巨大古墳の時代   倭の五王として積極的な先進文化移入

平成26年9月

1日 巨大古墳の時代

巨大古墳の出現を可能ならしめた時代的背景はいかなるものであったのか。今度はそうした観点から第五世紀の巨大古墳の時代を概観しておきましょう。

2日 六天皇が大王として日本に君臨

まず伝承などを見ると、第五世紀の仁徳王朝は仁徳天皇の代から盛んに対外的な交渉を行っていることが分かります。はじめ、中国の晋王朝にも朝貢していましたが、その後、晋に代った宋との交渉が繁しくなり、南朝(北朝は北魏と言う国、この時代中国は南北両朝に分かれた)との関係が非常に強くなっているのです。
この中国との交流が活発であった時代、つまり第五世紀の百年間、わが国の文献である「記紀」は、仁徳天皇から履中(りちゅう)反正(はんぜい)(いん)(ぎょう)安康(あんこう)・雄略の六天皇が大王として日本に君臨したと伝えています。

3日 中国の正史によると

一方、同時代のことを著した中国の正史である「宋書」には、仁徳天皇から雄略天皇に至るまでの王が、代々宋朝に入貢したということが記されています。その王名は、(さん)(ちん)(せい)世子(せいし)(こう)()で、普通これを「()()(おう)」と云っています。

4日 六王

然し、同じく中国の文献である「梁書(りょうしょ)」によれば、「宋書」に伝えられる五王のほかに、いま一人、別に()という王名も出ているのです。「宋書」では、讃・珍の王の間の記事に「是の月、倭の国王使を遣わし方物を献ず」とあるだけで名が記されていない王がありますが、私はそれが丁度、年代的に()に当たるとみて、六王が数えられると考えます。

5日 倭の六王

即ち、(さん)()(ちん)(せい)世子(せいし)(こう)()の「倭の六王」が宋に入貢し、それが、仁徳・履中・反正・允恭・()(なし)軽皇子(かるのみこ)・雄略の六天皇に対応しているとみます。ちなみに、私は安康天皇を非実在天皇と考え、代わりに木梨軽皇子を歴代に加える説をとつています。六王だとすると、日本の歴代数と完全に合致し、日本の第五世紀の王は代ごとに欠かさず宋に朝貢したということになるわけです。

6日 高句麗を牽制

こうした仁徳王朝の積極的な朝貢はも朝鮮植民地経営が高句麗によって圧迫され続けた為に、中国の力を利用して高句麗を牽制しようという狙いがあったと見られます。然し、それと同時に、非常に精力的に中国の先進文化を採り入れようとしたことも事実なのです。

7日 六王在位年数

「宋書」の中には、両者間の通交関係が伝えられていますし、日本側の史料にしても、呉の国(宋の支配地域・中国南部)との交流が色々な形で出ています。例えば、呉服などという言葉があるように呉から織物が伝えられたり、大規模な土木工事の技術も伝えられたりしているのです。

天皇名

倭王名

即位元年

崩御年

在位年数

仁徳

  讃

395

427

33

履中

  弥

428

432

5

反正

  珍

433

437

6

允恭

  済

439

462

24

木梨軽皇子

  興

462

462

0

雄略

  武

463

489

27

飯豊

  なし

490

499

10

継体

  なし

500

527

28

 

8日 六王崩年干支

古事記崩年干支と倭六王入貢年代

西暦

史料記載事項

古事記年立

中国史書年立

水野訂正年

394

応神天皇崩御

応神

 

応神

413

倭国王讃、晋に入貢

仁徳

讃岐 仁徳

425

倭国王・讃、宋に入貢

 

 

 

427

仁徳天皇崩御

 

 

 

430

倭国王(欠名)、宋に入貢

履中

欠名王

?履中

432

履中天皇崩御

 

 

 

437

反正天皇崩御

反正

-反正

438        

倭国王・珍、宋に入貢

 

 

 

443

倭国王・済、宋に入貢

允恭

 

 

451

倭国王・済、宋入貢

允恭

454

允恭天皇崩御

 

 

 

460

倭国王、宋に遣使

世子興、宋に入貢

世子興

世子興

-木梨軽

462

世子興、宋に入貢

 

雄略

世子興

 

木梨軽

477

倭国王・武、宋に遣使

雄略

478

倭国王・武、宋に上表

 

 

 

479

倭国王・武、南済に入貢

 

 

 

489

雄略天皇崩御

継体

 

