格言・箴言 8月「小学の読み直し」C
  −失われた自己を取り戻す為にー小学は「人間生活の根本法則」
1.安岡教学は、活学であり、現代人間に欠けてしまった、生きる上での基本を実に分かり易く教えておられる。私の元に連絡の来る、若い人が意外と故安岡正篤先生の著作を読んでいるのに驚きと共に納得できるものを感じている。現代人は、今こそ「小学」を学び直せと叫びたい。そこで安岡正篤先生の「小学の読み直し」を日々精力的に取り組みたいと決意した。
平成18年7月1日 徳永日本学研究所 代表 徳永圀典

平成18年9月

 1日 自己の本分をつくす

(安岡正篤先生の説明は6日以降)
伊川先生曰く、顔淵(がんえん)曰く、己れに()ち禮を()むの目を問ふ。孔子曰く、非禮()ること(なか)れ、非禮聴くこと勿れ、非禮言うこと勿れ、非禮動くこと勿れと。四者は身の用なり。中に由って外 応ず。外に制するは其の中を養ふ所以なり。顔淵斯の語を事とす。聖人に進む所以(ゆえん)なり、後の聖人を学ぶもの、宜しく服庸(ふくよう)して(しこうし)て失ふことなかるべきなり。()って(しん)して以て自ら(つつし)む。
 2日

其の視箴(ししん)に曰く、心は(もと)虚。物に応じて(あと)無し。之を()るに要あり。視之が則たり。

蔽・前に交れば、其の中則ち遷る。之を外に制して以て其の内を安んず。己れに克って禮を()む。久しうして(すなは)ち誠なり。
 3日

その聴箴(ちょうしん)に曰く、人秉彜(へいい)あり。天性に本づく。知(あざむ)物化(ぶっか)し、遂に其の正を(うしな)ふ。(たく)たる()先覚(せんかく)(とど)まるを知り定まるあり。

邪を(ふさ)いで誠を存す。非禮聴くこと勿れ。其の言箴(げんしん)に曰く、人心の(どう)は言に()って以て()ぶ。発する(そう)(もう)を禁ずれば、(うち)(すなは)静専(せいせん)なり。
 4日

(いは)んや是れ枢機(すうき)にして、(じゅう)(おこ)(こう)を出し、吉凶栄辱(えいじょく)()れ其の招く所なるをや。

(あなど)るに(やぶ)るれば(すなは)(たん)(わずら)はしきに(やぶ)るれば則ち支、(おの)(ほしいまま)なれば物(さから)ふ。出づることを(もと)れば来ること(たが)ふ。非法()はず。(つつ)しめや訓辞(くんじ)
 5日

其の動箴(どうしん)に曰く、哲人()を知る。之を思に誠にす。志士行を励む。之を(しわざ)に守る。理に(したが)へば(すなは)(ゆう)なり。

欲に従へば()れ危し。造次(ぞうじ)にも()(おも)ひ、戦兢(せんきょう)自ら持し、習ひ性と(とも)に成れば、聖賢帰(せいけんき)を同じうす。

 6日 安岡正篤先生講義 「礼」とは今日の言葉で言えば、部分と全体の調和、部分と全体との調和・秩序であります。人間は常に自己として在ると同時に、自分の集まって作っておる全体の部分として、夫々みな秩序が立っておるのでありまして、これを分際という。限界であります。 これに対して自分の存在を自由という。人間は自由と同時に分際として存在する。これを統一して自分というのであります。従って自己というものは、自律的全体であり、全体的な調和であります。
 7日 それが礼と言うもので、あらゆる自己がそれぞれ分として、全体に奉仕して行く、大和してゆく。それが円滑なダイナミックな状態を「楽」というのであります。 「礼」と「楽」とは儒教の最も大切なものの二つであります。全体的な調和を維持してゆくには、どうしても各々が自分にならなければならない。自己になつてはいけない。
 8日 自己は私というもので、私としう字は禾偏にムと書きますが、ムは曲がるで、禾を自分の方に曲げて取ることで、それをみんなに分けてやるのが公でありま す。
如何に自己を抑えて自分になるか。これが「己に克って礼を復む」ということであります。復はかえるでも宜しい。
 9日 顔回がそのことを孔子に尋ねた。すると孔子が言われるには、
非礼は視てはいけない。
非礼は聞いてはいけない。
非礼は言ってはいけない。
非礼は行ってはいけないと。
この四つは身の用である。そこで、伊川先生は、このと四つを警めとして道の学問に精進したのであります。秉彜(へいい)(へい)はとる、()はつね。即ち不変性・法則性を言う。幾は機に同じ。機微・ポイント。非礼は「礼に非ずんば」と読んでも宜しい。
10日 范益謙(はんえきけん)座右(ざゆう)(かい)に曰く、 一に、朝廷の利害・辺報(へんほう)()(じょ)を言わず。
二に、州県官員の長短得失を言わず。
三に、衆人()す所の過悪を言わず。
四に、仕進(ししん)官職(かんしょく)、時に(おもね)(いきおい)()くを言わず。
五、財利の多少、貧(いと)ひ、富を求むるを言わず。
六に、淫せつ(いんせつ)戯慢(ぎまん)女色(じょしょく)を評論するを言わず。
七に、人の物を求覓(きゅうべき)し、酒食を干索(かんさく)することを言わず。
11日

