し、また 国民の能力が低く西洋文明を取り入れる力がなく、21世紀の今日まで発展上の後進性があり大きく出遅れた事は事実であり、その点では日本は成功した。だが、敗戦後さらに伝統を破壊し、この両者により、誇りにしてよい日本の伝統文化を放棄し過ぎたことは大きな誤りである。
23日 大久保利通 明治11514日の朝、西南戦争終結の翌年である、明治政府の実力者、大久保利通は、来訪者に語った。「これまでの10年間は、何よりも秩序を整える創業時間であった。これからの10年間は産業を振興させる時期であり、自分はこのことに邁進する決意である」と。然し、大久保は、客と語り終えて太政官に出勤途中、反政府派の士族に暗殺されたのである。惜しい人材を失った。 大久保利通は、将に「日本創業期」の混乱を鎮め、近代日本発展の基盤を整備した人物であった。大久保は、鹿児島下級武士の出自であるが、西郷隆盛とは幼馴染であった。大久保は我慢強い努力により藩主、島津斉彬に代って藩の実権を握った島津久光に用いられ倒幕運動で活躍した。久光の怒りをかって切腹させられそうになった西郷と共に死ぬと誓ったこともあった明治の大功労者である。
24日 決断と勇気の人・大久保利通 大久保利通を見ると、現代政治家の国家観のひ弱く、軟弱極まりなく、私心ばかりの議員ばかりだと叫びたくなるのである。岩倉具視は、大久保利通の長所は、一旦決断すれば「確固として動かない」ことだと述べた。明治維新後、大久保は、まだ実力の伴わない新政府の制度や組織を粘り強く整備していった。 そして、岩倉使節団の副使として欧米を視察、日本に必要なことは、一刻も早い国内の産業化だと洞察して帰国したのである。日本では西郷隆盛を中心に征韓論が盛り上がっていた。征韓派の士族の勢力は強大で、大久保は西郷への情愛を抑え、死を覚悟して朝鮮への使節派遣を中止させた。あらゆる非難に抗して自分の信ずるものに突き進んだのである。大久保は、何より決断と勇気の不可欠な時代を生き、時代の終焉と共に姿を消したのである。
25日 伊藤博文 大久保の死後、次第に頭角を現しやがて初代総理となり明治国家建設の中心的役割を果たしたのが伊藤博文である。伊藤は長州藩の農民に生まれたが父母と共に足軽の家に養子入りした。 吉田松陰の松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に参加したが、親友井上馨とイギリスに渡り無謀な攘夷が不可能であることを悟った。維新後は再び欧米を視察し西洋文明開化を推進した。
26日

調和の伊藤博文

大久保の死後、政府内部には分裂が生じ、また自由民権運動が盛んであった。伊藤は自ら「調和家」を心掛け妥協により対立を緩和し事態を纏めようとした。 明治14年の政変では、政府内急進派の大隈重信一派を追放したが、他方では世論が非難する開拓使官有物払い下げを中止し、10年後の議会開設を約束して民権派の政府攻撃をかわした。
27日 憲法草案作成 伊藤は、単に妥協だけの政治家ではなかった。日本にふさわしい立憲政体が必用だとの信念を持っていた。伊藤はヨーロッパで憲法学を学び日本の国体の原則と議会政治との調和を心掛けながら自ら憲法草案をまとめたのである。やがて議会が開設され、政党の力が伸びてくると、伊藤は政府と政党との不毛の対立を解消 しようとして周囲の反対を押し切り自ら政党党首となり政党政治の道を開いたのである。このように伊藤博文は常に理想と現実の双方を見据えて立憲国家日本を築き上げた偉大な政治家である。それを暗殺した韓国人・安重根を英雄として日本の教科書に掲載し伊藤初代総理に言及しない教科書とは韓国の書物であり嘆かわしいこと夥しい。ここまで日本人は堕落しきつているのである。
28日 指導者 幕末から明治維新へは、欧米の脅威にさらされた国家の危機であった。国が政治危機を乗り越える時、死指導者を取替え新体制に切り替える方式もある。これに対して指導層を変えず、今までの体制を再強化するという方法もある。 どちらがベストかは単純に決められないが、近世の朝鮮や中国では後者の道を歩んだといえる。だが、日本は明治維新を機に。主として前者を選択した。そして成功した。だが、古い指導層にも配慮を払い絶妙にバランスを発揮していたのである。
29日 やはり革命 江戸時代の支配者であった上級武士(大名)や公家達は、例え朝敵とされた人々でさえ、新政府の中に新しい地位を与えられるという和解的対応がされた。時間の経過と共に、指導者層は

どんどん移動し大名の子弟よりも海外留学を果たした有能な平民出身者が社会の枢要な地位を占めるのが自然に勢いとなって行った。江戸時代までの特権階層が次第に特権を奪われていったのだから確かに明治維新は革命であった。 

30日 「検証」明治維新 指導層の交代の点で、日本の近代社会は明治維新をへて革命的な変化を遂げた。イギリスでは、18世紀の貴族エリートから現代エリートへ、家系、趣味、生活様式に於いて一貫して繋がる流れがあるが、日本のエリート社会には明白に明治以前との断絶が見られる。 西洋式の革命は、市民が貴族を打倒する。日本では町人が武士を打倒するとか、下級武士が大名の地位を奪うということになる。然し、日本では町人には暴力革命を考え者はいなかった。下級武士達は藩の意思統一を図りながら粛々と事を運んだ。日本の独立と名誉を守るのが当時の日本人に課せられた命題だと知る知性の高さがあった。