八、「(たい)(はく) 第八」徳永岫雲斎訳述


原文 読み 現代語訳
9月4日

一、
子曰(しのたまわく)泰伯其可謂至徳也已矣(たいはくはそれしととくというべきのみ)三以(みたびてん)天下讓(かをもってゆずる)民無得而称焉(たみえてほむるなし)

子曰く、
泰伯はそれ至徳と謂うべきのみ、三たび天下を以て譲る、民得てほむるなし。

孔子が申された、
「泰伯は至高の徳の持ち主といってもいい。天下の位を三度も兄弟に譲ったが、人民は、その意味が理解できない」。
9月5日 二、
子曰(しのたまわく)恭而(きょうにしてれ)無礼則労(いなければすなわちろうす)慎而無礼則思(しんにしてれいなければすなわちしす)勇而(ゆうにしてれい)無礼則(なければすなわち)(らんす)直而無礼則絞(ちょくにしてれいなければすなわちこうす)君子篤於(くんししんにあつ)(ければ)則民興於(すなわちたみじんに)(おこる)故旧不遺(こきゅうにわすれざれば)(すなわ)民不偸(ちたみうすからず)
子曰く、
恭にして礼なければ則ち労す。慎にして礼なければ則ち思す。勇にして礼なければ則ち乱す。直にして礼なければ則ち絞す。君子、しんに篤ければ則ち民に仁興る。故旧わすれざれば則ち民偸からず。
孔子が申された、
「丁寧なだけで礼がなければ徒労に終わる。控え目だけで礼を知らねば、悩むだけ。
勇敢なだけで礼を知らねば粗暴になる。率直なだけで礼を知らないと単なる自己主張に終る」。
君子が近親者に親切ならば人民も見習う。君子が昔の友人を忘れなければ民も薄情でなくなる」。
9月6日

三、
(そう)子有疾(しやまいあり)召門弟子曰(もんていしをめしていわく)(よが)(あしを)(ひらけ)(よがて)予手(をひらけ)詩云(しにいう)戦戦(せんせんきょう)兢兢(きょうとして)(しんえん)臨深淵(にのぞむがごとく)(はく)(ひょうを)薄氷(ふむがごとし)而今而後(じこんじご)吾知免夫(われまぬかるることをしるかな)小子(しょうし)

曾子、疾あり。門弟子を召して曰く、予が足を啓け、予が手を啓け。詩に云わく、戦戦兢兢として深淵に臨むが如く、薄氷を履むが如し。而今而後、吾免るることを知るかな、小子。 曾先生が病気になられた、門弟を集めて言われた。
着物から私の手と足を出してくれ。
詩経にある「おそるおそる底の見えない深淵に臨むように、今にも割れそうな薄氷の上を踏むように(父母から頂いた大切な身体を取り扱いなさい)」。しかし、以後、かかる身体への心配が不用になった。
9月7日 四、
(そう)子有疾(しやまいあり)孟敬子問之(もうけいしこれをとう)曾子言曰(そうしいいていわく)鳥之将死(とりのまさにしなんとするや)其鳴也哀(そのなくやかなし)人之将死(ひとのまさにしなんとするや)其言也(そのげんや)(よし)君子所貴乎(くんしみちにたっとぶところ)(のもの)者三(さんあり)(ようぼうを)容貌(うごかしては)斯遠暴慢矣(すなわちぼうまんにとおざかる)正顔色(がんしょくをただしくしては)斯近信矣(すなわちしんにちかづく)出辞(じきをいだ)(しては)斯遠鄙倍矣(すなわちひばいにとおざかる)辺豆之事(へんとうのことは)則有司存(すなわちゆうしそんす)
曾子、疾あり。孟敬子、これを問う。曾子言いて曰く、鳥の将に死なんとするや、その鳴くこと哀し。人の将に死なんとするや、その言や善し。君子の道に貴ぶところの者三あり。容貌を動かしては斯ち暴慢に遠ざかる。顔色を正しくしては斯ち信に近づく。辞気を出だしては斯ち鄙倍に遠ざかる。辺豆(へんとう)のことは則ち有司存す。

