安岡正篤先生 特別講話
その二
徳永記録より
「忙」
「忙」という字がよく意味を表している。
亡という字は音であるが、単なる音だけでなくて、同時に意味を含んでおる。
亡くなる、亡ぶということで、
人間は忙しいと、その忙しいことに自己を取られてしまい、即ち、自分を亡くしてしまって、どうしても、ぬかりが多くなる。
粗忽が多くなる間違いをしでかす。まことに適切な字の出来です。
(運命を開くより)
人間の事と言うものは何と云っても久しい時をかけその間に習熟、修練を積まないと本当のものにならないのであります。
大抵のものは
「始めあらざるなく終わりある少なし」と格言にも説いてありますように、なかなか続かないものであります。
物体の運動の法則でもそうでありますが、ある方向へ動き出して
暫くすると、それがつまり慣れっこ、慣性となって無意識的に始めに与えられた力の方向へそのまま動いてゆくというようになる。
そこで始めのうちは新鮮な気分でやり出しますけれども、暫くすると慣れっこになって段々新鮮な心掛け意図というようなことが麻痺してしまって、形の如く機械的になってしまう。
終始一貫始めの如き気合・感激・精神をもって続行することは難しい事であります。
生命を失わずに初心、素心というものを持ち続けてゆくという、
そういう意味で久しくすると言うことは、これは非常に尊いことであります。