子罕(しかん) 第九」徳永岫雲斎訳述

原文 読み 現代語訳
9月25日

一、子罕(しまれに)(りをい)(うとき)(めいと)(ともに)(じんと)(ともにす)

子、罕(まれ)に利と命と仁を言うとき、命と与(とも)に仁と与にす。 先生は殆ど、利についてお話しされなかつたが、利の話題は運命と仁徳に関するときだけであった。
9月26日

二、
(たっこ)巷党人曰(このとうじんいわく)大哉(だいなるか)孔子(なこうし)博学而(はくがくに)無所(してなを)成名(なすところなし)子聞之(しこれをききて)謂門弟子曰(もんていしにいいていわく)吾何執(われなにおかとらん)執御乎(ぎょをとらんか)執射乎(しゃをとらんか)吾執御乎(われはぎょをとらん)

達巷の党人曰く、大なるかな孔子、博学にして名を成す所なし。
子、
これを聞きて、門弟子に謂いて曰く、吾何をか執らん、御を執らんか、射を執らんか、吾は御を執らん。
達巷集落の人が言った、偉大なお人だ、孔先生は。幅広く学問をされているのに専門分野に偏られない。これを先生が聞き門弟たちに言われた、「私は何を専門にするか、御者か、射手か。私は御者にする」。
9月27日 三、
子曰(しのたまわく)麻冕礼也(まべんはれいなり)今也純倹(いまやいとはけんなれば)(われは)(しゅうに)(したがわん)拝下礼也(しもにはいするはれいなり)今拝乎上泰也(いまかみにはいするはおごるなり)雖違(しゅょうにたがうと)(いえども)(われはし)従下(もにしたがわん)
子曰く、
麻冕(まべん)は礼なり。今や純(いと)は倹なればり、吾は衆に従わん。下に拝するは礼なり。今上に拝するはおごるなり。衆に違うと雖も、吾は下に従わん。

子が申された、
「麻冠は礼の道に依る。現風潮で、絹冠は倹約に過ぎぬ。冠礼は、大衆の絹冠に従う。君主に招かれたたら宮殿下で拝礼が礼である。現風潮で、宮殿上での拝礼は奢りである。私は大衆と異なり宮殿下で拝礼をしたい」。

 

9月28日 四、
子絶四(ししをたつ)(いなる)(かれ)毋必(ひつなるなかれ)毋固(こなるなかれ)(がなる)(なかれ)
子、
四を絶つ。
意なるなかれ、
必なるなかれ、固なる
なかれ、我なるなかれ。
先生は四つを完全に絶たれた。
私意を働かさぬ、
決めたことに拘らぬ、
執着せぬ、
利己的にならぬである。
9月29日 五、
子畏於(しきょうにお)(そる)(しのたまわく)文王既没(ぶんおうすでにぼっしたれども)(ぶん)不在茲乎(ここにあらずや)天之将喪斯文也(てんのまさにこのぶんをほろぼさんとするや)(こう)死者不得与於斯文也(ししゃはしぶんにあずかるをえず)天之未喪斯文也(てんのいまだしぶんをほろぼさざるや)匡人其如(きょうひとそれよを)(いかん)(せん)
子、
匡に畏る。曰く、文王既に没したれども、文ここ
にあらずや。天の将に斯の文を喪ぼさんとするや、後死者はし文に与るを得ん。天の未だ斯文を喪ぼさざるや、匡人それ予を如何せん。
先生が匡の町で襲われた時に言われた。
「周の文王は既に亡くなられた。文王時代の礼節や仁徳は私の胸にある。天が、私の礼・仁を滅ぼそうとするならば、後世人たちも周王の文化・礼節の恩恵に預かることが出来ない。天が私の文化・礼節を滅ぼさないのであれば、匡人が私に何もすることはできない」。
9月30日

六、
大宰問於子貢曰(たいさいしこうにとうていわく)夫子(ふうしは)聖者(せいじゃ)()何其多能也(なんぞそれたのうなるや)子貢曰(しこういわく)固天縦之将(もとよりてんこれにしょうせいな)(ること)又多能也(またたのうなるをゆるせり)子聞之曰(しこれをききてのたまわく)大宰(たいさい)(われ)(をし)者乎(れり)吾少也賤(われわかきときいやし)故多能(ゆえにひじに)鄙事(たのうなり)君子多乎(くんしはたな)(らんや)不多也(たならず)

