徳永の「近現代史」その10 平成28年9月

大陸進出1.

日本が大陸に進出して中国と戦火を交え侵略した事は決してよくない事であるのは間違いない。当時の列強諸国の白人は全てやっていたと言っても他民族の領土の侵略は特に現時点での感覚では局悪に近い。ここに至る迄、実に複雑な事情が対欧米、対中華民国、そして中国共産党現政権、日本の軍部、と一筋縄では説明できない事実が多々ある。それは日本の国内事情だけで侵略が進んだものでもない、相手の挑発もあり、なかんずく米国との複雑な経緯と推移をへて足を抜くことが不可能の泥沼に嵌まったのである。戦争とは所詮双方に理がある相対的なものである。私見としては矢張りアメリカのプロットに嵌まった国際感覚音痴、島国の白人音痴の結果が齎した面が強い。

大陸進出2.     

第一次世界大戦のあと、中国は軍閥の抗争が激しく続いている。中国国民党は国民革命を目指しているが1924年共産党と提携した。これが第一次国共合作である。蒋介石を指導者とする国民革命軍を創立、軍閥・帝国主義打倒のため北伐を行う。1926年、大正157月に北伐開始、10月漢口、翌年上海にいたる。然し、列強の圧迫と浙江財閥の要求をのみ共産党と絶縁した。そして南京政府を蒋介石が樹立する。

大陸進出3.     

1928年昭和34月、最後の軍閥張作霖打倒に進む。北伐のこの成功は中国に利権を持つ日本にとり、大戦後恐慌に苦しんでいた日本経済に深刻な影響を与えた。これを食い止め更に大陸の利権を確保する必要が起きた。日本は山東出兵を断行し、張作霖爆死事件を起こした。大恐慌の矛盾を外にそらすために中国の国共内戦に乗じたのであろう。1931年柳条溝事件を契機に満州事変を起こした。

満州事変1.     

満州事変の導火線からはじめなくてはならぬ。1931年、昭和6918日の柳条溝事件勃発の電信が日本外交年鑑主要文書下巻にある。これは林奉天総領事の報告である。
625(至急極秘)・・各方面の情報を総合するに、軍に於いては満鉄沿線各地に亘り、一斉に積極的行動を開始せむとするの方針なるが如く推察せらる。本官は在大連内田総領事を通して軍司令官の注意を喚起する様措置方努力中なるも、政府に於いても大至急軍の行動差し止め方に付適当なる措置を執られんことを希望す。

満州事変2.     

630(至急極秘)参謀本部建川部長は18日午後1時の列車にて当地に入り込みたりとの報あり。軍側にては極秘に附し居るも、右は或は真実なるやに思われ、又満鉄木材木村理事の内報によれば、支那側に破壊せられたりと伝えらるる鉄道箇所修理の為、満鉄より線路工夫を派遣せるも、軍は現場に近寄せしめさる趣にて、今次の事件は全く軍部の計画的行動に出たるものと想像せらる。
以上の報告の通り、当時、公式には中国兵の満鉄爆破にあったことになっていたが、この資料は実際には関東軍と中央政府の計画的行動が伺える。

満州事変3.     

中国に於ける日本の利権の最大のものは、関東州-旅順・大連-の租借権と南満鉄とその付属地などである。1930年頃から満州でも排日運動が盛んとなり、中国が満鉄に平行して、二つの鉄道を独力で建設したため、北満大豆がこのルートで流れ満鉄は大打撃を受けた。国内では「満州は日本の生命線」として獲得せよとの叫び声が起きた。

満州事変4.     

このような情勢下にあり、関東軍を中心とする満州占領計画がめぐらされていた。閣議でも問題となったが、陸軍は参謀本部の建川少将を説得に派遣し、918日夜奉天に着いたが元々同調者でもあり、関東軍の参謀板垣征四郎大佐や石原莞爾中佐らの計画を黙認したと言う。関東軍は武力で満州を中国から切り離す事を企図したのである。

満州事変5.     