曾先生が病気になり孟敬子がお見舞した。曾先生が言われた、今にも死のうとする鳥の鳴き声は哀れ、人間が死ぬ間際に残す言葉は心が篭っていると古来から言われる。
君子は三つの道を尊重しなければならない。
第一、容貌、立ち居振る舞いを慎重にすれば人は侮らない。
第二、顔色を正せば人々の信頼得られる。
第三、発言の語気、野卑な言葉を避ける。祭祀用の高杯のことは、役人に任せられよ。

 

9月8日

五、
曾子曰(そうしいわく)以能問於(のうをもってふのう)不能(にとい)以多問於(たをもってすくなき)(にとい)(あれども)(なきがご)(とくにし)(みてども)(きょなるが)(ごとくし)犯而(おかさざるも)不校(むくいず)昔者(むかし)(わが)(とも)嘗従事於斯矣(かってここにじゅうじせり)

曾子曰く、能を以て不能に問い、多を以て寡なきに問い、有れども無きが若くし、実てども虚なるが若し、犯さざるもむくいず。昔し吾が友、嘗て斯に従事せり。 曾子が言った、才能あるも誇らず、才能のない人にも教えを請い、多才であっても人に尋ねる。充実していても空虚な振舞い、他人からの攻撃にも反撃しない。私の旧友・顔淵は、昔、このように努めていた。
9月9日 六、
曾子曰(そうしいわく)可以託六尺之孤(もってりくせきのこをたすくべく)可以寄百里之(もってひゃくりのめいをよす)(べく)臨大節而不可奪也(たいせつにのぞみてうばうべからず)君子人(くんしじ)(んか)君子人也(くなしひとなり)

曾子曰く、以て六尺の孤を託すべく、以て百里の命を寄すべく、大節に臨みて奪うべからず。君子人か、君子ひとなり。

曾先生が言われた、六尺の幼君を預けることができ、また方百里の大国の摂政を任せることができ、そして、重大事に際し確固たる信念で臨める、これが君子らしい人物であろう」。

9月10日 七、
曾子曰(そうしいわく)士不可以(しはもってこうきな)不弘(ざるべか)(らず)任重而(にんおもくしてみち)(とおけれ)(ばなり)仁以(じんもって)(おのが)(にんと)(なす)不亦重乎(またおもからずや)死而後已(ししてのちやむ)不亦遠乎(またとおからずや)
曾子曰く、士は以て弘毅ならざるべからず。任重くして道遠し。仁以て己が任と為す、亦重からずや。死して後已む、亦遠からずや。 曾先生が言われた。
「志ある者は、度量が広く、また強い人間でなくてはならぬ。その負担は重く、目的までの道は遠い。 人の道を己の任務とする、なんと重いことか。その仁の実践は死ぬまで続くなんと遠いことであろう。
9月11日 八、
子曰(しのたまわく)興於(しにお)(こり)立於(れいに)(たち)成於(がくに)(なる)
子曰く、詩に興り、礼に立ち、楽に成る。 孔子が申された、人間修養の過程は、「詩を読み感動を覚え、社会規範を身につけ礼法による自己の社会的自立を確立し、音楽を聴いてバランスのとれた人間性を完成させることだ」。
9月12日

九、
子曰(しのたまわく)民可使由之(たみはこれによらしむべし)不可使知之(これをしらしむべからず)

子曰く、
民はこれに由らしむべし、これを知らしむべからず。
孔子が申された、
「人々は、政策に従わせることは可能だが、政策の真義、目的などの理解はなかなか出来ないものだ」
9月13日

十、
子曰(しのたまわく)好勇疾貧乱也(ゆうをこのむもひんをにくめばみだる)人而(ひとにして)不仁(ふじんなる)疾之已甚乱(これをにくむときはなはだしきときはみだる)也。

子曰く、
勇を好みて貧をにくめば乱る、人にして不仁なる、これをにくむとき甚だしきときは乱る。

孔子が申された、
「勇を好む力の強い者が、貧乏生活に不満あれば反乱を起こす。反対に、思いやりや正義のない不仁な人物を強く追求すれば、これもまた反乱となる」。
9月14日

