淳君事件に思う

平成9年7月18日 日本海新聞 私の視点に掲載寄稿

この事件は物質的に成熟し爛熟した日本社会が生み出した巨悪事件と云える。日本は遂に犯罪まで先進国となったのか。容疑者が少年であるだけに今後の対策は人間そのものも真剣に考え直し論議を深めたいものだ。ここで人間の存在そのものに就いて大人も子供も考えて見るのは無意味ではないと思う。寧ろ望ましい。私はこの歳まで生きてきて、色々と考えることがある。結論から云えば人間には善と悪があり、神様も悪魔も共に住んでいるということだと思う。近年大変多くの人が無残な殺され方をしている。然し殺された人側が誰一人として殺した人に報復したという話は聞かない。殺人者は冷静になると心のなかに死者の亡霊が夜な夜な現われているのであろうが。
私はここで、生きている人間の心そのもの自体が神であり仏なのだと思う。心の陶冶が神をつくり産む。人間そのものはその辺りの動物と変わらないところを本来多々持ち合わせているものである。即ち、人間から心というもの、道理というものを除いてしまったらただ一個の血袋と一塊の白骨に過ぎない。ここから人間教育とか躾けとかを考えていかなければならないと思う。特に人間は習慣の生きものであり幼児期の体験とか躾けが一生を決定づける。社会人として家庭人としての原型も幼児期につくられる。処が、戦後は物質的にも精神的にも、親も子も放任がさも近代的のようにしている。子供がこのまま成長したら人間としてタガの無いその辺りの動物と変わらないものになるのは当然であろう。
処が動物は餌の争奪に同種の相手を殺すまではしない。それどころが死ぬのさえ自分で始末する。然し人間は喧嘩をすれば相手を完膚ないまでやってしまう。理性的である筈の国家さえ人間を大量無差別殺人をしてしまうのは先刻ご承知の通りである。人間は死ぬと自分の後始末を人様にお願いしなくてはならぬ存在である。ある意味で動物より劣る。
人間には幼児期から少年期の教育次第という事は自明であろう。戦後は栄養が良くなり18才の子供は動物的には十分に成長、発達、成熟している。人間社会の構成員として社会人側の対応が彼らに甘いということは明白である。なぜその是正に国民は動こうとしないのであろうか。そうでなくても日本の法律は甘すぎると云われているのに。
梶山官房長官は今回の事件について[少年法の改正]に触れているが当然であろう。大学でもドンドン入学させたらよい。ついていけない生徒は遠慮無く落第させたらいいのだ。それが究極的に本人の人生の為であり社会的に有効である。自分の能力の合うところでやればいいのだ。自分の能力に合った生き方を認めないから義務教育が負担になるのだ。 教師も自己の職務に関して絶対言ってはならぬ言葉がある。今回の事件で取り沙汰されている[卒業するまで登校するな]の発言は職業倫理上許されない。金は自由で物は有り余っている。一人部屋で何を妄想するのであろうか。[小人閑居して不善をなす]は蓋し名言である。人間は所詮そのようなものである。人間教育に今、新次元が必須と思われる。