1日 |
閑話休題 |
隣国の中華文明の影響を強く受けた国である。「高句麗」は朱蒙により紀元前37年建国、北鮮から東満州にまたがる大国となる。「百済」は西暦346年、「新羅」は356年、「任那」は369年に建国された。 |
676年に新羅が朝鮮半島を統一し、更に「高麗」「李氏朝鮮」と続くが、何れの王朝も中国を本家とし自らは分家の意識で中国に接してきた。 |
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2日 |
1392年に建国した「李氏朝鮮」は、儒教を国教にして、儒教の根幹ともいうべき「礼」を以て国内体制、国際体制を律した。 |
「礼」は形式と秩序を重んずるので、身分制や階級を厳に遵守し、為に服装、儀礼、血族の順序など病的なまでに厳格に守った、朝鮮は「小中華」である。 |
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3日 |
「中華」とは自らを文明国家とするもので、本家の中国に真似て、周辺地域に夷を戎―じゅうーを求めた。半島自大野郎の始まり、朝鮮戦争で毛沢東に侵略されても物の言えない国となる。 |
都合のいいことに、日本人の住む対馬があり、東方に日本がある。対馬は臣下であり、東の日本は「夷」出なくてはならなかった。だから日本を見下げて蔑視するしか捌け口の無い可哀想な半島人。根本は劣等感。 | ||||
4日 |
李氏朝鮮は秀吉の侵攻を「倭乱」と言った。乱とは王が臣下から謀反を起こされた時の呼称である。勝手に、中国を模倣し日本を周辺国の夷としていた。それを知らない日本人であった。 |
朝鮮人は武烈大王の統一新羅以来1200年間も中華文明体制で暮らしていたから、1868年の明治維新で開国し遥かに素早く近代化しても、日本を中国や朝鮮の臣下の倭夷で中国は主人であるとの認識を持ち続けた。 |
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5日 |
処が日本は、中国の中華思想は意識がないから、「中華ソバ」「中華鍋」などに使用し絶対的な価値を認めていない。漢民族や朝鮮民族の儒教体制・中華思想、柵封体制と島国日本は全く別の文明を築きあげており、適用不可能であった。 |
これらの事は、む中国・朝鮮半島に取り不孝な歴史の端緒となったと思われる。日本にとっても同様であった。 |
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6日 |
唐滅亡の原因 |
唐は領土が拡大し、辺境の服属地域の諸民族の経営、慰撫、警戒、討伐などの為に藩鎮という司令官が軍政、民生、財政の三権を掌握した。軍閥が跋扈し反唐の独立国化して行く。 |
唐は、自らのこれらの軍閥により滅亡して行く。もともと漢民族の土地でない広大な地域を支配したことが崩壊の遠因となった。現中国政府し異民族を押さえる為に同様なことをしている。 |
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7日 |
漢民族の首都は占領された |
どの民族が長安を占領したか、中国が野蛮国としたチベットである。当時は「吐蛮」と言われていた。 |
それは763年、国都、長安を初めて陥落させた。846年までのことであった。 | |||
8日 | 死者に鞭打つ国 |
中国、杭州にある岳飛廟は岳飛を祭る。墓前に岳飛殺害の犯人の石像がある。首は太い鎖で繋がれている。夷狄と屈辱的な和議を結んだ犯人を売国奴とした仕打ちである。 |
中国人の参拝客は、その犯人の石像の頭を叩き、唾をかけている。850年以上前の人間に対してである。理解できない日本人である。そればかりか、平王の墓は暴いて死体を出し300回の鞭打ちをしている。 |
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9日 |
矛盾する中国人 |
漢民族の祖先は黄帝である、黄帝廟の文言にし「黄帝は56民族、12億人民の祖先である」とある。 |
さすれば、岳飛を殺害した女真族(満族)も中国人であろう。矢張り、満州族は中国人ではないという証明になる。 |
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10日 |
日本人の死生観 |
敵であれ味方であれ、犯罪者であれ、裏切り行為者であれ、相手が死ねば、日本では、みなカミとなる、仏となる。 |
死んでまで、辱めをしたり、唾かけたり、打つことはない。 |
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11日 |
纏足の奇習 |
纏足―てんそくー、女性の足を人為的に小さくすること。1000年間にわたる奇習である。3-4歳の女児の足の親指を除く四指を足底に折り曲げて、小さい靴を履 |
かせ成長を阻害、7-8歳となると足の裏を強く曲げて脱臼させる。直立も歩行も不能、漢民族の男性は、こうして女性を家庭内に幽閉し成人女性のヨチヨチ歩きに官能美、女性美を賞玩したという。 |
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12日 |
元帝国 |
北狄のモンゴル人により空前の大帝国である。国号を「元」と改めた。 |
フビライは北京を首都とし国家会議を主催して帝王となる、1260年である。 |
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13日 |
中国の完全平定 |
フビライは、南宋の攻略にかかり、戦い11年の1279年、遂に南宋の艦隊を全滅させ、幼帝を海に沈めた。 |
南宋を滅亡させて中国国内を完全平定し、世界史上最大規模の帝国を確立した。 |
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14日 |
フビライの統治 |
元帝国の帝王、フビライは中国社会を殆ど手をつけず、旧来の統治機構をそのまま継承、最上級にモンゴル人、二番目に色目人、三番目に遼や金の支配下にあった河北の中国人を漢人―15l―とし、四番目に南宋の支配下にあった中国人を南人―82l |
