日本の「国宝」

アーネスト・フェノロサは、明治171884年、法隆寺夢殿の扉を開けた経過を次のように語っている。「驚嘆すべき彫像、世界に比類なき仏像」これは、法隆寺夢殿に秘仏として匿されていた「救世観音」のことであることは有名。フェノロサは寺を強引に説得し、千年の禁を破り、救世観音に巻かれた布をほどき、埃を払い「世界に比類なき仏像」を発見したのである。比類無き日本の文化と歴史の次元の高さ、日本文化の価値観を自覚し日本再認識の一助にもしたい。
平成18年9月1日 徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

 1日 秘宝中の秘宝

救世観音
フェノロサが1200年の“ヴェール”をはいだ秘仏。
「観音菩薩立像
(救世観音)」である。

飛鳥・白鳳時代木造・漆箔、高さ
178.8糎。

法隆寺夢殿
この観音像は761年(天平宝字5)の東院の資財帳に〈上宮王等身観世音菩薩木像壹躯(金箔押)〉とある,739年(天平11)僧行信が斑鳩宮の旧跡に東院を創建したときに,八角仏殿(夢殿)の本尊として安置したもの。長い間秘仏として公開されなかったため保存状態は極めてよい。像高は179.9cm,クスノキの一木造りで胡粉地に金箔を押し,各所に彩色も施され,頭に山形の宝冠を戴き,あるかなきかの微笑をたたえ,胸もとに宝珠を乗せた蓮華をもち,天衣は両肩から垂直に垂れながら鰭状に張り出し足もとに近く左右に広がっている。この観音像の造像様式の系統については,北魏様式とするもの,北魏から東魏にかけての竜門後期様式に近いとするもの等諸説あり枚挙に暇がない。また制作時期については,聖徳太子在世中とする説・太子薨後まもなくとする説・白鳳時代とする説などがある。
 2日 弥勒菩薩 弘法大師の母の廟所・慈尊院秘仏、高野山九度山町

弥勒菩薩坐像、平安時代892年、木造、高さ91糎。

慈尊院は、816年(弘仁7年)、弘法大師(空海)が高野山開創に際し、高野山参詣の要所に当たるこの地に、表玄関として伽藍を草創し、一山の庶務を司る政所を置き、高野山への宿所並びに冬期避寒修行の場所。834年(承和元年)に大師の御母公が、わが子を慕って讃岐国(香川県)からこの地を訪れたが(女人禁制のため高野山への入山禁止)翌年になくなったため、大師は母公のため弥勒堂(御廟)を造られ弥勒菩薩を安置。
 それ以来、慈尊院は「女人高野」と呼ばれた。弥勒堂のご開帳は、弘法大師が高野山開創2000年となる2015年(平成27年)に見学ができる。

 3日 最古の国宝 袈裟(けさ)襷文(たすきもん)銅鐸(どうたく)

国産最古の国宝、神戸「桜ヶ丘町出土」

弥生時代国宝最古。

昭和39年(19641210日、六甲山南斜面の標高約240m付近の、尾根の東斜面で発見。14個の銅鐸のうち13号銅鐸は流水文(りゅうすいもん)銅鐸で、1号銅鐸は身の中央よりやや上に影絵風の絵画文で飾った横帯あり、2号銅鐸は身の中央にシカの列を線描で鋳出。 414号銅鐸は袈裟襷文(けさだすきもん)銅鐸で、45号銅鐸は身の両面の4区内にいずれも線描の絵が鋳出。6号銅鐸が最も大きく、高さ64.2cm、最小は14号銅鐸で21.4cm 銅戈7本は長さ27.229.0cmでほぼ大きさがそろっており、樋(ひ)を複合鋸歯(きょし)文で飾った大阪湾型銅戈。
 4日 最大の国宝 世界最大の金銅仏「盧舎那仏(るしゃなぶつ)坐像(ざぞう)

