鳥取木鶏研究会 9月例会 平成20年98日 月 

易学は根本学

易の学問というものは、人間のあらゆる問題に関連して、最も根本的、本質的な研究になり、尽きぬ興味と真理を覚えるものでありまして、これに首を突っ込みますと退屈しなくなります。

そして又、昔から学者、哲人というような人は、若いときは、世間的活動に追われて、漸く年をとって暇と自由を得るようになると、殆ど言い合わせたように易学に入るのが学問ある人の常であります。易は無尽蔵でありますけれども、特に大事なこういう意義と使命を引き続き解説したいと思います。時間が参りましたので、第四講をこれにて終わります。(昭和53124日講) 

第五講 復習により基礎づくりを

本日は第五回目でありまして、先へ進むためには、過去四回の講義の復習をして、しつかりと自分のものとしておく必要があります。 

何事にも同じ理でありますが、学問をするにも、始めと言いますか、或いは基礎と言いますか、もっと分かり易い言葉でいうと、「出だし」、「踏み出し」というものが非常に大切であります。 

これをおろそかにしますと、行けば行く程分からなくなり、混乱し、嫌にもなります。嫌になるならまだしもですが、誤ります。昔から学問には、正学―正しい学問と、曲学阿世などという曲がった学問がありまして、くどい程始め、言い換えると根本をしっかり

立てる、確定しておくことが大事であります。この易学というものもその通りでありまして、先へ行く程分からなくなりますから、常に元に返り、始めを明らかにしてやって行きますと、先へ進む程興味が湧く、また活用が効くようになります。そこで従来講じて参りましたことを、時々復習して確かめると言いますか、習熟すると申しますか、それをやって頂きたい。 

特に陰陽を

特に大事なことの一つは、陰陽というものを、はっきりと正確に認識することでありまして、特に、前回も申しましたが、俗世間の学問とか思想とかいうものは、時々とんでもない誤解や、遺漏、不足、不備等色々な欠点がありがちであります。

特にこの「陰陽」や「(ちゅう)」というような問題には浅解誤解が多いのであります。易について申しますと、易はいままでの書物には三義―三つの意義を専ら説いてありますけれども、私はわざわざ六義と、三義増やしてお話しました。 

.易は「かわる」

その六義の中に、易という字は、おさめる()と読み、そういう意義があるということを注釈致しておきました。処が、易を宿命的に考える人が非常に多く、それでは易ではありません。

易は「かわる」であり、「かえる」で、変易(へんい)であります。人間の行為、道徳という点から言えば、おさめる(修、治)という意味がまた非常に大切であります。おさめる、ということはあらためることであり、どこまでも限りなく進展させていくことでありますから、易には伸びるという意味もあります。 

不易

易の三義は、言うまでも無く「変わる」ということ、これは「変わらぬ」ということがあって始めて変わるので、変わらぬということがなければ変わることもありません。そこで第一義は「不易」であります。

そしてそれに即して「変化する」、これが第二義であります。また変化してやまない中に、変化の原則を探求して自主的に変化していく、これが第三義であると従来の書物は、この程度しか説かなかったのでありますが、更に我々は、易の六義というものをよく味識しなければなりません。 

(ちゅう)していく

陰陽相対()性原理についても、一般の人々は、陰陽というと相対立するものであると兎角断定しがちでありますが、相対立すると同時に、相待つということ。

則ち、陰は陽を待って始めて「中」していく、進歩向上していく、これを西洋流に言いますと、レシプロカリティーreciprocality(相互性・相応性)であります。これが非常に大事な意味で、対立と同時に

相待つという意味が大切だということを力説しておきました。 

復習の方法は、ただ知識理論として繰返すのではなく、やはり体験するということです。自分の生活、行動を取り入れ、事実に徴することが大切であります。私は、復習の習という字に大変興味をもっております。学校では、習という字を羽―はねの下に白と書くと教えます。

これは間違いでありまして、あれは白ではなく、鳥の胴体を表しております。雛鳥が巣を出てきて、ぼつぼつ親鳥に真似て飛ぶ稽古をする、その形を現したものが習という字です。習うということは、あの文字が表しておりますように、実行、実演が大切でありまして、易を学ぶ、易を習うということは、常に自分の存在、生活、行動等に徴して勉強するという心がけが特に大事であります。 

陰と陽

また、陰と陽について偏見を持たないようにしなければなりません。どうかすると、陰は悪く、陽は好い、陽性であるということは、陰性よりも好いというような錯覚をしがちですが、これも非常に危険であります。

危険と言えば、どちらかというと陽のほうが危険です。だから陽には「ウソ」偽りという意味があります。文字学をやった人、或いは文章に通じた人々はよく知っておりますが、陽は、うわべ、あらわ、という文字であると同時に偽りという意味に使います。 

.陽は陰を待つ

本当の学問、真理というものは、余程細心の注意をして勉強しませんと、それこそ偽りとなります。兎角世間では、陰が悪く陽が好いのだというようなことも常識になっておりますが、大変あやまりであり、又従って非常に危険なことであります。 

陽は陰を待って始めて陽であり、又陽があって陰が生きるのであります。処がどちらかというと、陰はわかり難く、陽のほうが分かり易い。従って特徴も欠陥も、即ち長短ともに陽の方が認識しやすく、陰の方が認識しにくい。そこで色々の間違いが起こるのであります。 

生きて使えるまで

その陰陽を正しく活用する、発展させるのが即ち「(ちゅう)」であります。これをはっきり認識する、会得(えとく)するということが易を学ぶ最も大切な根本問題の一つでありまして、これを繰り返し繰返し、本当に腹に入れ、そして生きて使えるというところまで煉る必要があります。

