天皇弑逆(しぎゃく)のショック

崇神天皇暗殺までの聖徳太子は、蘇我の血縁者としての自覚、仏教信仰を通じた連帯感によって蘇我の一族として自他ともに認め、蘇我の権威を信じてその庇護を頼りにされていたのでではないかと思われます。少なくとも、馬子に協力して物部氏討伐に参加されたころまでの太子は、そのような態度で世に処しておられたのです。

処がその後、太子は崇神天皇の暗殺を目の当たりにされたわけです。

崇神天皇も蘇我氏の系統に立つ天皇であり、馬子との血縁関係もあります。太子からみれば叔父に当たる人でもありました。そうした深い関係にありながら、馬子と崇神天皇の間は折り合いが悪く、遂には馬子が流血の惨事をあえて起こしたのです。この事件に太子は非常に胸を痛められたに違いありません。

叔父である天皇が大臣の馬子によってたいした理由もなく簡単に暗殺されたという事実。利害のためには血族といえども血祭りにあげる蘇我氏の凄惨なる権勢欲。そうした生々しい現実を否応なく目の前にぶら下げられたのです。

それまでの馬子への信頼感が微塵に砕かれたことはもとより、天皇とは何か、そもそも国家の安寧秩序とは何なのか、と言った根本的な疑問が聡明な太子の心にわき上ってきたに違いありません。そしてそうした精神的衝撃は太子に思想的にも人格的にも大きな転機を齎したであろうと考えています。

 

太子の天皇氏的自覚と馬子の誤算

崇神天皇暗殺の直後太子の内面的動揺を知るべくもなく馬子は、太子を執政の中心に据えることで、蘇我氏による独裁的な政権の確立を期したのでした。即ち、蘇我系の女帝・推古天皇を立て、同じく蘇我系の若き皇子・聖徳太子を摂政に据え、女帝と若き摂政を背後から自在に操ろうと馬子は目論んだのです。

しかし、そこに馬子の思わぬ誤算が生じたのです。

推古女帝はともかく、摂政として天皇権の代行を命ぜられた太子は馬子の期待を見事に裏切ったのです。馬子にすれば、若い太子は馬子の思い通りに蘇我的な立場で施策をしてくれるものと思い込んでいたはずです。物部氏討伐のときの太子の目覚しい英知と勇気とに感じ、馬子は太子に非常な信頼を置いていたのです。処がいざ摂政にしてみると太子は物部氏討伐のときのように馬子一辺倒には動かなかったのです。

それはなぜかと言えば太子がその頃から天皇は君主であり、蘇我氏はあくまで臣下であるという理念、言い換えれば天皇氏的な観想を以て事に処するという精神を明確に表出されるようになったのです。

太子は以後、執政の衝にあたるとき、あくまで蘇我的な血の濃い皇子でありながら、蘇我氏とは明確に一線を画し、君主としての天皇と、臣下としての蘇我とを峻別して考えていく方向を進まれるのです。そうした太子の精神的変化を馬子は読み取れず、そこに誤算が生じたと私は考えるのです。

 

寺院の建立と仏教の興隆

聖徳太子は摂政になられましたが、私が太子の生涯区分の第二期としてとらえる最初の十年間には執政上、重要なことはあまりなされていません。然し、この十年間は後の政治改革を断行される準備期間という意味で太子にとって必要な時期だったのです。

まず最初になされたことは、難波の荒陵に四天王寺を建立されたことです。この寺は現在の大阪四天王寺です。そして推古天皇の二年二月一日に三宝興隆の詔勅を発し、群臣に報恩のために寺院を建てることを奨励し、仏教の興隆を図られたといわれます。また「篤く三宝を敬え」という有名な詔勅もだされました。同四年には法興寺を建立されたことも記されています。

しかし、これらのことを以て太子が常に崇仏の思想を持っておられ、仏教興隆を図られたと単純に決めてかかることはできません。なぜかと言えば、その当時の仏教は国家仏教であり、その宗旨の根本には中央集権的な国家の安泰と、王侯貴族の地位の保全とを図るという理念が説かれているからです。つまり、仏教を群臣の間に信仰、普及させることで太子が理想とする古代国家の構想に役立たせるということが太子本来の狙いであったと考えるのです。

 

慧慈と太子

仏教をどのようにして国家の安寧秩序づくりに役立てるのか、即ち国家仏教の実際とはどのようなものなのか---天皇氏的自覚をもたれ摂政として政治を行っていこうとされる聖徳太子にとって自分の政策を明確にするために、そうした視点からする国家仏教の研究は必要不可欠でした。

しかし、国家仏教と言っても既に成育過程においてかなりに仏教的教養を身につけておられた太子は、もはや蘇我氏のように百済などを通して仏教を学びとるだけでは満足されませんでした。それまで仏教は北魏から高句麗に伝わり、高句麗からさらに百済が受け、その百済が日本に伝えるという間接的な伝播によってもたらされました。しかし、太子は百済僧などから仏教を教えられるよりも早くから仏教を信奉していた高句麗の仏教を直接学びとろうと思われ、高句麗の僧侶慧慈を呼び寄せられて新たに仏教および儒学を学ばれたのです。

このとき太子は、その当時すでに高句麗の背後にひかえ、より強力な集権的統一国家を築いた隋という国の存在も知ります。そして北朝系の大乗仏教である国家仏教の根本を高句麗よりさらに強力な仏教国家である隋に行って直接学びとり、国家仏教への開眼を得たいという気持ちを抱かれたのでした。このように、国家仏教の研究ということが一因になり太子の隋との直接外交という発想も出てきたとみられます。

こうみてくれば、第二期の聖徳太子は具体的な政治上の改革には着手されませんでしたが、行うべき政治の基本理念を国家仏教に求められ、次第に国家仏教的理念に基づく政治改革の青写真を胸のうちに描かれていったと見られます。そして第三期において、いよいよその青写真にしたがって政治改革を断行されたのです。