徳永圀典の「日本歴史」9月 
           大化の改新

平成18年9月

 1日 大化の改新 7世紀初頭、隋という強大な帝國は黄河と長江を結ぶ大運河を作り高句麗に大軍を出すなど無理が積もり僅か30年で滅んだことから中国と朝鮮半島の新しい動きは始まる。 高句麗も戦いに疲れていた。隋の後には唐が中国を統一した。朝鮮半島では新羅が唐と結ぶようになった。これは日本に取っても脅威となることであった。
 2日 聖徳太子没後、蘇我氏一族が横暴を極めていた。国際情勢が急変していた時、国内政治は混乱していた。諸豪族の先頭で政治を取り仕切っていたのは蘇我(そがの)馬子(うまこ)の子の蘇我(そがの)蝦夷(えみし)であった。蝦夷は天皇の墓にしか使わない「(みささぎ)」と いう言葉を自分の墓に使い、自分の子すべてに(みこ)と呼ばせていた。蝦夷の子の蘇我(そがの)入鹿(いるか)は聖徳太子の理想を受け継ごうとしていた長男の山背(やましろの)大兄王(おおえおう)を初め太子一族を一人残らず死に追いやった。
 3日 聖徳太子574年―622年。
蘇我蝦夷
645年没。
蘇我入鹿−
645年没。
山背(やましろの)大兄王(おおえおう)643年没。中大兄皇子(天智天皇・第38)646671。中臣鎌足614年―669年。皇極天皇594年―661(35)
 4日 改革の時熟す 蘇我氏を中心とする豪族が権力を振るっていた当時の日本、朝廷の一部では、豪族や一部の皇族が夫々が土地や民を支配する体制を先進的な唐に見習い改める動きが現れた。 その為には、天皇を中心とする中央集権的な国家を作る必要があると考えた。620-640年代には太子の派遣した留学生が隋や唐の政治制度を学び帰国してきた。改革の情勢は次第に熟してきていた。
 5日 進んでいた当時の中国の制度 当時の中国は先進国で、皇帝制度では、一つの王朝が存続する間は豪族の台頭は難しい。秦、漢の時代以来中国は皇帝を頂点とし全ての権力が皇帝に集中する高度な官僚社会であった。新興の唐は更に一段と整備された中央集権国家であった。隋・唐時代には既に「科挙」と言う官吏登用制度があり、皇帝は自分の手足となる有能な官僚を家柄に無 関係に採用し彼等を豪族や貴族の台頭を抑制する制度として活用していた。官吏と庶民の間には身分の差はあったが、庶民も科挙に合格すれば官吏に登用される可能性はあった。後には更に科挙の制度は整備され皇帝の権力は絶大となる。唐は隋の制度を受け、律令などの法を整え、戸籍を作り均田制を定め民に土地を分かち与えて、また納税や兵役制度も整備していた。
 6日 シルクロード 漢の時代以来、中国では絹の道(シルクロード)と呼ばれる交易路が発達し、西アジアや中央アジアの文化、美術が伝わった。 唐の時代には益々交易が盛んとなり、国際色豊かな文化が開いた。日本では遣隋使に続き630年から遣唐使も始まり進んだ唐の学問・文化の吸収に努めた。
 7日 国内政治動向 中国に派遣していた留学生の情報から日本でも改革の動きが高まっており、豪族の頭目である蘇我氏を宮中から排除する計画の動きが現れた。 先ず最初に心に秘めていたのは中大兄皇子と中臣鎌足(藤原鎌足)であった。鎌足は、蹴鞠(けまり)の会を通じて皇子に接近し心中を吐露する仲となつていた。
 8日 蝦夷と入鹿

蝦夷と入鹿は天皇家気取りで、砦のような屋敷を構え大勢の兵士に身辺を守らせていた。中大兄皇子と鎌足は謀議以来15ヶ月を経た6456月、朝鮮からの使者を迎えた朝廷、皇極天皇(中大兄皇子の母)の御前に入鹿も姿を現すことに