飯豊

9日 仁徳王朝の実力

第四世紀末、高句麗の好太王によって日本軍は南鮮まで追撃されるという圧迫を受けましたが、そうした高句麗の南下政策は第五世紀を通じて不断に行われました。西暦475年には高句麗の長寿王が三万の大軍で百済を殆ど滅亡に追いやった結果、百済を支援していた日本の威信は失墜し、その後、日本領となっていた任那さえ百済・新羅から侵略されるというような事態になっていたのです。

10日 東国の開拓

仁徳王朝は、こうした朝鮮情勢に対応するため、応神天皇時代は九州にあった都を畿内に移転するとともに、軍事・経済力の回復、増強のために盛んに東国の開拓を行うようになります。

11日 統一国家としての発展

もとより、そうした政策を推進するには強力な統制力が必要なわけですが、朝鮮まで遠征していって高句麗の強力な軍事力と渡り合う程の仁徳王朝は、国内では絶大な支配力を発揮していたと見られます。第五世紀の仁徳王朝が絶えず東国に対する遠征を行ったことは、雄略天皇が宋朝に奉った上表文の中にも記されており、東方経略(支配)を大きな政治課題としていたことは明らかです。仁徳王朝は、東国経略で新しい力を得て、統一国家としての発展を遂げていったとも言えます。

12日 優位性への欲求

また、そうした任那経営、東方経略を進める仁徳王朝は、国内、国外勢力に対して常に優位に立とうとする志向性を持つ国家です。その優位性への欲求が仁徳王朝に絶えざる文化・技術の発達を促し、中国・宋への朝貢を欠かさずに行わせることになったと言えます。

文字の伝えられた第五世紀

13日 銘文などからの証明 仁徳王朝は中国との交流によって各種の文化を採り入れましたが、特に注目すべきは文字の伝播により徐々に記録が行われるようになったことです。
第五世紀、文字使用の条件が整ってきて次第に漢字の使用、記録の時代に入っていったことが、当時の鉄剣の銘文や(いん)(ぎょう)(ちょう)に作成されたと見られる隅田八幡神社の鏡の銘文などから証明できます。即ち、仁徳天皇以後、特に履中天皇の頃から帰化した人びとの文字知識が活用され始めたとみられ、第五世紀は日本が記録の時代に入る前提をなす時期となったと言えるのです。
14日 最初の修史

「日本書紀」には履中朝に「四方志」の修史が行われたはずが無いと言われました。然し、鉄剣の銘文や隅田八幡の鏡の銘文、さらに最近出土した稲荷山古墳の鉄剣銘などを見ると、第五世紀に文字が使用されていたことは疑いなく、履中天皇の「四方志」の編纂も今や最初の修史として十分認めることができます。

15日 文字が使用される段階

このように、文字が使用される段階に達したことは、国家の発展、文化の発展に大きな推進力を与え、その時期にかなりの国家権力の伸長があつたと考えられます。

16日

隅田八幡神社
和歌山県橋本市にある神社。社宝である
?製鏡には「癸未年八月十、大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻、念長寿、遺開中費直穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此意」の銘文が鋳出されている。癸未年を383年と443年、503年にあてる説がある。

17日

稲荷山古墳
埼玉県の埼玉古墳群の前方後円墳。金象嵌らよる銘文のある鉄剣が発見された。

巨大古墳の出現の背景

18日 先進技術、文字、文化の移入促進

まとめますと、仁徳王朝の積極的な対外政策は朝鮮において高句麗との絶えざる緊張状態をもたらしましたが、それが仁徳王朝に軍事・経済力の増強へ強い欲求を醸成し、東方経略へと駆り立てるとともに、中国との交流を緊密に行わしめて土木技術などの先進技術や文字文化の移入を促進したといえます。

19日 河内平野の大規模開拓 そして、土木技術などを活用して河内平野の大規模開拓が行われ、それに東方経略による新天地の開発や鉄製農器具の普及も加わって農業生産高の向上がもたらされたのです。そうした国家的・文化的発展や生産力の増大が征服王朝たる性格をもつ仁徳王朝の活動を支え、また強大な権力と統制力を形成せしめたのでした。
20日 巨大古墳の狙い

然し、朝鮮経営は軌道に乗るどころか高句麗によって壊滅的な打撃を受け、仁徳王朝は対外的につ常に圧迫され続けていたのです。その皺寄せは国内に様々な矛盾を作り出していったと思われます。それは人民の疲弊であり、豪族間の激しい利権争いであったと思われますが、そうした矛盾を抱えながらも絶えざる征服事業を進める仁徳王朝は国内に武威を誇示し、権威を見せ付ける為にもその先進地土木技術を駆使して、巨大古墳の造営を行ったのではないかと思えるのです。 