十一、
子曰(しのたまわく)如有周公之才之(たといしゅうこうのさいのびあるとも)美、使驕且吝(もしたかぶりかつおしめば)

其余(そのよ)不足観也已(はみるにたらざるのみ)

子曰く、
もし、周公の才の美るりとも、もし、驕り且つおしめなば、その余は観るに足らざるのみ。
孔子が申された、
「たとえ周公ほどの優れた才覚に恵まれていても、傲慢な気質が高慢であれば、もうそれまでで、それ以外のことを観察する必要はない」。
9月15日

十二、
子曰(しのたまわく)三年学(さんねんまなびて)不至於(さいわいにいたら)(ざるは)不易得也(えやすからざるなり)

子曰く、
三年学びてさいわいに至らざるは、え易からざるなり。

孔子が申された、
「三年間、真摯に学問をし、生計の仕事を得ることのできない者は見当たらぬ」。

9月16日

十三、
子曰(しのたまわく)篤信(あつくしんじて)好学(がくをこのみ)守死(しをまもりて)善道(みちをよくし)危邦(きほうに)不入(はいらず)乱邦(らんほうに)不居(はおらず)天下(てんかみ)(ちあ)道則(らばすなわち)(あらわれ)無道則隠(みちなくんばすなわちかくる)(くにに)(みちあ)(りて)貧且賤焉恥也(ひんにしてかついやしきは)(くににみ)無道(ちなくして)富且貴焉恥也(とみかつたっときははじなり)

子曰く、
篤く信じて学を好み、死を守りて道を善くし、危邦には入らず、乱邦には居らず。天下道あらば則ちあらわれ、道なくんば則ち隠る。邦に道ありて、貧にして且つ賤しきは恥なり。邦に道くして、富み且つ貴きは恥なり。
孔子が申された、
「人の道を固く信じ、学問を好み、例え死に到ろうとも節操を守り人の道を貫く。乱れた国には入らず、乱れておれば去る。世間が人の道を履んでおれば働き、外れておれば去る。国に人の道の無い、乱国で、無道に乗じて富貴なるは恥である。
9月17日

十四、
子曰(しのたまわく)不在(そのくらい)(にあら)(ざれば)不謀(そのまつりごと)(をはか)(らず)

子曰く、
その位に在らざれば、その政を謀らず。

孔子が申された、
「責任ある地位にいなければ、政治のことを議論しない」。
9月18日

十五、
子曰(しのたまわく)師摯之(ししのは)(じめ)関雎之(かんしょのお)(わり)洋洋乎(ようようことして)(みみに)(みつる)(かな)

子曰く、
師摯の始め、関雎(かんしょ)のおわり、洋洋こ、として耳に盈つるかな。
孔子が申された、
「楽師長の摯(し)の始まりの朗唱から、関雎(かんしょ)の曲終章の終わりの盛り上がた乱調子は、壮大華麗、今でも耳に心地よく満ちて残っている」。
9月19日 十六、
子曰(しのたまわく)狂而(きょうにして)不直(ちょくならず)同而不愿(とうにしてげんならず)空空而(こうこうにしてしん)不信(ならずんば)吾不知之矣(われこれをしらず)
子曰く、
狂にして直ならず、同(とう)にして愿(げん)ならず、空空(こうこう)にして信ならずんば、吾これを知らず。
孔子が申された、
「集中しても、どこか真っ直ぐではない。物を知らず、分を心得ない。誠実そうだが信頼できない。私はどう指導してよいのか分からない」。
9月20日

十七、
子曰(しのたまわく)学如不及(がくはおよばざるがごとくせよ)猶恐失之(なおこれをうしなわんことをおそれよ)

子曰く、
学は及ばざるが如くせよ、猶これを失わんことを恐れよ。

孔子が申された、
「学問は、まだまだの気持ちを何時も持ちなさい、得た知識や教養を損なわないようにしなさい」。

 

9月21日

十八、
子曰(しのたまわく)巍巍乎(ぎぎこたり)舜禹之(しゅんうの)(てんか)天下也(をたもつや)而不与焉(あずからず)

