中国、あれやこれや その21 

平成18年9月

 1日 孔孟思想の嘘 日本の近代化が孔孟思想のお蔭ということは絶対的な見当外れである。寧ろ、そのような旧思想と決別し、脱亜入欧を敢行したことで 成功したのである。台湾の成功発展も中国の原因でなくて、日本人が戦前に基礎を作りその教育の成果である。
 2日 戊戌(ぼじゅつ)維新

国のこの維新は完全なる日本の明治維新の模倣である。当時、中国を訪問した初代総理の伊藤博文は光緒帝を初め官民から大歓迎を受け、清国政府顧問への就任を求められている。

伊藤は中国の維新政府への協力を約したが、結局維新勢力は西太后を中心とする頑迷な守旧派のクーデターで失脚した。然し、その後日本が日露戦争でロシアを破ると守旧派も日本の近代化政策の成功認めざるを得なかった。
 3日 留学生の来日続々 そして中国の留学生が続々と日本へ派遣され、そこで20世紀中国での近代的指導者たちが育てられたのである。 日本の官民から、政治、経済、法律、教育、産業、軍事に至るまでの各ジャンルの顧問が多数招聘され日本式の新制度、新設備が大量に導入され、それが中国近代建設の基礎となった。
 4日 中国の日本化 一般史書には必ずしも詳述されていないが、日清戦争の終結から清朝崩壊までのこの十数年間は、当時の世界からも「中国の日本化」と称される時代であった。 教員や顧問の招聘、日本書の中国語訳、そして日本をモデルにした教育改革、科挙制度の廃止、軍事制度の改革、警察監獄制度の確立、法律、司法制度の改革などである。
 5日 中国の陰謀史観 前述のような見解は、米国学者も指摘し認めているが、中国は、お決まりの「日本陰謀史観」から、「友好」の仮面を被り留学生を招いて日本の傀儡を作り、協力することで中国の指導的地位を確保しようとしたと、中国人の本質丸出しの都合のいい共産主義のテクニックを使い批判するのである。 20世紀初頭の清国最後の10年は、中国人と日本が強い信頼関係を築いた珍しい時期で米国人学者・ダグラス・R・レイノルズも「黄金の十年」と評価している。だが、辛亥革命により清国は倒潰した。
 6日 辛亥革命 辛亥革命という近代化運動を推進したのも、また留学先の日本で、その富強ぶりを見て革命を志した留学生たちであった。 実際の革命戦争の主役は清国の官軍である新軍であった。これも日本人顧問と日本から戻った軍事留学生が率いる軍隊で、こうした勢力がやがて軍閥となり民国をリードして行く。
 7日 蒋介石の模倣 そして内戦を収拾し、民国を再統一した蒋介石が全国的に行ったのが有名な新生活運動、これなど全く中国の日本化、中国人の日本人化を目指す近代化運動であった。蒋介石は日本で軍事教育を受けたこともあり何事も日本をモデルにしたがる人物であった。 戦後も中国人は日本の近代化の模倣をしている。ケ小平などの改革開放運動も日本の近代化の完全なるマネである。中国人が日本を師とするのは、中華思想とか中華意識の煽動がなく中国人が謙虚・理性のある時である。日本は戦前戦後、中国に対して一貫して善意である。
 8日 中国の天性は人間不信 中国は人間不信社会である。人間の真心というものを知らないし理解できない。近代に於ける日中間のいざこざに関して中国人は、兎に角日本の侵略行動、陰謀に原因があるとする。 アメリカのシナ学の大家フェアーバンク氏は、人間の行為に常に下心を探ろうとするのが中国人であり、中国人の建前と本音の不一致には中国人の謀略的思考が常に働いていると指摘している。共産主義思想で更に人間不信がましているのだ。
 9日 恩義のない中国人 あれほど近代化指導に手を取り足をとるほど、その上に、とてつもない金銭を貰いながら、強盗が居座るような言動をする中国人指導者である。 恩義を感じないばかりか、寧ろ与しやすくカモにし易い善人と見て増長し日本人を侮辱し排斥している。
10日 中国のハニートラップ 日本人は今でも「下心」を疑われている。戦後になり一回の謝罪や反省で十分なのに、恰も行事化したように延々と中国に行うのは、やはり日本人には中国を欺こうという企 みがあると勘ぐっているのである。毅然として、堂々と平和条約で解決済みと言えば良いのである。やはり政治家がダラシナイということになる。マスメディアや政治家が中国のハニートラップにかかっているのだ。
11日 張之洞 最初に熱心に日本留学を奨励する政策をとった人。日清戦争後、彼は仇日意識からロシアに歩み寄りロシアをモデルの近代化を主張していたが、伊藤博文などからの助言もあり、一転して師日派となった 実力者である。8983月百万部も発行された「勧学篇」の中で彼は「洋行の一年は読書5年に勝る、海外の学校での勉学は国内の学校の3年に勝る」とした上で「留学するなら西洋より東洋(日本)だ」と書いている。
12日 張之洞2. 中国の光緒帝は上諭を下し「学校中優秀な学生を選んで日本へ留学させよ」と各省に命じ、日本への留学生派遣は清国政府の政策の一つとなった。1903年には張之洞起草の「奨励遊学畢業生章程」が公布され「日本の中学、高校、実業学校、大学、帝國大学、 大学院を卒業した中で優秀な者には貢士,挙人、進士と見なして禄を授ける」と規定された。そして「日本留学」は科挙に代わる仕官への道となった。このとこは中国文化史上、特筆されてもよい筈である。だが反日史観からこれは黙殺されている。
13日 最初の中国人日本留学生 1896年、最初の清国留学生13名については、駐日公使裕庚が文部大臣西園寺公望に彼らの教育を委託し、西園寺は東京高等師範学校長加納治五郎に彼らを委託した。これ以降、日本の朝野は清国の留学生に対し熱烈歓迎の姿勢をとった。政府・軍部・教育界は彼 らのために学校を立て、カリキュラムを作り熱心に教育した。当時の日本人が清国に望んだことは国家の近代化であった。ことに官民有識者は三国干渉以降の西力東漸による危機感の高まりから清国が速やかに弱体、腐敗体質を改めて近代改革に着手し日本との提携関係を構築することを望んでいた。
14日 加納治五郎 東京高等師範学校長の加納は清国に渡り管学大臣張百煕と恭親王に対し「今、貴国が留学生を派遣することは最も急務であり、それが一日遅れれば国運の進歩も一日遅れるだろう」と熱心に訴えている。