東大寺の「大仏さま」、奈良時代、銅造、鍍金、像高14.85米。

聖武天皇が1歳にもならず没した親王(基王)の供養のため建立した金鐘寺が東大寺の始まり。諸国に国分寺の建立の詔が出された際、大和国分寺にして総国分寺とされ、天平17(745)に大仏造営が開始、以降東大寺。 藤原氏の氏寺である興福寺と並び南都を代表する寺、平氏政権時代に平家と対立、治承4年(1180)に平重衝に攻められ、その時の兵火によって大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失。その際の重衝の自責の念を描いたのが復曲能『重衡』。
 翌年、源平による内戦が収まり、俊乗房重源が東大寺造営勧進職に任じられ、東大寺の再建が進めらた。能『安宅』で、富樫は弁慶に勧進帳を読み上げよと命じますが、それは義経一行が東大寺再建の寄付を集める勧進聖に変装していたもの。本物ならば重源が発行した勧進帳を持っているはず。当然ながら弁慶は持ってない、白紙をまるで書いてあるかのように読み上げる、それが見せ場。
 建久6年(1195)、大仏の再建供養が行われ、将軍・源頼朝が正妻の北条政子とともに参列。そこに元平家の侍である悪七兵衛景清が頼朝暗殺を狙って斬り込んで来る、というのが能『大仏供養』。実際の再建供養の日は雨だったが、大仏殿の周りを頼朝警護の東国武者の精鋭が囲んでいたから、相当物々しい様子であったことが想像できる。 兵火による焼失から15年で元の大伽藍を復活させてみせた重源の手腕は驚嘆すべきもの、彼は勧進職に命じられた時点で60歳。しかも東大寺のほかに播磨浄土寺や伊賀新大仏寺などの造営も行っている。
 5日 最古の木造建築

「法隆寺伽藍」
世界最古でもある、飛鳥期一基五棟、奈良期五棟、鎌倉期四棟、室町期一棟の国宝建築群である。 法隆寺は,金堂や五重塔を中心とする西院伽藍と夢殿を中心とする東院伽藍とから成立。南大門を入ると参道の前方に重層の中門,その両脇に回廊越しに金堂,塔の上部。中門を入ると右手に金堂,左手に五重塔が,正面の奥に講堂が見える。中門の両脇から始まる回廊は金堂と塔を囲み,鐘楼と経蔵を経て講堂の両脇に接続する。東側回廊の外側に南北に長い東室(ひがしむろ)と妻室(つまむろ)の両僧房が,西側回廊の外側に少し隔てて西室がある。なお妻室の東側に綱封蔵(こうふうぞう)が,その東北に食堂と細殿がある。また講堂の後方に上御堂が,西北の隅の小丘には八角の西円堂が建っている。中門前から東へ東大門を出るとまもなく東院伽藍である。東院伽藍は南門・礼堂・夢殿・舎利殿絵殿・伝法堂(講堂)が一直線に並び,礼堂の両脇から始まる回廊が夢殿を囲んで舎利殿絵殿の両脇に続いている。なお伝法堂の両脇に鐘楼がある。
 6日 最大の木造建築

「東大寺大仏殿」
世界最大の木造建築、江戸時代1705年、棟高46.8米、兵火で焼かれ徳川時代に再建された創建時は現在より更に大きい規模であった。 東大寺とうだいじ)は、奈良県奈良市雑司町にある華厳宗大本山の寺院。「金光明四天王護国之寺」(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)。「奈良の大仏」として知られる盧舎那仏(るしゃなぶつ)を本尊、開山(初代別当)は良弁(ろうべん)。東大寺大仏殿は、世界最大の木造建築物、創建は8世紀であるが、現存の大仏殿は江戸時代18世紀初頭の再建で、創建当時の奈良時代比べ、間口が3分の2に縮小。「大仏さん」の寺、古代から現代に至るまで貴賎を問わず広い信仰を集め、日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院、聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の本山にあたる「総国分寺」と位置づけられた。なお、奈良の大仏については、「東大寺盧舎那仏像」の項を参照。
 7日 最小の国宝

