古典は人間にとって大きな教であり、また救い


 人間学の書物を フランスの虎と云われたクレマンソーが新聞記者のインタビューの中で、
自分は時々政治というものがつくづく嫌になる事がある。そういう時には家に帰ってギリシャ・ローマの古典を読むことにして
いる、と言ったことがあります。

ギリシャやローマの古典と言うのは、要するに人間学の書物でありまして、日本で言うなら古事記とか日本書紀とか論語とか
孟子を読むということです。

古典は人間にとって大きな教であり、また救いになるばかりでなく、下手な専門書を読むよりはるかに人間としての活きた示唆や
反省を与えてくれるものであります。

人間はやっぱり古典についての教養を持たなければなりません。

欠陥が国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んでいる
処が、不幸にも今日の日本はそう言う事が酷く荒んでおります。

しかもその欠陥が国家・国政ばかりでなく、既に民族生活の核である家庭の中にまで入り込んで、
今や日本の家庭は歴史的にかってなかったような危機に瀕しておると言えます。

家庭生活の破壊は民族の滅亡につながります。
いくら経済政策がどうの福祉政所で、家庭生活が健全でなければ国は持ちません。
従って、これを救うには、結局国民に本当の意味における教養、単なる知識とか
技術というようなものではなくて、人間としての心得である教養を厚くすることより外はありません。
これは政治学から言うても民俗学から言うても動かすことの出来ない真理であります。