柳条溝の満鉄線路爆破は、その夜の1030分、奉天独立守備隊河本末広中尉ら数名によってなされた。関東軍は、これを中国側の行為であるとし、中国軍の兵舎北大営を攻撃し、ここに運命の「15年戦争」の発端となる満州事変が起きた。半年で満州を制圧した。若槻内閣は参謀本部と共同で不拡大方針を表明したが関東軍はこれを無視し事変は拡大の一途をたどる。軍の行動は日本の権益を守るためだとして世論はこれを支持した。若槻内閣は総辞職した。国民世論はこぞって満州の軍の行動を支持した、これをどう判断するか、国民が断固として反対しなかった、時の政府は不拡大の方針であった。

満州事変6.     

中国の対日感情は極度に悪化し排日運動も激化。上海で日本の海軍陸戦隊が中国軍と衝突した。然し列国の調停で紛争が収拾されると日本軍は即時撤退した。満州で関東軍により新国家建設が強力に推進されていた、昭和719323月、日、朝、満、蒙、漢の諸民族-五族協和-を理想に掲げて満州国建設が宣言された。清朝最後の皇帝溥儀が執政となり、二年後皇帝となる。犬養内閣は満州国承認に消極的であったが、昭和7年の5.15事件で殺害されて内閣が倒れ次の斎藤実内閣は両国に日満議定書を締結して満州国を承認した。軍部が新国家を建設するというのは実に納得のいかないものである。そして軍部が益々野望を膨らませて行くのである。関東軍と中央政府の意思疎通、関東軍の行動は恰も独立政府そのものであり、理念は兎も角として許しがたい独走であり日本を破滅に導いた原点である。

大陸政策の転換      

田中義一内閣は中国への不干渉政策を改め、欧米諸国と同様な権益擁護外交へ転換した。遅まきの欧米模倣である。親日的な中国の北方軍閥の巨頭、張作霖に満州の東三省を支配させ、中国本部を蒋介石に任せて日本の権益を維持しようとした。然し張作霖は中国のナショナリズムと北伐の勢いに押され、援助を受けてきた日本に抵抗するようになつた。所詮、外国本土でのやり過ぎは禍根を産む。

リットン報告  

国際連盟日華紛争調査団は英国のリットン卿を委員長としてフランス・イタリア・ドイツ、オブザーバーとして米国の代表5人である。1932年に来日して精力的に現地調査し極めて詳細なものである。ここにその第四章を披露する。「918日午後10時より10時半の間に、鉄道線路上若しくはその付近に於いて爆発ありしは疑いなきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春より南行列車の定刻到着を妨げさりしものにて其れのみにては軍事行動を正当化とするものに非ず。同夜に於ける如上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認めることを得ず。尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものに非ず」。事変は日本の正当自衛権の発動でないとし、満州に於ける中国の主権を認めている。

5.15事件1.    

海軍の青年将校を中心とした一団が首相官邸などを襲撃し犬養首相を射殺した。ここに檄文がある。「日本国民よ、刻下の祖国日本を直視せよ。政治・外交・経済・思想・軍事、何処に皇国日本の姿ありや。政権、党利に盲ひたる政党と之に結託して民衆の膏血を搾る財閥と更に之を擁護して圧政日に長ずる官憲と軟弱外交と堕落せる教育、腐敗せる軍部と、悪化せる思想と、途端に苦しむ農民、労働者階級と而して群居する口舌の徒と、日本は今やかくの如き錯綜せる堕落の淵に既に死なんとしている。革新の時機、今にして立たずんば日本は亡滅せんのみ。国民諸君よ武器を執って立て、今や邦家救済の道は唯一つ「直接行動」以外の何物もない。農民よ、労働者よ、全国民よ祖国日本を守れ。 陸海軍青年将校 農民同志」である。

5.15事件2.    

犬養総理の次の斎藤実内閣は、穏健派と言われて世論の支持を受けた。昭和6-1931年、陸軍の中堅将校による軍部内閣樹立のクーデター計画が発覚した。3月事件、10月事件と言われるもので、翌年2月、3月には、血盟団員が前蔵相井上準之助、三井財閥幹部の団琢磨を暗殺している。いずれの事件も橋本欣五郎を指導者として陸軍中堅将校を構成員とする秘密結社、桜会に係るもので、これに大アジア主義の思想家大川周明が加わり引き起こした。その目的は政党内閣を倒して軍部政権を樹立するものであった。軍部の組織的猪突猛進。

2.26事件1.     