大宰、子貢に問いて曰く、夫子は聖者か、何ぞそれ多能なるや。
子貢曰く、もとより天のこれに将聖なること、また多能をゆるせり。子これを聞きてのたまわく、大宰は我を知れり。吾わかくして賤し。故に鄙事に多能なり。君子は多ならんや、多ならず。
呉の大臣が子貢に尋ねた、先生は聖人なのか。なぜあんなに多才・多芸なのか。
子貢がお答えした、先生は天が認めた聖人で初めから多才・多芸です。それを聞いて先生が申された、「呉の大臣は私のことをよく知っている。若い時に卑賤だったので色々なつまらぬ事が得意になった。君子は多芸であるべきではない」。
10月1日 七、
牢曰(ろういわく)子云(しいえら)(くわれ)不試(もちいられず)故芸(ゆえにげいあり)

牢曰く、「孔子のたまわく、吾もちいられず、故に芸あり」。と。

琴牢が言った。「孔先生が言われた、私は官職に用いられなかったので生きる為に多芸になった」。
10月2日

八、
子曰(しのたまわく)吾有知乎(われしるあら)(んや)無知也(しるなきなり)(ひふ)鄙夫(ありて)来問於(われにと)(うや)空空如也(こうこうじょたり)我叩其両端而竭焉(われそのりょうたんをたたいてつくせり)

子曰く、
吾知るあらんや、知るなきなり。鄙夫ありて、我に問うや、空空如(こうこうじょ)たり。我その両端を叩いて竭くせり。

孔子が申された、
「私は物知りであろうか。それは違う。田舎の人物が私に質問した、実に正直で、私は有りの侭を答え説き尽くした。私は初めから終わりまで丁寧に答えただけだ」。
10月3日

九、
子曰(しのたまわく)(ほうち)(ょうい)不至(たらず)()不出図(とをいださず)吾已矣夫(われやんぬるかな)

子曰く、
鳳鳥至らず、河(か)、図(と)を出ださず。吾已んぬるかな。

孔子が申された、
「吉祥を告げる鳳凰がこない。黄河から叡智をもたらす神亀も出ない。末世である、どうしようもない」。
10月4日 十、
子見斉衰(ししさいしゃをみるとき)者冕(べんい)衣裳(しょうし)者与瞽者(ゃとこしゃと)見之雖少必作(これをみるときすこしとかならずたつ)過之必趨(これをすぐるときかならずわしる)
子、斉衰(しさい)者をみるとき、冕衣裳(べんいしょう)者と瞽者(こしゃ)と、これを見るとき必ず作つ。これを過ぐるとき必ず趨る。 先生は、喪服を着た人、高官の礼服を着た人、盲目の楽師に会った時には、若くても必ず起立され、相手を追い越す時は小走りされ敬意を示された。
10月5日 十一、
顔淵喟然歎曰(がんえんきぜんとしてたんじていわく)仰之(これをあおげば)(いよいよ)(たかく)鑽之(これをきれば)(いよいよ)(かたし)瞻之在前(これをみればまえにあり)忽焉(こつえんとして)在後(うしろにあり)夫子循循然善誘人(ふうしじゅんじゅんぜんとしてよくひとをいざなう)博我以(われをひろむるにぶんを)(もってし)約我以(われをやくするにれい)(をもってす)欲罷(やめんとほっすれ)不能(どもあたわず)既竭(すでにわが)(さいをつ)(くせば)(たつと)有所(ころありて)(たくじ)(たるが)(ごとし)雖欲従之(これにしたがわんとほっすといえども)末由也已(よるなきのみ)
顔淵、喟然(きぜん)として歎じて曰く、これを仰げば弥(いよいよ)高く、これを鑽れば(きれば)弥堅し、これを瞻(みる)ればに前に在り、忽焉(こつえん)として後に在り。夫子、循循然として善く人を誘う。我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす。罷めん(やまん)と欲すれども能わず。既に吾が才を竭くせば、立つところありて卓爾たるが如し。これに従わんと欲すと雖も由るなきのみ。 顔淵が大きなため息で言った。孔先生の徳性は、仰げば仰ぐほどに高く、切り込もうとすればするほどに堅い。
前におられるかと思えば、いつの間にか後ろにおられる。

先生は順序よく人を指導される。私に書籍を読ませて知見を広めさせ、礼も実践的に教えてくださる。
私は何度も学問をやめようとしたが結局、やめることができなかった。自分の才能は枯渇しきったようにも感じるが、先生は遥かに毅然としてそびえ立っておられる。
従っていきたいのだが、分からない。
10月6日