子曰く、
巍巍乎(ぎぎこ)たり、舜・禹の天下をたもつや、あずからず。
孔子が申された、
「高山の如く、堂々としたものだ、舜と禹の天下統治は。しかも、舜・禹帝は陣頭指揮をしたわけではなく聖徳の感化だから」。
9月22日

十九、
子曰(しのたまわく)大哉(だいなるかな)堯之為君也(ぎょうのきみたる)巍巍乎(ぎぎこたり)唯天(ただてんもて)(だいな)(りとなし)唯堯則之(ただぎょうこれにのっとる)蕩蕩乎(とうとうことして)民無能名焉(たみよくなづくるなし)巍巍乎(ぎぎことして)其有成功也(それせいこうあり)煥乎(かんことして)(それ)(ぶん)文章(しょうあり)

子曰く、
大なるかな、尭の君たる。巍巍乎(ぎぎこ)として、唯天もて大なりと為し、唯尭これに則る。蕩蕩乎(とうとうこ)として、民能く名づくるなし。巍巍乎としてそれ成功あり、煥ことしてそれ文章あり。
孔子が申された、
「偉大なり尭帝、堂々たるかな、ただ尭帝のみ天道に従って治世す。帝徳は浩々とし、安定、人民も言う言葉なし。尭の政治は毅然とす、優雅なるかなその文物・文化の輝きは」。
9月23日

二十、
舜有臣五人而(しゅんにしんごにんありて)天下(てんかおさ)(まる)武王曰(ぶおういわく)(よに)(らん)乱臣(しんじゅう)十人(にんあり)孔子曰(こうしのたまわく)才難(さいかたし)不其然乎(それしからずや)唐虞之(とうぐのさい)(より)於斯(ここにおいてさ)(かんなり)(となすも)有婦人焉(ふじんありて)九人而已(きゅうにんなるのみ)三分(てんかをさんぶ)天下有其二(してそのにをたもつ)以服事(もってそのいんに)(ふくじす)周之(しゅうのと)(くは)其可謂至徳也已矣(しとくというべきのみ)

舜に臣五人ありて天下治まる。武王曰く、予に乱臣十人あり。

孔子曰く、
才難し。それ然らずや。唐虞の際、斯に於いて盛んなりとすも、婦人ありて、九人なるのみ。天下を三分してその二を有つ、以てその殷に服事す。周の徳はそれ至徳と謂うべきのみ。

舜帝には優秀な臣下が五人いて天下がよく統治された。周の武王は言われた、私には政治に従事する有能な臣下が十人いる。

孔子が申された、
「才能ある人材を得るのが困難というが、そうではない。唐(舜)と虞(禹)が天下を治めていた時代が終わり、周初には勢威が盛んであった。しかし、武王の十人の有能な家臣は、夫人を除けば九人であった。周の文王(武王の父)が西伯となり天下を三分割、その二を領有した。残りの三分の一を統治する殷に、周は臣従していた。
(実力で上回っていたが殷に謀反を起こさなかった)周の徳は最高であると」。

9月24日

二十一、
子曰(しのたまわく)(うは)吾無間然矣(われかんぜんすることなし)菲飲食而政孝乎(いんしょくをうすくしてこうを)鬼神(きしんにいたし)悪衣服而致美乎黻冕(いふくをあしくしてびをふっぺんにいたし)卑宮室而尽力乎溝洫(きゅうしつをひくくしてちからをこうきょくにつくす)(うは)吾無間然矣(われかんぜんすることなし)

子曰く、
禹は吾間然することとなし。飲食をうすくして孝を鬼神に致し、衣服を悪しくして美を黻冕(ふつべん)に致し、宮室を卑く(ひくく)して力を溝洫(こうきょく)に尽くす、禹は吾間然することなし。
孔子が申された、
「禹の君主は批判すべき点なし。飲食を少なくし鬼神に供物をす、己の衣服を簡素にし、祭祀の衣服を整え、簡素な住居にて、全力を治水工事に尽くした。禹の君主は批判すべきところがなし」。