阿夫利神社 神奈川県秦野市

祭神
山祗大神(オオヤマツミノカミ) 高オカミノ神(タカオカミノカミ) 大雷神(オオイカツチノカミ)

 御主神大山祗大神(オオヤマツミノカミ)は、またの名を、大水上御祖神(オオミナカミノミオヤノカミ)とも、大水上神(オオミナカミノカミ)とも言い、神威炳焉(つまり、霊験あらたか、ということ)、
生活の資源はもちろん、海運・漁獲・農産・商工業など、熱心に祈願すれば、成就しないことはないという。
 またの名を、酒解神(サカワケノカミ)と言い、酒造の祖神としてもあがめられている。
大山は、古来よりたびたび神意が現れ、天狗の来住する神山であるとも言われている。
 大雷神(オオイカツチノカミ)、高オカミノ神(タカオカミノカミ)も共に、殖産・灌漑・桑蚕の生業を守護する神で、その神徳は明らかで、生活に必要なあらゆる物資はみな、その神徳によるものだと言われている。
 多くの人智では計り知れない神異からも、大山の霊験あらたかぶりを窺い知ることができる。境内外の摂末社は20有余にのぼり、神徳は高く、神蹟も数多く存在する。

御由緒

大山阿夫利神社は、大山の山嶺に三社があり、本社は大山祗大神(オオヤマツミノカミ)を祀り、摂社奥社に大雷神(オオイカツチノカミ)が、前社に高オカミノ神(タカオカミノカミ)が祀られている。
 摂社の両社は、古くは大天狗・小天狗と言われていた。
 底津磐根(ソコツイワネ 地の底です)に鎮座して、高天原(タカマガハラ 天上の神々の国のこと)に千木高知り座して天下の神蹟と言われているのが、両部時代より大山石尊大権現(オオヤマセキソンダイゴンゲン)と称せられた、本社の御霊体であり祭神。

大山阿夫利神社の御鎮座、神社創立は、今から2200余年以前の人皇第10代崇神天皇の御代。
 古来より大山は山嶽神道の根源地であり、別名に雨降山、古名を大福山。 標高1253メートルの山頂に本社があり、延喜式神名帖に登載されている式内社。
 天平勝宝4年(752年)に良辯(リョウベン)大僧正が入山してようやく不動堂建立以来の時運到来、神仏習合の機が熟し、堂塔僧坊を建て、霊石の由縁をもって石尊大権現と称し、雨降山大山寺と号。

この号は、神山の山頂にある、常に雨滴がたたえられている霊木にちなんで名付けられたもので、今なお、雨降木の名をもって残されている。

 以後、数百年の間、神職・修験・僧侶などが入り交じって奉務。

聖武天皇の勅願所であった時など、房相総3ヶ国の租税から一山の費用をまかなうなどして報賽(祈願成就のお礼参り)を欠かさなかったものですが、元慶3年、大地震があって神火に遭い、一山すべてが無に帰し。
 その時、鎌倉の僧、願行上人が来られて、再興を計られた。
 その後、元歴元年9月、源頼朝は幕府所在国の霊社として、特に社嶺を寄せて篤く信仰した。
 徳川氏の時代になってからは、朱印黒印などをもって社領157石を寄進、また、神池境域の内外に除地・山林 200町歩を置いたりしたが、中でも三代将軍家光公は、18万両の巨費を献じて、本社以下、摂社末社を改築し、実に12坊8大坊でもって一山をとりしきらせることとした。
 ところが、安政年間の大火で全山が灰燼に帰し、以前の盛観はまったくなくなってしまった。
 崇敬者は再建に努力し、明治元年、神仏混淆の廃止・同年10月の鎮守府の命によって、石尊大権現らなびに大山寺の称を廃止して、阿夫利神社の旧号に復し、明治6年7月、県社兼郷社と定められ(初代祠官権田直助翁)、続いて昭和27年8月、宗教法の制定により阿夫利神社本庁として出発、神社・祀職・先導師・講社一連の組織を確立し、神道の実践と日本神社宗教の確立を計ることとなり、現在に至る。