十二、
(しや)疾病(みてあつし)(しろ)路使門(もんじんを)人為(してしん)(たらしむ)病間曰(あつきことかんのときにいわく)久矣哉由之行詐也(ひさしいかなゆうのいつわりをおこなうこと)無臣而(しんなくして)(しんあ)(りと)(なす)吾誰欺(われだれおかあざむかん)欺天乎(てんをあざむかんや)且予与其死於臣之手也(かつよそれしんのてにしなんよりは)寧死於二三子之手乎(むしろにさんしのてにしすることなからんや)(かつ)()(たとい)不得(たいそうを)大葬(えざるも)予死於道路乎(よどうろにしなん)

子、疾みてあつし。子路、門人をして臣たらしむ。あつきことかんのとき曰く、久しいかな、由の詐りを行うこと。臣くして臣ありと為す。吾誰をか欺かん、天を欺かんや。且つ予それ臣の手に死なんよりは、寧ろ、二三子の手に死することなからんや。且つ予たとい大葬を得ざるも、予道路に死なん。 先生の病気が重い。
子路が門人に手伝いさせた。症状が少し和らいだ、先生が言われた、
「お前の偽善の癖は長い。家臣がいるように見せかけている。それにより私は誰をだますのか。偽の家臣ありと見られて死ぬより寧ろお前ら弟子に看取られて死ぬほうが良い、道路で野垂れ死にすることはないだろう」
10月7日

十三、
子貢曰(しこういわく)有美玉於斯(ここにびこうあらば)薀賣而蔵(とくにつつみてこれをお)(さんめんか)求善賈而沽(ぜんこをもとめてこれを)(うらんか)子曰(しのたまわく)沽之(これをう)(らんか)沽之(これをう)(らんか)我待(われはこを)(まつ)者也(ものなり)

子貢曰く、斯に美玉あらば、賣(ひつぎ)に薀めて(おさめて)諸(これ)を蔵さめんか。善賈(ぜんこ)を求めて諸を沽らんか(うらんか)。
子曰く、沽らんかな、沽らんかな、我は賈(こ)を待つ者なり。

子貢が質問をした。綺麗な宝石あり、仕舞いでおくべきか、商人に売ったがいいか。

孔子が申された、
「売ればよい。しかし、私は店で買い手を待ってから売る」。

10月8日

十四、
()欲居九(きゅういにおらんと)(ほっす)或曰(あるひといわく)陋如之(いやしこれをいかん)(せん)子曰(しのたまわく)君子居之(くんしこれにおらば)何陋之(なんのいやしきことかこれ)(あらん)

子、九夷に居らんことを欲す。或るひと曰く、陋し、これを如何せん。
子曰く、
君子これに居らば、何の陋しきことかこれあらん。
先生が東方の未開蛮族の国・「九夷」に移住せんとされた。ある人が言う、文明のない賤しい所だか。
先生は言われた、
「君子が住めば文明や学問の教化が進む、文明の問題にはならない」。

註 九夷は日本のこと。
10月9日

十五、
子曰(しのたまわく)吾自衛反於魯(われえいよりろらかえる)(しかる)後楽(のちがくた)(だし)雅頌(がしょうおの)(おの)(その)其所(ところをえたり)

子曰く、
吾衛より魯に反る、然る後に楽正し、雅頌毎々その所を得たり。
先生が言われた、
「私が衛から魯に帰国後、乱れていた音楽が正しくなった、雅・頌もあるべき場所に落ち着いた」。
10月10日

十六、
子曰(しのたまわく)出則事(いでてはすなわちこ)(うけいに)(つかえ)入則事(いりてはすなわちふけ)父兄(いにつかう)喪事(そうじはあ)不敢(えてつとめ)不勉(ずんばあらが)不為酒困(しゅこんをなさず)何有於(なんぞわれ)(にあ)(らん)

子曰く、
出でては則ち公卿に事え、入りては則ち父兄に事う。喪事は敢えて勉めずんばあらず、酒困をなさず、なんぞ吾にあらん。
先生が言われた、
「外に出れば公や卿のような身分の高い人たちにお仕えし、家では父兄など目上の人に奉仕する。葬式は懸命に努めるし、酒を飲みすぎて悪酔いはない。それらは私にとって何でもない」。
10月11日 十七、
子在(しせんじょうに)川上曰(ありてのたまわく)(ゆくものは)者如斯夫(かくのごときか)不舎(ちゅぅや)昼夜(をおかず)
子、(かわ)(うえ)在りて曰く(いわく)
逝く(ゆく)もの斯く(かく)の如きか、昼
夜を舎かず。
ある川の岸に立って先生がこう言われた、
「逝くというのは、流れゆく水流のようなものか、昼も夜も少しも止まるところがない」。
10月12日