なっていた。皇子は宮城の門を全部閉めさせ自ら長槍を取り身を隠した。鎌足は参上した入鹿を巧く騙して刀を腰から外させた。然し,予てから抜刀を命じていた二人の若者はその場で怖気(おじけ)づき体が動かない。
 9日 蘇我氏滅ぶ 朝鮮からの上表文を読み上げる謀議の仲間も討手が現れないので気が気でない。入鹿が怪しみ尋ねる、皇子は最早や待てないと感じ自ら刀を取り入鹿を斬った。 驚く天皇に皇子はひれ伏して事の次第を述べた。天皇は立ち奥に入った。入鹿の死体は雨が降る庭に放り出されたままであった。蘇我家を助ける者はみな散り散りとなり蝦夷は屋敷に火をつけて自害した。
10日 大化元年 この騒動の年、朝廷は日本で最初の年号を立てて「大化元年」とした。翌年にはこれまでの皇族や豪族が私有していた土地と民を国家が直接統治することとした。これを「公地公民」と言う。 聖徳太子以来の理想を実現すべく君臣の名分(めいぶん)を明らかにして国家の公的秩序を正そうとしたのである。645年大化元年に始まるこの改革を「大化の改新」と言う。
11日 白村江(はくすきのえ)の敗戦

朝鮮の任那(みまな)新羅(しらぎ)に滅ぼされてから約1世紀、朝鮮半島の三国は、相変わらず互いに攻防を繰り返していた。7世紀半ばになると新羅が唐と結び百済を攻めた。

唐が水陸13万人の軍を半島に送り込むに至り日本国内には危機感が漲った。300年に及ぶ百済との(よしみ)はもとより,半島南部が唐に侵略される直接の脅威を無視できなかった。
12日 中大兄皇子は662年、百済に大軍と援助物資を船で送った。唐・新羅の連合軍との決戦は663年、半島南西の白村江で行われ、二日間の壮烈な戦いの後、日本軍の大敗北に終わった。これを「白村江の戦い」という。日本の軍船400隻は燃 え上がり、天と海を炎で真っ赤に焼いたという。こうして百済は滅亡した。敗戦は次の時代に強い影響と反動を及ぼす。唐と新羅の本土進入を恐れた日本は、防人を置き、水城を築いて国をあげて防衛に努めた。防衛努力は日本に於ける国家統合の意識を自ずから高めたのである。
13日 唐と新羅 唐と組んだ朝鮮三国の一つ新羅は同族の百済を滅ぼした。唐と新羅の中間に位置する高句麗はまだ力があり、唐と新羅は日本を攻める余裕もなく、高句麗から背後を襲われないようにする為、日本に和親 を求めてきた。その上で彼らは高句麗を滅亡させた。新羅は676年朝鮮半島を統一した。その後は新羅は唐に対して従順でなくなり両国間に隙間風が吹いた、朝鮮人の橋梁的生活は古代から変わらない。
14日 百済人の日本亡命 滅亡した百済から日本に、王族や貴族初め一般の人々までが1000人規模で日本列島に逃げてきて亡命した。朝廷は手厚い優遇措置を取った。近江(滋賀県)、東国に定住を許可された。 当時の日本列島の人口は500万―600万と推定され受け入れ余地は十分にあった。聖徳太子以来、大陸の中央集権国家形成を目指しており官僚制度の仕組みや情報を亡命百済人から学ぶ利点も少なくなかった。
15日 近江朝廷

中大兄皇子は唐からの攻撃を避けるために、都を近江に移し668年に即位し天智天皇となった。天皇は国内の仕組みを整えようと中国の律令をモデルにした「近江令(おうみりょう)」を編んだ。

初めて庚午(こうご)年籍(ねんじゃく)と呼ばれる全国的な戸籍を作った。然し、蘇我氏は滅びたとはいえ、天智天皇の時代には中央豪族の勢力はまだ根強いものが残っていた。
16日 壬申の乱 天智天皇の没後、御子の大友(おおともの)皇子(おうじ)と天皇の弟の大海人(おおあまの)皇子(おうじ)との間で、皇位継承をめぐる内乱が勃発した。これが壬申(じんしん)(らん)である、時672年。 大海人皇子は、中小の豪族、地方の豪族を味方につけて兵力十分で大勝利を収めた。これにより中央の大豪族の力は抑えられ天智天皇時代まで断ち切れなかった中央豪族たちの政治干渉の排除に成功した。
17日 天武天皇即位 大海人皇子は豪族の干渉から抜けて天皇中心に国家全体の発展方策の確立に成功した。そして天武天皇として即位し皇室の地位を高め公地(こうち)公民(こうみん)を目指 す改新精神を強く推進した。それまで大王(おおきみ)と呼ばれていた君主の称号として「天皇号」が成立したのはこの頃だとの説が有力である。(推古天皇が最初だという説もある。)
18日 [日本国号」成立 天武天皇は国史の編纂を志し、律令の改正と整備に着手した。天武天皇没後は、皇后の持統天皇が即位し近江令を改め、飛鳥(あすか)浄御原令(きよみはらりょう)が施行され 日本で初めて、中国の都城(とじょう)にならった広大な藤原京が建設された。天武・持統朝(672697)の時代は、日本の国家意識の確立期といってよく日本という国号もこの時期に確立したと考えられる。
19日 藤原京 万葉集には、「あおによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり」と読んだ歌は平城京の繁栄の様子を伝えている。 羅城門、朱雀大路、右京、左京、外京と碁盤の目のような我が国最初の都城である。平城(へいじょう)京は平城(なら)とも読む。
20日

