あさきゆめみしゑひもせす 徳永圀典
仏教は不生不滅、生と死は別ではない、生死一如などと説く。又、この世を無常なもの泡沫の如きものと観る。事物は相互に関係しながら存在する、即ち他を縁として生起し、他と相関しながら変動していく。人間の苦悩は欲望から起きる。欲望は無明、事を明らかにできる智がない為に生じる。物には縁によって起こる原因即ち縁起があるから人間が安楽の境地(涅槃)に入るには無明に囚われている己を自覚し、欲望に執着せず、全てありのままの姿で受け取る平静な心で生きることだと言う。
つまり縁起の道理に基く中道の実践により輪廻の世界から解脱し涅槃の境地を得るのだが、生身の体は欲望があるからこそ生きておるという矛盾との葛藤だ。
涅槃とは執着を超越し、この世で実現すべき心の状態の謂いであり、現世でこそ実現しなくてはならぬ「心の浄土」であると、私の「生の哲学理」に於いて確信する。宗教は「生の哲学」でなくてはならぬ。
すべての物に実体、自性がないことを空。般若は空なる真理をつかむ智慧を意味し、空と同義語。悟りの智慧であり、般若空とはとらわれないこと、側面的には色即是空、空即是色。
形あるものも認識がなければ空。般若の空に徹すれば生のはかなさを知り同時に生の貴さを知る。はかなさゆえに貴い生である。空に徹するとは石に噛りついても生を立派に実現する事であろうか。人間の生死は無相、空である。死を怖れず、死を求めずは味わうべき真言。
空は否定と肯定、無と有の二つを弁証法的に統合している。在るがままにあるのが空であり、仏の相であろう。
空海は即身成仏義において生命は宇宙的生命だとし大宇宙そのものを仏とみた。一切を包容する宇宙を仏・大日如来とした、太陽を象徴した仏である。我々の生命は宇宙そのものでありすべて同じ生命を生きているものとした。宇宙原理と人格原理の一致、仏凡一如である。大自然の中に仏を見る生命哲学であり生命を讃美する。大日如来は太陽の如くすべてを生み出す仏で虚無的な性格はなく肯定である。大日如来は三ッの姿で秘密の姿を示す。身・口・意である。身蜜-身体、口蜜-言葉、意蜜-心、で大生命の姿とする。
自然崇拝は日本固有信仰と一致する。鎌倉の祖師達はこの三蜜を各自一蜜に専念した。道元は身蜜を強調し只管打座。口蜜の強調は法然と日蓮のお題目、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経。意蜜、法然は口に出す念仏に重きを置いたが弟子の親鸞は信心だけで良いとし心を強調した。
空海は知を強調、五ッの知を配して体系化、物質原理と精神原理の一元化を果たした。科学の知恵はこの一ッに過ぎまい。知恵と生の一致が密教の理想、生を上においている。密教は秘密仏教、なぜ秘密か、おのれを隠し姿を現さぬのが生そのもの、生は解明されない何かを宿している。人間がそのまま仏となる密教、仏の形は人間の形、大宇宙の生命は人間の形となって現れる、空海の法は生きている!
私の究極の理
二回に亘り、縷々「私の仏教理」なるものを開陳したが、私の悟得した「究極の理」は何か。
釈迦の言葉と現在の仏教は大違いに思える。祖師達は釈迦を自分なりに解釈して宗派を作った。不思議なのは釈迦像でなく始祖像が仏壇の真中に鎮座しその見解が中心になり過ぎていることだ。極端な例があの世のことや葬式のこと、釈迦はこれらに就いて何も云われていない。私は仏教を学ぶ原点は釈迦に帰るべきだと言いたい。
釈迦は伝道の旅路で亡くなった。しみじみと遺言された。「アーナンダよ、汝自らを燈火とし、汝自らを依
り所とせよ。他を依り所とするな。真理を依り所とせ
よ。他を依り所とするな」と。「自燈明・法燈明」である。
「おのれこそ、おのれのよるべ、おのれを措きて誰によるべぞ、よく調えし己こそ、まこと得難きよるべをぞ得ん」と法句経にある通りだ。
「古木にあっては幹よりも枝が先に枯れることもある。生あるものは必ず死に、会うものは必ず別れなければならない。故に人は依頼心を捨て、自分が自分の頼りになるように自分を光とするがよい」。「自らを灯明とし自らを拠りどころとせよ」。
私はこれが究極の理だと思っている。自分を光とするとは、自分が光り輝くように自分の心や言動をよく調え、自分の心を豊かにすることだ。私にはこれで充分であった。
その己の調え方は人間の感覚や意識を生ずる「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの根元・六根を正しく調えることであろう。
洵に理に適っている。これが私の仏教理である。