十八、
子曰(しのたまわく)吾未見好徳如(われいまだとくをこむこといろ)好色(をこのむがご)者也(ときをみざるなり)

子曰く、
吾未だ徳を好むこと色を好むが如きを見ざるなり。

先生が言われた、
「私はまだ美人より君子に近づきたいと言う人を見たことがない」。
10月13日

十九、
子曰(しのたまわく)譬如(たとえばやまを)為山(つくるがごときに)未成一簣(いまだならざることいっきにして)止吾止也(やむはわがやむなり)譬如(たとえばちをたいらか)平地(にするがごときに)雖覆一簣(いっきをくつがえして)進吾往也(すすむといえどもわがやむなり)

子曰く、
譬えば山をつくるが如きに、いまだならざることいっきにして止むは吾が止むなり。例えば地を平らかにするがごときに、いっきを覆して進むと雖も吾が止むなり。
孔子が申された、
「山を作る際、最後に土をもうひとすくいで成し遂げられないのは自分の責任である。土地を平らにならす際、最初に土を少しならすだけでもそれは自分の働きなのだ」。
10月14日

二十、
子曰(しのたまわく)語之而不惰者(これにつげておこたらざるものは)其回也(それかい)()

子曰く、これに語げて惰らざる(おこたらざる)者は、それ回か。

孔子が申された、
「君子の道を語っている時に、最後まで怠けずに聴いているのは、顔淵だけである」。
 

10月15日

二十一、
子謂顔淵曰(しがんえんをいうのたまわく)惜乎(おしいかな)吾見其進也(われそのすすむをみるも)未見其止也(いまだそのやむをみざりき)

子、
顔淵を謂いて曰く、惜しいかな、吾その進むを見るも、未だその止むを見ざりき。
孔子が顔淵を回想された、
「惜しい人物を亡くしたものだ。顔淵の学問は日々進歩していた、停滞と怠惰を見たことがなかった」。
10月16日

二十二、
子曰(しのたまわく)苗而(なえにし)不秀(てひいで)者有矣夫(ざるものあるかな)秀而(ひいで)不実(てもみ)者有矣夫(のらざるものあるかな)

子曰く、
苗にして秀でざるものあるかな、秀でて実らざるものあるかな。
孔子が申された、
「苗の中には花の咲かないものあり、花が咲いても実をつけないものもある」。
10月17日

二十三、
子曰(しのたまわく)後生可畏也(こうせいおそるべし)(いずくんぞ)知来(らいしゃの)者之不如今也(いまにしかざるをしらんや)四十五十而無聞焉(しじゅうごじゅうにしてきこゆるなきは)(これ)(また)不足畏也已矣(おそるるにたらざるなり)

子曰く、
後生、畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや。四十、五十にして聞こゆるなきは、これ亦畏るるに足らざるなり。
孔子が申された、
「若者達は恐るべき存在だ、これから出てくる人材が、どうして自分たちに及ばないと言えるだろうか。四十歳・五十歳になって世間に聞こえないようでは、これはまた恐れるに足りない」。
10月18日

二十四、
子曰(しのたまわく)法語之(ほうごの)(げん)能無従乎(よくしたがうなからんや)改之(これをあったむる)(をたっと)(しとなす)巽与之(そんよの)(げん)能無説乎(よくよろこぶなからんや)繹之(これをたずぬるを)(たっとし)(となす)悦而不繹(よろこびてたずねず)従而不改(したがってあらためず)吾末如之何也已矣(われこれをいかんともするなきのみ)

子曰く、
法語の言、能く従うことなからんや。これを改ったむるを貴しと為す。巽与の言、能く悦ぶなからんや。これを繹ぬる(たずぬる)を貴しと為す。悦びて繹ねず、従って改めず、吾これを如何ともする末き(なき)のみ。

孔子が申された、
「古典格言を用いた助言は、従わない者はいない。その格言から行動を改めることが大切である。
優しい言葉なれば誰もそれを受け容れる。その本当の真意を尋ねることが肝要。
受け容れながらも意味も尋ねない者、表面的に従いながら実践しない者は私は手の下しようがない」。

10月19日

二十五、
子曰(しのたまわく)(ちゅう)忠信(しんをしゅとし)(おのれ)友不如(にしかざるものをともと)己者(するなかれ)過則勿憚改(あやまちてはすなわちはばかることなかれ)