この情勢に対して、北京のロシア公使などは「日本は憲政国家だから留学生がその気風に感染して民権思想に感染する可能性がある。わが国だけは貴国と同じ専制国だから,子弟を沢山遊学させても問題ない」と清国高官に説いて廻り日本の中国に対する影響力の拡大と日中提携の牽制に懸命であった。ロシアの盟邦ドイツも日中教育交流を「黄禍」として警戒した。

15日 中国留学生 北清事変の翌1901年、西太后の新政により清政府の留学生は年々増加し1905年には8千人を越え、1906年には1万人、或いは23万人に達している。科挙制度か廃止され日本留学が官吏登用の条件となつたからである。近代化のモデルが日本となつたのである。 留学生が感嘆したのは、日本国民に漲る愛国心、国家防衛意識、団結心、滅私奉公の精神であることは彼らの手記から知ることができる。日本が中国近代化の人材を育てた、帰国後は日本陸軍の軍事顧問団と協力して中国軍の近代化を促進した。日本軍人の中国軍近代化に注いだ情熱は並々ならぬものであった。
16日 当時の日本の誠意

当時、中国の顧問を務めた日本軍人は、やがて日中戦争が勃発すると中国軍と戦っている。もし、日本が中国侵略の陰謀を持っていたならば、中国軍の拡充、精鋭化にあそこまで心血を注いで教育していなかつたであろう。

中国人は必ず日本の軍事顧問団は中国侵略のため中国新軍を利用しようとしたと言うが彼らの天性の陰謀体質を日本に押しつけているだけである。
17日 中国の人材育成 日本人が情熱を傾けた中国人の人材育成は軍事面だけではない。政治、経済、教育等あらゆる面である。社会科学、自然科学は勿論、人文、音楽、文学、司法制度、警察制度もそうであったし、医学、建築等々、近代科学技術の人材育成に国をあげて協力した。 日本人教師も一時は1000人に達した。北京大学の設置も日本人学者の努力抜きには語ることはできない。これは日本人の「同文同種」という中国への親近感、同情心という熱烈な感情、情緒である。そして、アジア隆昌という日本の強烈な使命感であった。
18日 中国の背信 日本官民の中国近代化に対する心からの有形無形の声援、支援、協力、指導も、結局は戦後の今日と同様に、中国人の内訌、内戦、或いは日本人への背信裏切りにより中断した。 日本の「恩」を「仇」で返す中国の病は実に深刻である。もし日本が本当に「日中友好」を希望するなら中国人のこの重症を救うために、真の「正しい歴史認識」をかれらに正々堂々と突きつけるのが良いのである。その度胸が政府・政治家に欠けているのである。
19日 シナは文物破壊国 中国は五千年もの悠久な歴史があり、台北や北京の故宮博物館のような歴史的文物が無尽蔵にあるように見える。そして中国人は歴史、文化を大切にする民族だと思うのであればそれは事実と大いに異なる。中国人は実際、世界でも類例を見ない程、伝統・歴史 文化を破壊する民族だと断定してよい。それは、文革時代に見られた「破四旧」運動、つまり総ての旧文化、旧風習、伝統をぶち壊す全国的運動を持ち出すまでもない。易姓革命が起きる度に中国人は、前王朝を全面否定する。その文化遺産を破壊してきた民族であり朝鮮半島と瓜二つである。
20日 歴史に見るシナの文物破壊 歴代王朝は、しばしば統治政策にとり好ましくない典籍を徹底的に禁書、焚書にしている。秦の始皇帝の焚書坑儒は有名。 隋の煬帝も緯書という緯書を焼き尽くした。清にしても、「四庫全書」の編集を機会に、反清的な漢民族思想の書を一網打尽に禁書とし三千種以上、67万巻の書を焼いている。
21日 歴史に見るシナの文物破壊2. 旧都西安の宮殿を破壊し、その木材を遷都先の洛陽に運び新宮を作ったのも、項羽が阿房宮を燃やしたのも、みに前王朝文化の破壊行為である。文物は、度重なる戦乱により多くのものが消滅した。 項羽が秦の阿房宮を焼き払った時、夥しい典籍が失われた。王莽の乱、八王の乱、候景の乱、安史の乱などでも、多くの貴重な書物が灰燼に帰している。アロー事件で円明園が英仏軍に焼き討ちされた時には北京文淵閣所蔵の「四庫全書」が失われ、北清事変では宮廷が珍蔵していた「永楽大典」が紛失している。
22日 歴史に見るシナの文物破壊3. 火災や虫食いなどの管理不備で失われたものも多い。宋代の王宮火災では長年かけて収集された三館秘閣の蔵書を失い、明の南京文淵園の火災でも蔵書は総て焼かれた。 民国以降の博物館の館長や職員が文物を盗んで売り飛ばし、贋作と真作をすり替えるなども珍しくない。有史以来の盗墳の風習は今日も続いている。国家の文化財を外国人に密売する業者は益々盛んである。
23日 日本と中国の文物管理比較 一方で日本は、中国に代わりその歴史文物をしっかりと大切に保管してきている。遣隋使、遣唐使以降、中国からの夥しい数の典籍を輸入し保存したが中には中国では既に喪失したものも多い。早くも宋の時代には、中国にとり日本 が珍書、稀少本、逸書の宝庫であることは知られていた。明治維新後に日清間の往来が始まると、そのことが再び中国人に知られて失われた典籍の逆輸入も起きた。それらは中国の学術研究の空白を大きく埋めることになつた。
24日 日本の中国文物保管状況