「金印」
後漢時代、1世紀、印面は方2.35糎、108.729グラム。蛇を形どる蛇紐(じゃちゅう)あり。

漢委奴(かんのわの)国王(こくおう)」とある。漢の光武帝。

金印は江戸時代、博多湾に浮かぶ志賀島(しかのしま)で農作業中に偶然発見。その後、筑前藩主である黒田家に代々伝わり、1978年に福岡に寄贈。
 異民族の王にも官位と印綬を与えることによって皇帝を頂点とする秩序に組み入れようとした印章制度は、漢代の外交政策を反映。鈕のかたちは賜られた民族の領土によって異る。北の匈奴(きょうど)など北方諸民族の侯王には駱駝や羊の鈕、漢の中原地帯の皇太子や高官には亀の鈕の印が下賜。蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山の6号墓で出土した「てん王之印」が知られています。金印が偽物ではないかという説は近年まであり、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した「廣陵王爾(こうりょうおうじ)」の金印は、58年に光武帝の子「劉荊(りゅうけい)」に下賜されたもの。この印は亀の鈕で、円い鏨の表現や字体が奴国王の金印と似通っていることから、同じ工房で製作された可能性がたかい。この兄弟印の発見によって金印贋作説に終止符が打たれ、中国の史書『後漢書』倭伝にある、建武中元2年(57)光武帝が奴国の王に与えた「印綬」に相当することは確実。さらに唐代に編纂された「翰苑」に「中元之際紫綬之栄」とあることからもともと鈕(つまみ)には紫のくみひもが結わえられていたと推定される。まさに西暦57年の歴史が当時の最高の技術で封じ込められているのです。さいごに金印の読みについて一言。印面に刻まれた文字は、“漢”の文字で始まります。異民族であっても直轄領内の内臣には「てん王之印」のように王朝名は付きません。漢で始まるのは倭が外臣として服属しているが、直轄領となっていなかったため。
 つぎの“委奴”の解釈はわかれていましたが、『後漢書』の記載と一致することから「倭奴(わな)」の略字と理解できます。外臣に下賜する印には王朝名の次に民族名、そして部族名がくる、「倭(わ)(族)」の「奴(な)(部族)」とつづきます。最後の“国王”は外臣の王を格付けする五段階の筆頭で、自己の領域の支配権が認められたことを意味する。以上の理由で「漢委奴国王」を「漢ノ委ノ奴ノ国王(かんのわのなのこくおう)」と読むことができる。
 8日 国宝 興福寺・中金堂鎮壇具

中でも「砂金一包」の小ささ。
鎮壇具は、寺院建立の際に、その建物が永く続き安泰であることを願って土壇に埋納する、金銀をはじめとする五宝、五穀、香薬、仏具などのこと。明治7(1874)17(1884)に中金堂の基壇中から千数百点が出土したが、その大部分は東京国立博物館に保管、一部(5種類、21点)が寺の所有。 量も膨大なら、種類も多い。砂金、延金、金小玉、銀板、和同開珎などの金銀貨銭類、水晶、琥珀、瑠璃、瑪瑙など珠玉類、刀子などの刀剣類、瑞花双鳳八花鏡など鑑鏡類、金銅大盤、金銅金鋺、脚杯、銀匙など供養具類。このように内容の豊富なものは他に少なく、東大寺大仏殿基壇中から発見された鎮壇具と双璧をなす また、鎮壇具のなかに」と「剣」と「玉」の3種が含まれていることは、古墳の埋葬品と一脈通じる。鏡、剣、玉は宝器であり、これら3種を賢木(さかき)に懸けることは、わが国古代の祭祀様式の伝統でもある。
 9日

密度の高い国宝

平等院「鳳凰堂」

堂宇も中尊も、それを荘厳する絵画も装飾も、堂の悉くが国宝、それも絵画・彫刻・工芸・建造物と四部門に亘り国宝指定は鳳凰堂しかない。

御堂関白道長の子の、藤原頼道が作らせた。

平安時代後期、天喜元年(1053)、時の関白藤原頼通によって平等院に建立された阿弥陀堂です。華やかな藤原摂関時代をしのぶことのできるほとんど唯一の遺構として、このうえなく貴重な建築。最も大きな特徴は池の中島に建てられていることで、あたかも極楽の宝池に浮かぶ宮殿のように、その美しい姿を水面 に映す。
堂内の中央には金色の丈六阿弥陀如来像が端座し、周囲の壁および扉には九品来迎図、阿弥陀仏の背後の壁には極楽浄土図が描かれ、左右の壁の上部には52体の雲中供養菩薩像が懸けられている。
色あせてしまっているが、堂内の天井や小壁は、宝相華を主とする文様で埋めつくされていた。柱にも、天衣を翻して舞う天人や楽を奏する天人、飛び立つ鳳凰、宝相華、唐草文様などが描かれ、これらは鮮やかに彩 色されていた。天蓋中央部の大型の八花鏡のほかに、天井には計66個もの銅製鏡が吊られている。鏡は夜間にはゆらゆら揺れるる
10日 雲中供養菩薩像  平安時代1053年、木造、彩色、漆箔。 当時お堂内部は周囲の扉、板壁の絵を始め、柱、壁、天井にも華やかな漢様が描かれていたが、900余年の間に剥落変色して今日になった。雲中供養菩薩像(52)は、長押上で雲に乗り、歌ったり、踊ったり、楽器を奏でたりして変化に富み、堂内は極楽浄土のさまがうかがえる。
11日 阿弥陀如来 定朝作、平安時代1053年、木造・漆箔、高279糎。 本尊阿弥陀如来像は、藤原時代を代表する彫刻家仏師定朝の晩年(1053)の傑作。像高は約3米、寄木造漆箔でお顔は円満、身体各部の釣合がよくとれ、安定感があり流れる様な衣文線の美しさにも優美で親しみのある雰囲気がよくあらわされている。
12日 天蓋