―として差別する分割統治にした。つまり漢文化を認めなかった。又モンゴル国内に決して漢民族を入れさせなかった。万一のための避難地とし神聖地域として保全した。後年、明が出現するとさつさと故郷の地に帰った。 |
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15日 |
「明」帝国漢民族ナショナリズムの原点 |
元が中国を支配して50年経過し搾取されると漢民族の不満が高まり反モンゴルの農民蜂起が起きた。 |
元の最後の皇帝、順は奢侈な生活を続けていた。朱元璋―洪武帝―により「明」が成立したのは1368年である。 |
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16日 |
中華思想と万里の長城 |
洪武帝は、夷狄を卑しむ中華思想を確立するために徹底的な鎖国をした。 |
万里の長城を徹底的に修理し蟻の這い出る隙間もない厳重な警備をした。絶対に中国皇帝に服従し朝貢者以外は門戸を開かなかった。 |
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17日 |
奴隷制度 |
洪武帝が元を北に追いやった時、優遇された色目人やモンゴル人の約100万人、中枢いたものは虐殺された。 |
庶民のモンゴル人や色目人は同民族との婚姻が禁じられ漢民族としか出来なかった。法を破った者は80の鞭打ち刑を受けた末、奴隷にされた。 |
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18日 |
南中国では、四世紀半ばから南海の黒人奴隷が数多く輸入された。 |
中国では、立派な奴隷制度を保持していた。 |
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19日 | 華僑 |
今日、アジア諸国がことあるごとに、中国の肩を持ち日本を非難する背景には、殆どのアジア諸国に居住する華僑の存在がある。 |
東南アジア各国で、政治経済的実権を握っているのは人口比率の2割から4割を占める勢力の華僑である。 |
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20日 |
世界に於ける華僑の分布図 |
インドネシア620万、タイ420万、マレーシア416万、シンガポール180万、ビルマ170万、ベトナム139万、フィリピン100万。 |
カンボジャ35万、インド13.5万、オーストラリア12万、日本8万、ラオス3.6万、韓国3.1万。因みに米国100万、英国10万。 |
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21日 |
対外宣伝機関の華僑 |
中国が世界の環境汚染となる核の実験を強行しても南シナ海で軍事行動を起こしても、華僑は一言も中国に抗議していない。 |
華僑が中国にとり有形無形の宣伝機関、情報機関となっている。 |
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22日 |
漢民族と台湾 |
台湾に漢民族がやってくるのは17世紀中頃に鄭成功が清に対抗する拠点として渡海してからである。 |
漢民族は中央アジアの遊牧民同様、海や島を甚だしく恐れた。 |
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23日 |
「明」滅亡の原因 |
万暦帝のような独裁者の出現であるが、間接的には明の徹底した鎖国主義が秀吉の朝鮮出兵にある。 |
秀吉の出兵に際して、遼東地方の明軍すべてを投入したり、支援の為に大幅財政赤字となり女真族―即ち「清」成立をさせてしまった。 |
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24日 |
女真族 |
「清」のことである。漢民族ではない。太祖はヌルハチである。 |
異民族、女真族により中国支配が300年続くこととなる。 |
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25日 |
異民族に支配された中国 |
「清」帝国は、60万人の女真族で漢民族の百分の一の人口であった。 |
太宗ホンタイジに率いられて万里の長城を越え、華北に侵入してきた満州民族王国・「清」である。 |
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26日 | なぜ女真族が300年支配できたか |
1.「明」の極端な鎖国政策が漢民族の愛国精神を減殺し民族的紐帯を分裂させた。 |
2.明内部の抗争に飽き飽きした漢民族の官僚・軍隊が清に降った。 |
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27日 |
なぜ女真族が300年支配できたか2 |
3.漢民族は、清による中国全土の平定を強く希望し助けた。 |
4.満州民族の辮髪を進んで受け入れ清の政権に参加した。 |
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28日 | なぜ女真族が300年支配できたか3 |
5.女真族が各民族の弱点をよく見抜きつけいったからである。。 |
6.「チベット」にはラマ教の信仰を許し皇帝も尊敬する態度を示し寺院の建立も許した。 |
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29日 |
なぜ女真族が300年支配できたか4 |
7.手強い「モンゴル人」には、清の皇女と蒙古の王族と通婚させ婚姻関係を結び、できた王子、王女は清の宮廷で育て反抗できないようにした。 |
8.漢民族は官僚になることを好むので科挙の制度を利用した。官吏になれば金と権限と女が手を手中にできたからである。 |
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30日 | なぜ女真族が300年支配できたか5 |
9.新疆地域の「ジュンガル族」にはイスラム教を認め反抗心を抑えた。統治には漢民族を使わず、皇帝直属の満州族にさせた。 |
現在の共産主義国・中国の統治者が学ばなくてはならない歴史の教訓であるが、全く相反する政策で望んでおり、彼らは何れは破綻するであろう。 |