律令国家の出発

文武(もんむ)天皇の大宝元年701年、大宝律令がつくられ新しい国作りの基本が決まった。律とは今の言葉で言う「刑法」、令とは「行政法」に当たる。 律は唐のものに近いが、令は日本の実情に合わせた内容となっている。こうして日本は本格的な律令国家として歩み始めたのである。律令国家とは律令により統治の基本が決められている国のことである。
21日 独自の律令は日本だけ 東アジアで、中国に学びながら独自の律令を編み出した国は日本の外にはない。朝鮮が少中華の国だと事大的だが独自の律令を作っていない。 新羅は唐の律令の中から自国に役立つ内容だけを拾い出して用い、自らの律令を作ろうとしていない。
22日 年号 我が国は日本という国号の定まったこの時期以降、年号が連続して使用されるようになった。 新羅は唐の年号の使用を強制され受け入れていた。既に唐の属国であったといえる。
23日 我が国の自主独立性 日本の年号と律令の独自性は、我が国が中国に服属することを拒否して自立した国家として歩もうとした意思を内外に示すものである。

21世紀の今日、中国により総理の靖国神社参拝を云々されることがいかに日本の矜持を傷つけるものか分かるであろう。経団連とか同友会の指導者は日本人として魂を捨てたと同然である。

24日 唐の律令 唐の律令は古代に於いては内容の深さ、分析の精密さでは古代史上、例を見ない程、優れた法律体系であったとされる。 官僚たちはこれに圧倒されながらも、徹底してここから学ぶという基本姿勢をとらざるを得なかったのである。
25日 養老律令 養老2718年、藤原不比(ふひ)()により大宝律令に僅かな修正を加えた養老律令が編纂された。

律令による統治の仕組み。
「都」天皇
「二官」神祇官―太政官。
太政官―「八省」
中務省、式部省、治部省、民部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省。
「地方」大宰府―国
(国司)―郡(郡司)―里(里長)

26日 平城京

律令国家の新都として和銅3年、710年奈良に平城京が作られた。唐の長安に似せたと言われるが、違いもある。長安の都には、外的に備えるための外壁があり、城内にも治安の維持の加えて、民を囲い込んで監視する内壁があった。

然し、日本にはそういうような厳しい対策も必要でなく、平城京には城壁が無い。
これは民族性と国の在り方の本質的性格を如実に示すものである。
27日 唐との違い 役所の仕組みも唐とは随分違っていた。唐では、皇帝の権力は絶大で、皇帝の両親も祖父母も臣下であった。 然し、日本の律令では、天皇の父には天皇とほぼ同等の敬意が払われていた。
28日 天皇の権威 日本では国政全般を司る太政官(だいじょうかん)と、神々を祭る神祇官(じんぎかん)の二つの役所が特設されていた。太政官には大きな権限が与えられており、天皇の政治権力を代行する役目さえあった。日本の天皇は大和朝廷以来続く豪族たちのバランスの上 に乗っかかっていた事情を示すものである。彼等にそれなりの立場を与えることで権力を発揮していたのである。天皇には権力に勝る権威が既にあった。中央豪族たちは、この頃には朝廷の役所で高い地位につき、貴族と呼ばれていた。平城京は貴族たちの活躍する政治の舞台であった。
29日 班田(はんでん)収受(しゅうじゅ)の法

大化の改新から五拾余年に渡る経験を生かして、公地公民という理想を実現しようとした。全国の耕地は、きちんと区分けされ、六年ごとに戸籍も改められ、6才以上の男女に口分田(くぶんでん)が与えられた。

口分田は一生の間、耕作を認められたが売買を禁止され、死後は国家に返すきまりになっていた、この制度を班田収受法という。
30日 ()調(ちょう)(よう)

公地を受けた公民は、調という税の義務を負った。税はかなり厳しいものであった。多数の農民に一様に平等の田地を与え豪族の任意とされていた、まちまちの税額を全国的に一律に定めた。

制度は国民生活にとって、公正の前進を意味していた。ただし公民(良民)と賎民との区別があり、後者は人口の一割であったが、公民と差別されていた。賎民のうち奴婢と呼ばれる人々は所有者の財産として扱われていた。