赤 穂 城   兵庫県赤穂市加里屋

平成18年2月28日

山鹿流甲州流軍学によって築かれた名城

忠臣蔵で名を馳せた赤穂四十七士の仕えた藩城

築城者 池田政綱・輝興 浅野長直 時   期 元和・寛永年間 正保年間  梯郭式平城 石垣 濠 天守台

( 沿革 )

南北朝の争乱期に播磨守護となった赤松則村が大鷹山に築城したのが始まり。室町時代に入りその一族の岡豊前守光広が交通要路である海寄りに拠点を移して加里屋城を築いた。その後宇喜田氏の支配下に入ったりするが、関が原の合戦後は姫路城に入った池田輝政の領地となり、備前地方と海路の重要性から城代を置いて城の拡張に努めた。後に池田輝政は赤穂を分藩として五男政綱
33千石を与えて封じ、大阪の陣対策もあってかなり大掛かりな改築を施し、ほぼ今日の中郭部の輪郭が整った。
然しその弟輝興の代になり
(正保21645)乱心を理由に赤穂池田藩は取り潰され、代わって常陸笠間から浅野匠頭長直が53千石で入部する。幕府は備前・播磨地方の制海権確保や製塩事業振興を進めるべく新城築城を許可、浅野氏は慶安元年(1648)から築城に取り組み、13年かけて現在に遺る石高に比し堂々たる名城とも言うべき赤穂城を完成した。
然し又もやこの城は、長直の孫長矩の代に所謂殿中刃傷事件で城主が切腹して果て、
356年の浅野家も断絶の憂き目を見ることとなった。この後下野烏山から永井氏が33千石で入部したが1代で森氏に代わり、森氏が老朽化した建物を修理しつつ明治維新まで11代に亘ってこれを治めた。城は明治5(1872)廃城令により破却された。

(現状) 

JR赤穂線の播磨赤穂駅から南へ約1km歩くと赤穂城跡。この通りはお城通りと呼ばれる真直ぐな道。城跡への入口は三の丸大手門。濠を巡らした石垣の角にコンクリート製の復元隅櫓が立っている。橋を渡り復元大手門を抜けると左曲がりの枡形になっているが、本来これは右曲がりで櫓門が附設されていた。現在復元工事中、遠からず本来の姿を復元。これよりすぐ先の右手には大石邸長屋門が遺って家老屋敷に相応しい堂々たる構え。更に進むと大石神社があるが、ここは大石氏屋敷跡で、大鳥井をくぐった右手にその庭園が遺されている。大鳥居の付近の空き地は名だたる義士たちの住居があった跡地である。
本丸跡に向かう途中に山鹿素行の像と塩業博物館があるが、その辺りは二の丸大手口があった場所である。二の丸は公園化されてかっての面影はない。更に南へ進むと本丸に入るが、石垣を修復したりして復元整備が進みつつある。周囲には苔むした石垣が巡り、水濠も往時の風情を残している。本丸の石垣は複雑に折れ曲がって巧みに実戦的な工夫が施されており、このため小藩に似合わぬ名城と呼ばれた。本丸入口には櫓門が復元され、本丸御殿の縄張りが判るように明示されている。天守閣は建てられなかったが、巨石を積んだ天守台も高さ約10mの堂々たるものである。