日本は中国から輸入された書籍やその抄本をとても大切に保存していた。中でも明、清代のものが多く、唐代の古抄本、旧抄本や彫刻が施された宋代の典籍も少なくない。

日本では中国から輸入した仏典や書籍の多くは寺院で保存された。戦乱の際でも、日本人の崇敬心から多くの寺院は破壊から免れ、また寺院も蔵書を大事に管理した。

25日 王暁秋 王暁秋は「近代中日文化交流史」で、日本は外国の侵略を受けなかったのがその原因だとしている。だが、日本人は抄本の際には紙質を選んだり土蔵にしまって火災から守る など保存方法には最新の注意を払っていたことも大きい。確かに日本は戦乱が少なかったが、徳川幕府がキリスト教の書を発禁にした以外は禁書というものは行っていない。
26日

「鄭注孝経」「逸書叢書」

中国に「鄭注孝経」が失われていると聞いた東大寺の名僧・「然(ちょうぜん)が宋に渡った時、日本からそれを携行して太宗に献上した話は有名である。 江戸時代の学者・林述斉は、中国で多くの典籍が逸していることを聞いて残念がり、全国を探し回り17点を収集し「逸書叢書」百十一巻を編んだ。これが中国にもたらされた時の学界の驚きは大変なものであちたと言う。
27日 日本におしかけた清の学者 中国で失われた書を捜し求め、清国の学者が大挙して日本に押し寄せたのは1880年―90年代。 清国初代駐日公使黄遵憲は、日本人が典籍だけでなく、中国では貴重な経巻、書画など多数所蔵していること、千五百年前の墨蹟がなお鮮やかなままの保存状態のよさに感嘆している。
28日

「古逸叢書」

第二代の駐日公使、黎庶昌も中国で見られなくなった典籍の多くが日本に残されていた事を喜び「古逸叢書」として日本で出版している。 この中には唐、宋代のものも多く、内容が大きく改変された中国本国現存のものより原典に近いことから非常に貴重視された。
29日 楊守敬・第二代駐日公使 1880年から84年まで日本に滞在した楊守敬は、中国失伝の典籍の調査、収集に当たり、日本の蔵書家たちの協力を得ながら、最初の二年足らずで3万余巻について触れ、中国の学術研究に大きく貢献している。 1930年、彼はその他の遺稿をまとめた「日本訪書志補」が出版されると、序の中で「学術界の一快事」と書いている。当時の中国は素直であった。現在中国は共産主義思想により人間性を喪失している。こんな中国人を相手にしては日本人の沽券にかかわる。
30日 漢民族主義を啓蒙 清朝で種族主義が濃厚として清朝に発禁されていた明末の「揚州十日記」「嘉定屠城記」「朱舜水集」、王船山の「黄書」、黄宗義の「明夷待訪録」などは、日本に来た清国留学生にとり反満革命の入門書となった。 彼らはこれを日本の図書館で写し取り中国で広めて漢民族主義の啓蒙に大きく役立てた。近代文明だけではない、伝統文化でも日本は中国に大いに「恩恵」を与えている。