又曰く、
一に、人書信(しょしん)を附すれば開柝(かいたく)沈滞(ちんたい)すべからず。
二に、人と並び坐して人の私書を(うかが)ふべからず。

三に、(およ)そ人の家に入りて人の文字を見るべからず。
四に、凡て人の物を借りて損壊(そんかい)不還(ふかん)すべからず。
12日

五に、凡て養食(ようしょく)を喫するに揀擇去取(かんたくきょしゅ)すべからず。
六に、人と同じく()るに、自ら便利を(えら)ぶべからず。

七には、人の富貴(ふうき)を見て(たん)羨詆毀(いていき)すべからず。凡そ此の数事(すうじ)、之を犯す者あれば以て用意の不肖(ふしょう)を見るに足る。心を存し身を修むるに於いて大いに害する所あり。()って書して以て自ら(つつし)む。
13日 安岡正篤先生講義1. 范益謙(はんえきけん)は北宋の名臣、祖寓の子沖(字は元長)という注もありますが、詳らかにしません。その座右の戒に曰く、 一に朝廷の利害に関することや国境の問題、或いは転任・任命に関することは言わない。その道の人が話し合うのはよいが何も内情の分からぬものが政府の色々の問題をとやかく言うのはいけないことであります。
14日 安岡正篤先生講義2. また私生活に公生活・職生活の問題を持ち込むことも、これは決して好ましいものではありません。水も使いっぱなしではいかんのでやっぱり貯めることも必要であります。私生活は言わば貯水池のようなもの、成るべく別天地にしておきたいものであります。 その意味で同職の夫婦は往々にして失敗するものです。例えば医者が、さんざん患者を診てうんざりして家に帰る。帰ったらこれまた医者の奥さんが患者の話をする。これでは朗らかになれる筈がない。
15日 安岡正篤先生講義3 夫婦というものは、違ったものが一緒になるので良いのであります。その意味に於いても男と女は違わなければいけない。処が近頃は男が女のように、女が男のようになって区別がつかない。 これは生物の世界から見ても退化現象であります。生物の世界も、繁栄する時には多種多様性を帯び、生命力が沈滞してくると、単調になってくる。
16日 安岡正篤先生講義4. 今日の文明は余りにも単調になり過ぎております。思想を右と左に分けたり、イデオロギーを振り廻したり、生の複雑微妙な内容や特徴を無視して単調化してしまう。これは一つの抽象化作用であります。みだりなる抽象化は生の力を阻害する。 これは肉体現象でも精神現象でも明確なことであります。イデオロギーなど弄ぶのは、人間が浅薄になっておる証拠です。だから本当に物が分かって来れば、べらべら喋らない。いずれにしても日常の私生活まで、つまらぬ社会問題など論じないほうが良いのであります。
17日 安岡正篤先生講義5.