この頃、陸軍内部では、皇道派と統制派が激しく対立、昭和10年、統制派の陸軍省軍務局長永田鉄山が皇道派に殺害されている。昭和11-1936年、226日未明、皇道派の来年将校が首相岡田啓介、蔵相高橋是清、内大臣斎藤実、侍従長鈴木貫太郎らを襲撃とした。高橋是清、斎藤実は殺害された。東京は戒厳令が敷かれ、天皇の命による反乱軍討伐体制がとられ事態は収拾されたが皇道派は力を失い統制派が主導権を握った。

2.26事件2.    

皇道派は、国体を明白に唱える荒木貞夫、真崎甚三郎ら将軍中心の勢力、統制派は陸軍省や参謀本部の軍の統制を基礎に大陸経営を進める勢力であった。大陸進出勢力が主導権を把握した事で事後の日本の大陸進出が本格的になる。ここらに敗戦を招いた路線が既に見られる。それは昭和10年であり、これから支那事変が起き抜き差しならぬ道へ進むのである。青年将校の義憤を私は日本に、真のノブレスオブリージュの欠如を見てとるものである。戦後は更にプア−であるし今後の日本に空恐ろしい悲哀さえ覚える。日本に真のエリート教育が絶対必要である。

国際連盟脱退  

日本の大陸進出は、満州国独立承認、熱河省への侵入など次第に露骨となる。これは国際連盟を刺激した。国際連盟は、一連の行為は侵略であるとして対日勧告案が提出された。総会で421で採択された。日本は連盟脱退を提出した。日本の大陸進出を正当化し連盟諸国から離れ国際的孤立への道を進んで行く事となる。

日本ファシズム      

ファシズムは第一次世界大戦後、イタリアで起こった民族主義的社会主義運動で尖鋭な反革命集団を推進力として既存の国家権力の反動的独裁を強化するものである。日本の場合ファシズム運動は満州事変を起点として進展した。日本の場合は大衆運動ではなく、軍閥などの上層部の運動が特色である。政党政治の腐敗に対する不満を利用して急進的な国家改造運動である。資本主義の行き詰まりを打開するため、侵略、排外をして天皇中心の国家改造をめざし、武力によるアジア解放を目的として急進的運動が起こったのである。

大アジア構想-大東亜共栄圏  

日本のような小領土の国は、その発展の為に大領土を保有している英国やロシアと戦う権利があるということから、英国・ロシアをアジアから排除して日本を盟主とする大アジア構想である。これは21世紀の現時点で考えても、白人の五百年の世界的侵略の事実からして極めてアジア人としては正しいと言える。残念ながらアジアで日本以外は全く国家として力のある国は皆無であった。日本のみが白人に対抗し猪突猛進して崖淵に落ちた歴史の悲劇だが、結果は人類史に残る偉業を打ち立てているのを堂々と記憶してよい。

世界恐慌と日本1.  

1929年、ニューヨークのウオール街における株式大暴落に端を発したアメリカの恐慌は翌年欧州に波及し世界恐慌へと発展した。危機を乗り越えるため、各国は夫々独自の政策を進めた。英国は1932年、カナダ・ニュージーランド・オーストラリア・インドなど連邦諸国を動員しオタワ会議を開き自由貿易を棄て排他的なブロック経済体制を作る。アメリカは高関税により輸入を抑え1933年大統領ルーズベルトがニューディール政策をとる。これは外国に投資していた資金を国内公共投資にあて、政府指導の不況乗り切り策である。

世界恐慌と日本2.  

巨額な賠償金に苦しむ敗戦国ドイツはヒットラーのナチスがベルサイユ条約破棄と植民地の再分割を要求する政権を獲得したのが1933年である。疲弊していたイタリアはムッソリーニが既に政権に在り領土の拡張を策謀し1935年にはエチオピアに侵入した。いずれも他国を振り向く余裕が無く国内不況を対外膨張策で克服しようとしている帝国主義策が当時の姿である。

閑話休題 

満州事変前後から、国内外の深刻な経済恐慌、そして政治、軍部の確執があり又、国民世論の満州進出賛同の背景から対外進出は当然の風潮であった。さらに満州軍部の独走が加わり、日本は抜き差しならぬ対外膨張へと大きく進んで行く。