29

家族墓の始まりと群衆墳

21
v

古墳の変遷

前期古墳の高地性

古墳の構築場所を全体的に眺めますと、前期古墳は丘陵上や山腹の高い地形にみられ、中期古墳は平地や台地上に、そして後期古墳は再び山腹など比較的に高い地形にみられるという傾向があります。

22日

つまり、各期の古墳を全体的に概観してみますと、その構築場所に高低差が見受けられるのです。こうした古墳の構築場所の地形的変遷は、各期の社会情勢を反映したものとみることができます。

23日

先ず、前期における高地の古墳ですが、これは近畿周辺、瀬戸内海沿岸によくみられ、分布が弥生時代の高地性集落跡があった地域とオーバーラップすることなどとも関連して、そうした地域では平地の集落を見下ろす高地が聖地視され、その地の首長たちの墓所として択ばれたのではないかという見方もできます。

24日 原大和国家の陵墓

また、原大和国家の陵墓と見られる前述の箸墓古墳、さらに崇神天皇陵といわれる行燈山古墳、景行天皇陵とされる向山古墳などの前期大型前方後円墳群も、いわゆる山辺の道の南部に位置し、崇神王朝の聖地三輪山に寄り添うようにして構築されています。

25日 宗教的な観念

地方の有力な豪族・(きみ)にせよ、原大和国家の天皇・大王(おおきみ)にせよ、古墳の位置の選定には何か宗教的な観念が強く影響していたと考えてもよいでしょう。さらに、前期古墳群の高地性は、土木技術や大規模な人民動員を可能とする権力が未熟な段階にあり、山丘を利用して古墳を造ることが多かったことも大きな原因とみられます。

26日 巨大古墳造営競争にみる大和朝廷と豪族の確執 宗教的な色彩の濃い前期古墳に対し、中期古墳は権力の大きさを誇示することを第一目的としたかのように平野部にその威容を現しています。
27日 大王古墳群

河内平野に展開する応神天皇陵を含む古市(ふるいち)誉田(こんだ)古墳群、それに仁徳天皇稜を含む(いずみ)百舌(もず)古墳群といった大古墳群、これら仁徳王朝の400米を超す巨大古墳を含む大王古墳群と言われるものに対し、大和奈良盆地に本拠地を置いたとみられる葛城や春日(かすが)氏、或いは吉備(きび)氏といった有力豪族も大王古墳に対抗するかのように200-300米級の巨大古墳を構築しています。

28日 勢力の大きさを誇示し合った

さらに、関東の上毛野君や下毛野君、九州の筑紫君や佐賀君と言った各地に君臨していたと見られる大豪族たちも100-300米級の大古墳を構築しており、有力地方豪族たちは仁徳王朝への対抗意識もあらわに、天皇稜と同形式(前方後円墳)の巨大古墳造営によって勢力の大きさを誇示し合っていた観があります。こうした中期古墳の多くがなぜ平地部に築かれているのかと言えば、一つには権力の誇示に最も効果的であるということが考えられますが、もう一つは平地部が権力基盤としての稲作を中心とする農業生産地帯であったことも大きく影響しているように思います。 

29日

仁徳王朝にせよ、有力豪族にせよ、その根拠地は平野部であり、しかも当時の農業生産技術や治水・土木技術の発達によって、広大な耕作地が生まれるとともに生産高の著しい向上がもたらされ、自然、古墳も権力と密着した平地部に構築されるようになった?そうした見方も出来るかと思います。また、こうした平地部における巨大古墳の出現は、何よりも土木技術の発達と大規模な人民動員を可能とする強大な権力がその背景にあることを忘れてはならないでしょう

30日

葛城氏
孝元天皇の子孫と称し、大和葛城地方を本拠とし
た豪族。諸支族は、それぞれ国造(くにのみやつこ)(あたえ)(むらじ)などを称していたが、特に葛城(かつらぎの)(おみ)は説話上の人物・武内(たけのうちの)宿(すく)()の子孫と称する氏族中の(そう)()にあたる。 
春日氏
はじめの大和国添上郡(天理市)和邇の地を本拠として和邇臣と称したが、後に春日臣と称して粟田・柿本・山上・小野・大宅など数十氏の同族を含む大氏族として活躍し、奈良市の佐紀古墳群はこの氏族の墓地ではないかと言われる。