二に、地方官吏の長短や得失などを言わない
三には民衆のなすところの過や悪事を言わない。
四に、官職にあっては、時の勢力にくっついて走り廻るようなことは言わない。

五に、財物や利益を追って、貧乏をいとい、富を求めるようなことは言わない。
六に、性欲や戯慢や女色に関するようなことは言わない。
七に、人に物を求めたり、酒色を催促するようなことはしない。
18日 安岡正篤先生講義6. 又言う、
一に、人が手紙を寄越せば、これを開くのを放って置いてはいけない。私などもこれは常に心掛けておるのでありますが、なかなか努力の要ることであります。
二に、人と並んで坐って、他人の私書を覗いてはいけない。
三に、他人の家に行って、私人の書いたものを見てもいけない。
四に、人に物を借りて、損じたり返さなかったりしてはいけない。これの代表的なものは書物であります。貸したら最後まで返ってこない。そこで昔から書物と花だけは泥棒してもよいという。情あけることです。
19日 安岡正篤先生講義7.

五に、すべて飲食に選り好みを言ってはいけない。何でも有難く食べるべきです。
六に、人と同じくおるのに、自分だけが都合の好いように撰ぶことはいけない。都会におって電車等に乗ると実際情けなくなります。

七に、人の富貴を見て羨んだり、貶したりしてはいけない。おおよそ、この幾つかの事、これを犯すものは、心掛けのいけないということが分かる。修養するのに大いに害がある。そこで書して以て自から警むるの戒としたのである。
20日 董仲舒(とうちゅうじょ) 董仲舒(とうちゅうじょ)曰く、仁人し其の誼を正しうして其の利を謀らず。其の道を明らかにして其の功を計らずと。 董仲舒(とうちゅうじょ)は漢の武帝の時代に於ける大官であり碩学(せきがく)であります。(よしみ)とは言葉の宜しきを得ることで、道義の義に通ずる語であります。
21日

本文は決して利というものを問題にしないとか、功というものを抹殺するという意味ではない。正誼(せいぎ)明道(めいどう)との功利のどちらを主眼とするかということであります。普通の人間は功利を主眼にするが、仁人(じんじん)はその

逆で、正誼・明道を建前にして、その結果どういう利益があるか、というようなことは自然の結論にまかす。ソ連との貿易問題にしても、やはり人間の良心や道義という点から考えて判断をし、それから後で貿易といったような功利を導き出すということが肝腎であります。
22日 無欲の生活 呂正献(ろせいけん)(こう)(しょう)より学を講ずるに、即ち心を治め性を養ふを以て(もと)()し、嗜慾(しよく)(すく)うし、滋味(じみ)を薄うし、(しつ)言遽色(げんきょしょく)無く、窘歩(きんぽ)無く、惰容(じょうよう)無し。 凡そ嬉笑(きしょう)俚近(りこん)の語、未だ(かつ)(これ)を口より出さず。世利(せり)紛華(ふんか)声技(せいぎ)游宴(ゆうえん)より以て博奕(ばくち)奇玩(きがん)に至るまで淡然(たんぜん)として好む所無し。
23日 安岡正篤先生講義1. 呂正献(ろせいけん)(こう)・名は哲、後に賢者たらんことを希うて希哲と改む。正献公は諡。(しつ)言遽色(げんきょしょく)は早口で物を言い、顔色を急に変えること。窘歩(きんぽ)の窘はせかせか歩く意であります。 東洋にはこういう人が多い。余り物欲も浪人も苦にならない。これは精神生活が発達しておるからであります。
24日

安岡正篤先生講義2.