平安時代1053年、木造、彩色、漆箔。

阿弥陀如来の頭上には、丸と四角を組合せた珍らしい豪華な天蓋がある。天蓋の素晴らしさは、螺鈿で宝相華を描き、木彫透彫宝相華漠様の垂板を用い、華やかに、しかも繊細で藤原最盛期工芸の粋がしのばれる。
13日 かくも長期にわたる国宝

沖ノ島
玄海の孤島に浮かぶ海の正倉院、福岡県・宗像(むなかた)大社の「沖津宮(おきつのみや)

不言島(おいわずさま)」として、この島から一本一草たりとも持ち出すことは出来なかった。島内の様子を語ることさえ憚られていた。

この畏れに近い崇敬は古墳時代からと言われる。410世紀の長期間に多に類例のない豪華な宝物が奉納された。国家規模の祭祀の場であった。祭祀のスタイルも4-5世紀の巨岩上の祭祀、5-6世紀の岩陰の祭祀、その後の露天での祭祀、10世紀頃、遣唐使の終焉と共に終わった。聖地として歴代の宝物を奉納され、後に禁忌の島として多くの宝物を現在に伝えている。
14日

八百年名筆の蒐集

手鑑「翰墨城」

奈良時代―室町時代、一帖(311)、奈良時代より室町時代に至る古筆の断簡三百十一葉を帖の表裏に貼った手鑑。益田家旧蔵。

経切として大聖武・中聖武・絵因果経切・平安時代の歌切に高野切・名家家集切・小嶋切・本阿弥・筋切・尾形切・鳥丸切・など、また類品稀少の断簡として唐社唐鈔本王勃集断簡や伝菅原道真筆白紙文集切がある。その他世に名物切と称する主なものが網羅されており、古筆家伝来の手鑑のひとつとして名高い。
15日 古筆手鑑 古筆手鑑 「見ぬ世の友」

見ぬ世の友・藻塩草・翰墨城と、いずれの国宝手鑑にも貼られ、早くから古筆愛好家の間で知られていた。足利尊氏筆と伝える新古今集の北山切が巻1620については、切断されることなく、冊子本の形で伝わっている。

巻末には、貞治6年(1350)2月14日に書写した旨の奥書あり、足利尊氏(1305〜1358)の生存中のことである。尊氏が書いた可能性も少なくない。この北山切には、通常の活字本などでは見られない歌も含まれ新古今集の古写本をして大いに注目すべきもの。
16日 辟邪絵(へきじゃえ) 幅紙本著色 掛幅、平安〜鎌倉時代 
天刑星 縦26.0 横39.2cm
栴檀乾闥婆縦25.8 77.2cm
神虫 縦25.8 横70.0cm
鍾馗 縦25.9 横45.2cm
毘沙門天 縦25.8 横76.5cm
絵巻であったものが戦後分断され掛幅装になったもの。益田家本地獄草紙乙巻と呼ばれてきたが、内容は中国で信仰されてきた疫鬼を懲らしめ退散させる善神を表した辟邪絵である。
17日

