9月徳永講話 リーダーの持つべき資質とは何か 

日本の総理は世界から嘲笑されている。これは、究極的には日本人の民度低下を笑われているのと同じである。

日本のトップリーダーは嘆かわしい程に劣化している、これは民度が落ちていることの裏返しである。

甘ったるい国家観の戦後日本人にまだ気がつかぬ。 

国民は、リーダーの資質の有無を問題視しなくてはならぬが、マスコミ自体がその認識に欠けジャーナリズム精神が錆びて、健全な批判精神の無い日本である。

記者会見の実態に関してーーー談合そのもの。 

政治家もメデイアも国民を甘く見ている。英国では、ジャーナリストは権力の座の政治家や経営者を狼狽させるのが義務だと思っており調査報道により彼らがマヌケであることを報道で示せば成功となる。 

政権交代であっという間に変革が出来ると思った幼稚な日本国民はナイーブ過ぎるのであります。 

「国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ」と言われる。日本は将にその現実に直面しているのであります。 

それは、指導者が

「義命」に殉じる決意がない事に尽きる。 

人物論の名ジャーナリスト伊藤肇著「現代の帝王学」を思い出しました。その中で「上に立つ者の道三十二箇条」が紹介されております。

実は、これは、安岡先生の高弟・岩沢正二という住友銀行のナンバー2の作でありました。私も支店長就任の時にこれを貰いました。同時に、「支配人の努め」という本も貰いました。 

この32か条は企業経営者間ではかなり出回ったものであります。

一歩でも近づこうと努力したものであります。これは「人生訓」としても素晴らしいと思うのであります。 

統帥綱領みたいなものであります。

第1条の「(むこ)うところを明瞭に示せ」の「嚮」という字なんか、単なる「向かう」という意味ではない。神や仏がその姿を現す時に使う「影嚮(ようごう)」という意味の響き、心身すべてが向うという感じでありましょう。(仏・菩薩また神などが仮の姿をとって人々の眼前に現れること。また、その姿。) 

第二条の「信を他の腹中に置け」もいいではありませんか。

第四条の「褒める時褒め、叱る時叱る。忘れたり、遠慮したりするな」、なんてことは平易に言葉で書いてあるけど、なかなか出来ない。叱ると怒るとは違うのですよね。

第六条の「功を部下に推し、責を身に引け」とか

第七条の「金銭に恬淡(てんたん)たるべし」とか、住友銀行の幹部教育は中々のものでしょう? 

今の民主党政権の大臣にこれを教育したいものですね。 

ここで、佐藤一斎先生の「重職心得箇条」をご披露しておきます。 

安岡先生が、銀行の幹部―部長・支店長向けに講話をされることになり我々も受けた。5年かけて10回、朝9時半から昼までぶっ続けで講演された。紙切れ一枚持たれない、黒板に難しい文字をお書きになり一気にお話される。

実は、その講演まで、体系的に安岡学は纏っていなかったのです。この講演禄を纏めたことにより改めて世間にその凄さが広まったと言われています。

この住友銀行の講演が「東洋思想十講」という一冊の本となりました。儒教が主体となっていますけれども仏教、神道とかいわゆる東洋思想の源流が模索されています。

やはり、企業でも「職員就業心得箇条」というようなものがあると無いとでは大違いなのであります。 

さて、戦後65年、色々な意味で日本人の精神的支柱が無いという時代に入ってしまいました。これを何とかしなくてはならぬ、と云うのが本会の目的でもあります。 

安岡先生は、「現在のように大衆化し、自壊現象を深刻にしている危険な社会だ」と40年前から指摘されていたのです。政治、経済、社会とも全くそのような状況となっている。 

日本の近代主義、現代主義で特に、日本が占領政策により非常に毒された、いわゆる東京裁判史観に今の日本人は完全に「芯」を抜かれたと思いますね。

菅、鳩山、細川、河野、羽田の年代ですね。二世議員年代というのは、本当の政治家としての基本的理念・哲学を持っておらない。 

昭和初年以来、終戦に至るまで、日本の本当の真実は今の教育ではぜんぜん正しく教えておらない。

左の思想に凝り固まった日教組・市民派グループが朝日新聞の支援で遂に政権党になった。日本は、とんでもない国家的試行錯誤に嵌まって自壊が決定的になろうとしている。 

安岡先生は、リーダーの持つべき資質として、こんな事を言われていた。

「いかなる激しい局面に対処するにも、疲れることのない滾々たる精神的源泉を養うこと」だと。 

また、「自分の心眼を内に(めぐら)すことができ」

そして、「ものの性命・真実を把握し、真の改革、建設をやる」。

そういう資質が必要であると言われていた事が今日、非常に痛感されてなりません。 

その意味で、上に立つ者の三十二箇条」はもっと強調され読まれてよいと思うのです。

今の政治家にはその信念が何もない。日本をどこにリードするのか見えない。 

安岡先生はこう言われていました。

「蘇老泉が名相の菅仲を論じて、「国は一人を以て興り、一人を以て亡ぶ。賢者は、その身を死するを悲しまずして、その国の衰うるを憂う」と云っているが、それが帝王学の基本である」と。

蘇老泉の「管仲論」―宋の時代に活躍した人物。 

それにしましても、安岡老師のようなリーダーの師父というようなお方が全くいなくなりましたね。

現代の民主主義は腐った民主主義ですね。国民は、みなその中に埋没してしまい毅然として改革するという「士」がいなくなりました。 

将に、日本は今、東京裁判史観によりすっかり毒されてしまい、我々も歳を取り、最早や肉体的には何の役に立つことが出来ない。然し、余命いくばくもない80歳でありますが、最後まで、日本のこの現状を見守って少しでも手助けになるように頑張っていかなくてはなりません。

そういう意味でこの三十二箇条は最高の指針ではないかなと思うのであります。 

安岡先生の思い出で印象深い講話がある。

道元禅師が中国から帰ってきて、

「あんたは、どんな仏法を身につけましたか」と聞かれた時、

当下(ただち)(がん)(のう)()(ちょく)なることを認得して、人に(あざむ)かれず、便(すな)()空手(くうしゅ)にして郷に(かえ)る」と。

つまり、「眼は横に、鼻は直にある」という事を悟って帰ってきた。

道とか真理というものは大体そんなものでしょう。決して大理論ではないのですね。 

終戦の詔勅の原稿で、安岡先生は、「義命の存する所」としたのを、時の大臣が「時運の趨く所」と書き換えてしまった。

これは有名な話でありますが、安岡先生は非常に残念がっていた。時運の趨く所では、人間の志が定まらない、云われていたそうであります。 

今日の政治、経済を見ると全くその予言通り、義に定まらず、あっちに行ったり、こっちに行ったりです。

「義命」という言葉は、左伝から出ています。

「信以て義を行い、義以て命を為す」が出所です。

つまり、道義の至上命令であります。 

この話を、昭和天皇が聞かれて、真に我が意を得たりというご表情で大きく頷かれたと聞き及んでおります。

やはり、精神が大切、原点の企画設計が間違っていると、歳月を経てあらぬ方向へ進んでしまうのであります。日本人は日本人の原点に戻ることが実に肝要なのであります。