子曰く、
忠信を主とし、己に如かざる者を友とすることなかれ、過てば則ち改むるに憚ること勿かれ。
孔子が申された、
「誠実さがある人を主にして、真心のない人を友人にしないことだ。過てば、直ちに改めることだ」
10月20日

二十六、
子曰(しのたまわく)三軍可奪帥也(さんぐんありとてすいをうばうべし)匹夫不可奪志也(ひっぷとてこころざしをうばうべからず)

子曰く、
三軍ありとて帥を奪うべし。匹夫も志を奪うべからず。
孔子が申された、
「三軍の大軍であっても心が一つでなければ大将を捕縛し指揮権を奪える。しかし、一人の人民でも、意志固ければその志は奪えない」。
10月21日

二十七、
子曰(しのたまわく)衣弊薀袍(やぶれたるおんぼうをき)(こかく)(をきる)(ものと)(たちて)者立而(はじざるものは)不恥者(ふはじしゃ)(それ)(ゆう)()不支(そこなわず)不求(もとめず)何用不臧(なにをもってかよかざらんとあり)子路終身誦之(しろしゅうしんこれをしょうす)子曰(しのたまわく)是道也(このみちや)何足以臧(なにをもってよしとするにたらん)

子曰く、
やぶれたる薀袍(うんぽう)を衣、狐貉(こかく)を衣る者と立ちて恥じざる者は、それ由か。そこなわず、求めず、何をもってか、よかざらんとあり。子路、終身これを誦す。
子曰く、是の道や何を以て臧し(よし)とするに足らん。
孔子が申された、
「ぼろぼろの綿入れの羽織を着て、狐や狢(むじな)の高級な毛皮を着た人と並んで立っても恥ずかしく思わないのは、子路くらいのものであろう。
「他人を妬まず、求めなければ、どうして善人でいられずにいられようか。」という古い詩に子路はふさわしい男だ。』。子路はこの言葉を喜んで、死ぬまでその詩を口にしていた。
それを聞いて先生は言われた。『その振る舞いを立派であるが、善の実践はそれだけで十分というわけではない。
10月22日

二十八、
子曰(しのたまわく)(としさ)(むくして)然後知松柏之後彫也(しかるのちにしょうはくのおくれてしばむをしる)

子曰く、
歳寒くして、然る後、松柏のしぼむを知る。

孔子が申された、
「寒さの厳しい年、松と柏の葉が、他の樹木よりも遅く枯れ落ちることが分かった」。
10月23日

二十九、
子曰(しのたまわく)知者(ちしゃは)不惑(まどわず)(じん)者不憂(しゃはうれえず)勇者不懼(ゆうしゃしおそれず)

子曰く、
知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。

孔子が申された、
「知恵ある人は迷わない、仁徳ある人に不安はない、勇ある人は恐れない」。
10月24日

三十、
子曰(しのたまわく)可与(ともにともに)共学(まなぶべきも)未可与適(いまだともにみちにゆく)(べからず)可与適(ともにみちにゆく)(べきも)未可(いまだとも)(にたつ)(べからず)可与(ともにたつ)(べきも)未可(いまだともに)与権(はかるべからず)唐棣之(からようの)(はな)其反而(へんとしてそれはんせり)豈不爾思(あになんじをおもわざらんや)室是遠而(しつこれとおし)子曰(しのたまわく)未之思也(いまだこれをおもわざるか)夫何遠之(なんのとおきことか)(これ)(あらん)

子曰く、
ともに共に学ぶべし、未だ与に道に適くべからず。与に道に適くべきも、未だ与に立つべからず。与に立つべきも未だ与に権る(はかる)べからず。唐棣の華、偏としてそれ反せり、豈(あに)爾(なんじ)を思わざらんや、室これ遠し。
子曰く、
未だこれを思わざるか、それ何の遠きことかこれあらん。
孔子が申された、
「一緒に同じ学問をしても、一緒に同じ道を行くことができない。一緒に同じ道を行くことができても、一緒に同じ境地に立てない。一緒に同じ境地に立っても、一緒に同じ目的や利益を求めることができない。当世の詩に「唐棣の華、風にゆらゆらと揺れ、飛び立たんばかりの趣き、主人の居室の遠いことよ」がある。
孔子が申された、
「それは、まだ主人を本気で思っていないからだ。

もし本気で思っていれば家の遠さなどが何の問題になるのか何の問題にもならない」。