刀剣

聖徳太子の剣

四天王寺に伝来した二刀。

丙子椒(へいししょう)林剣(りんけん) 飛鳥・白鳳時代、長65.8 

七星剣(しちせいけん) 飛鳥・白鳳時代、長62.2 
18日 那須国造碑 那須郡大字湯津上の笠石神社に祭られている石碑。、文字の刻まれた石の上に笠のように石を載せていることから「笠石」とも言う。延宝4年(1676)に奥州岩城の牢人で僧になった円順が、湯津上村を通りかかった時、里の人が近寄ると怪我をしたり、馬をつなぐと足をくじいたり、血をはいたりするといわれる不思議な石であるという話を聞きつけた。これを馬頭村の大金重貞に話したところ、その話が水戸黄門の名で知られる徳川 光圀のもとに届き天和3年に調査のため、助さんこと佐々木三郎宗淳を派遣した。この時、光圀は宗淳に命じ石碑を収めるお堂を造るとともに境内の整備なども行った。この石碑には「那須国造(なすのくにのみやつこ)であった那須の直韋提は郡の長官を賜りその彼が庚子の年(700)に亡くなったので後継者の意斯麻呂らが、石碑を作って故人を偲び祀った。」というようなことが記されている。なお、この石碑は群馬県吉井町の多胡郡碑、宮城県多賀城市の多賀城碑とともに日本三古碑の一つに数えられており、その中でも最も古いものといわれている。
19日 小桜韋威鎧

小桜韋威鎧(かわおどしよろい)平安時代 鎧・高65.1 
兜・10.0 菅田天神社

楯無(たてなし)」とも呼ばれる。

伝説によれば、神功皇后の三韓遠征に功績をあげた鎧で、源頼義、義光、為義、義朝と伝わり、やがい甲斐源氏の武田家の家宝となった。武田家当主だけが代々相続する重宝である。
20日 残存率千分の一の写経

千手(せんじゅ)千眼(せんげん)陀羅尼(だらに)経残巻(きょうざんかん)奈良時代741年、25.5*247 京都博物館

法相宗高僧玄ム(げんほう)の発願経。一千巻の写経であったが現存はこの一巻のみ。
海外流出の国宝
21日

海外流出の国宝

地獄草紙 

第三段鉄磑所(てつがいしょ)
22日 阿倍仲麻呂の霊

阿倍仲麻呂の霊が鬼となり出現する場面

吉備大臣入唐絵詞・平安末―鎌倉初期

ボストン美術館

23日

地獄草紙 断簡 
銅釜地獄 平安時代 紙本著色26.5*51.9ボストン美術館

フェノロサが国に買い戻されるのを恐れた平治物語絵詞  ボストン美術館
24日 国宝の父

国宝最多制作天皇が揮毫した弘法大師伝
後宇多天皇宸翰 弘法大師伝 鎌倉時代 絹本 一幅

国宝は全部で1037件、国宝の父の筆頭が弘法大師である。書の達人であり「三筆」の一人。後宇多天皇も最多国宝制作者である。
25日 国宝最多制作者 弘法大師 弘法大師年表
26日

最澄

伝教大師    最澄の言葉
27日

円珍

円珍関係文書(えんちんかんけいもんじょ) 最澄と天台の国宝
28日 円珍

伝船中湧現観音像

平安時代
29日 絵画のチャンピォン 雪舟 雪舟の絵で「正真正銘の真筆」と折り紙をつけられたものは僅かに八点だけだという。その中五点が国宝。 漂泊の絵師、その画跡を各地に残した禅僧は、従来の余技としての水墨山水画を芸術の域にまで高めた。
30日 雪舟

雪舟(せっしゅう、男性、1420応永27年) - 1502/1506永正3年))は号で、15世紀後半室町時代に活躍した水墨画家・禅僧で、画聖ともたたえられる。日本の水墨画を一変させ、後世の画家に多大な影響をおよぼした。

(いみな)は等楊、若くは拙宗(せっしゅう)を称した。 備中国に生まれ、京都相国寺に入ってから周防国に移る。その後遣明使に随行して中国()に渡って中国の水墨画を学んだ。作品は数多く、中国風の山水画だけでなく人物画花鳥画もよくした。大胆なコンポジションと力強い筆線は非常に個性的な画風をつくりだしている。

現存する作品のうち6点もの作品が国宝に指定されており、日本の画家のなかでも別格の評価を受けているといえる。そのことにより、「伝雪舟筆」と称される作品は大変多く、どれが真作であるか、専門家の間でも意見の分かれるものが多々ある。

花鳥図屏風などで「伝雪舟筆」とされるものが数多く残っている。代表的作品に「山水長巻」「夏冬山水図」「天橋立図」「破墨山水」などがある。

弟子に、秋月、宗淵、等春らがいる。