みなさんは、陰陽の原理というものを捉えて、それに基づき色々自分で活用と言いますか、活研究をされますと、見識というものが次第に発達してまいりましよう。 

.やまいだれと知

例えば、我々の大事な「知」、知るということを例にとりますと、知という字は陽性のものですから、発動、活動しやすい。そこに危険があって、どうかすると知はとんでもない誤りに陥るので、知の字を(やまいだれ)に入れて、ばかという字(())が出来ております。 

同時に、知というものは全てをそのまま受け入れないで、一応考える。反省する。或いは疑う。そこで疑という字を(やまいだれ)やまいだれ、に入れてやはり「ばか」という字((おろか))が出来ております。これは難しいバカという字であります。一寸、考えると(やまいだれ)やまいだれに情の字を入れそうなものでありますが、そういう字はありません。 

知と情

そこで人間は、「知」と「情」、情は結びの力ですから、これは「陰」です。知と情とがうまく調和しておるというのが所謂「(ちゅう)」でありますが、どちらかと言うと、陰である情の力のこもって厚いのが根本であります。 

知の方は派生ですから、樹木で言えば、枝であり、葉であり、花であります。だから人間は、内に情が厚く、そして頭が良いと言うのが一番望ましい。知が情に勝つと、余程気をつけませんと、軽薄になり利己的になります。 

才は派生的

才も同様であって、派生的なものでありますから、利口であるとか、才能手腕が勝れているからと云って、これに走ると危険であります。 

そこで才知があればある程、反省、修養が大切で、更に情を養う必要があります。このように万事「陰原理」と「陽原理」の特徴を生かして考えますと、物事の判断を誤ることがありません。これは大事な根本原理であります。 

.陰陽五行思想

この陰陽相対()性原理と相待って、五行思想というものが流行しました。これは戦国から漢代になって発達した思想、理論であります。自然と人間の存在、生活、活動を五つの原理に分けて、観察解説していこうというものであります。

これが陰陽の理法、理論と相待って、東洋独特の陰陽相五行思想というものが出来ました。そして後世の易学の最も根本的な問題、原理になりました。 

五行とは

然し、この五行思想につきましては、色々誤解もありますので、これを正解しなければ易の解釈運用ができません。五行とは申すまでも無く、「木、火、土、金、水」の五つであります。 

行は「ゆく」という字でありますから、言うまでもなく活動ということであります。人生、自然の営む活発な作用、行動、力これが五行であります。 

.天地の営為を洞察

特に中国人は、抽象的理論よりも具体的な事実、存在を重んじて、これを観察しますので、その活動性、所謂ダイナミズムを実在する「木、火、土、金、水」というものを通じて、これらを象徴として、

そこに営まれる「天地の創造」、「変化の作用」を分類したものでありまして、木そのもの、火そのもの、土そのものを宇宙、人生の根本問題として組み立てていくという唯物的な意味ではありません。この象徴もシンボルというものが分かりませんと、易学というものは出来ません。 

.顔に書いてある

東洋のシンボリズムというものは、非常に発達しておりまして、例えば我々の人相もやはり一つのシンボルであります。俗に「顔に書いてある」とよく言いますが、その通りであります。私は、この「顔に書いてある」という言葉で大変驚いた経験があります。 

それは、今次大戦の直前にドイツに行きました時に、ある日、学者達と会談の折に、人相の話が出まして、一人の学者が「自分のベルリン大学で、日本や、中国の人相に関する書物を沢山集めておる」と言いました。 

皮膚科

そこで、「それは面白い、どこで集めておるのか」と尋ねますと、「医学部だ」という。「医学部のどこで集めておるのか」と、更に尋ねますと「そこまでは知らぬ」というので、

特に調べて貰いまして、「医学部の皮膚科でやっておる」と分かれました。面白いと思って、皮膚科の教授に会わしてもらって聞きますと、これが非常に参考になりました。 

顔に書いてある

人体の生理で顔面ほど末梢神経の集中しておるところはないそうで、全身の神経系統の末端部が全部顔に集まっておる。全身の生理状況は、悉く顔面皮膚に報告されておる。

顔はつまり全身の生理の告知板であり、報告書であると言いますので愈々面白い。「顔に書いてある」という諺が日本にあると言いますと「その通りだ、顔に書いてあるんだ。ただ科学的にまだよく分からないが、それを東洋の人相の書物は実によく研究しておる」と言う。 

東洋の人相学

そこで私は、非常に興味をもって、東京の本郷一丁目に文求堂という漢籍専門の店があった。そこの主人と懇意でありましたので、ドイツからすぐ手紙をやって日本及び中国における人相の代表的な書物を集めて欲しいと頼んでおきました。帰国して訪ねますと、幸い沢山集めておいてくれましたので非常に興味を持って読んだことがあります。 

形相・色相

人間の相では「形相」と云ってこれが一番表面的な初歩の相で、形相の奥には「色相」というものがあります。これもそういうことで知ったのですが、色というものを我々は、五色とか、七色の光線だとか言って極めて簡単な種類のものだと思っておりましたところ、色と言うものは実に複雑なものであります。 

これは明治時代のことでありますが、京都西陣の染色女工の中で一番高給を取っておった者は、色を微妙に見分けたそうであります。そうなると寧ろ恐いくらいです。 

人間の感覚器官

色ばかりでなく、匂い、香りでも、フランスにコティという有名な香水会社がありますが、このコティ社の一番の技師は、暗夜に花の香りを数千通り嗅ぎ分けたそうであります。

人間の感覚器官というものは、この様に恐ろしいものです。然し、我々は僅かに数種類しかわかりませんので、我々の目だの鼻だのというものは節穴に等しいと言われても仕方ありません。
                     徳永圀典記