私が学生の頃から忘年の交わりをした人に寒川鼠骨という人があります。松山の出身で子規の門下の俳人でありますが、深く禅にも参じておった。実に淡然として好むところの無い人で、従って勿論貧 乏であった。絵画に画商というものがある如く、俳句にも俳商という者があった、虚子などもこれをうまく利用して有名になった人でありますが、寒川先生は全くそういうことはやらなかった。
25日 安岡正篤先生講義3. 或る時、丁度そういう俳商の一人が訪ねて来て、しきりに先生をおだてては短冊を書いて商売をさせろという。私は側でじっと聞いておったのですが、先生目を丸くして「うーん、某々はそんなにと ておるのか」と言って感心している。しばらくして先生が言うのです、「そうなると金が出きるね、わしは長年貧乏と親友で、今更金が出きると困るだ・・」、そう言って俳商を追っ払ってしまった。
26日 安岡正篤先生講義4. これは財ばかりではありません。地位でも名誉でもそうです。大学の時代ら神奈川県の知事に何某という人がおりまして、親父さんは土佐の田舎で船頭をやっておられた。それで息子の知事は気になって仕方ない。或る時田舎に帰って、もういい加減にやめてくれと頼んだが、お前は知事かも知れんが わしはこれじゃ、と言って問題にしなかったという。こうゆう心境を持っておれば階級闘争などは起こらないでありましょう。どうも今の人間は功利にばかり執着して、精神生活を持つことを知らない。そのために世の中が益々の世の中が益々複雑なり苦しくなっている。そうしてみんな悩んでおるのであります。
27日 胡文定公曰く 胡文定(こぶんてい)(こう)曰く、人は(すべか)らく()れ一切の世味(せみ)淡薄(たんぱく)にして(ほう)に好かるべし。富貴(ふうき)(そう)あらんことを要せず。孟子()ふ、堂の高さ数仭(すうじん)食前(しょくぜん)方丈(ほうじょう)持妾(じしょう)数百人、吾れ志を(うる)とも()さずと。 学者(すべか)らく先ず此等を除去して常に自ら激昂(げっこう)すべし。便(すなは)墜堕(ついだ)を得るに到らず、常に愛す。諸葛(しょかつ)孔明(こうめい)、漢末に当って南陽(なんよう)(みずから)ら耕し、(もん)(たつ)を求めず。
28日

胡文定公曰く(続き)

後来(ごらい)劉先生の(へい)に応じ、山河を宰割(さいかつ)し、天下を三分し、身・将相(しょうそう)()り、手・重兵(じゅうへい)を握る。亦何を求めてか得ざらん、何を欲してか遂げざらんと雖も、(すなは)後主(ごしゅ)に与へて言へらく、成都(せいと)に桑八百株、薄田十五(けい)り。 子孫の衣食自ら余饒(よじょう)あり。臣が身は外に在って別に調度無し。別に生を治めて以て尺寸(せきすん)を長ぜず。死するの日の(ごと)き、(くら)に余財有らしめて、以て陛下に(そむ)かじと。(そつ)するに及んで果して其の言の如し。此の如き(やから)の人、真に大丈夫(だいじょうぶ)と謂うべしと。
29日 安岡正篤先生講義1. 胡文定公が言うのには、人間は世の中の味、即ち物欲生活というものには淡白で丁度好いのである。別に富貴の相あるを要しない。「堂の高さ数仭(すうじん)、食前方丈、持妾数百人、吾れ志を得とも為さず」と孟子も言っておるが、学に志すものは是非共こういうものは除き去って、自らを高めるべきである。 激昂は高めることで、ここでは興奮する意味ではない。そうすれば堕落せずに済む。いつも好きな話だが、諸葛孔明は漢末に当たっては、南陽に自から耕し、少しも出世することなど求めなかった。後年、劉備の招請に応じて山河を宰割し、天下三分(魏・呉・蜀)の計を立てて、身は将軍・宰相の地位に,掌中には軍の枢機を握った。
30日 安岡正篤先生講義2. こうして、何を求めても得ざるなく、何を欲しても遂げざる事なき有様であったけれども、後主に与えて言うには成都には桑八百株、荒れた田地ではあるが十五頃(一頃は八畝)ある。子孫の衣食には余りがあります。自分の身は外にあって、別に調度もないし、財産を増やす必要もありません。私が死んだ時に家を調べたら、庫にどつさり食糧がつまつておったり、金も沢山あったというようなことをして、陛下に背くようなことは致しません。若しそういうことがあるとしたら、これし地位・権力を利用して私を肥らせたことになる。胡文定公は南宋の烈士、春秋学の大家安国のことであります。 死するに及んで果してその言葉通りであった。こういう種類の人こそ真に大丈夫と言うのである。我々も子供の時分からこんなことぱかり教えられたので、妙に金などあると苦痛に感じる。だから私はいつも金を持たないことにしております。みんなそれを知っておるので、喜んで用を足してくれる。戦争中でも私は代用食など食べず、酒にも不自由しませんでした。みんな持って来てくれました。処が世の中というものは面白いもので、今日のように物が豊かになると、誰も持って来てくれる人はありません。世の中が不自由になると、私は豊かになる、誰か持って来てくれる。無は無限に通じるときめてのん気な生活です。