1日 | 中国・歴代皇后の悪逆ぶり |
古代では、殷の紂王の妃、姐己。周の幽王の后の褒似。漢の高祖の呂太后。 |
呂太后は高祖の愛妻を憎み高祖の死後、この戚夫人の手足を切り、眼を潰し、耳を燃し、声の出ない毒薬を飲ませ便所に投げ込んで「人豚」と嘲笑し見物した。 |
2日 |
唐の則天武后は、策をめぐらし、皇后になる為に自分の子供を自分の手で殺す。そして皇后を追い出す。 |
追い出した皇后と愛妾の手足を切断し酒壷の中に胴体を放り「その二人の婆の骨まで酒を滲み込ませ」と言い死ぬまで浸けた。 |
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3日 | 清帝国1. |
清は満州族、女真族である。人口約60万の女真族がなぜ100倍もの漢民族を支配ではたか。 |
第一は、「明」の極端な鎖国専制政治が漢民族の愛国心を減殺、民族的紐帯を分裂させたからである。彼等は続々と清に投降した。 |
4日 | 清帝国2. |
清の領地である満州に移動するのだが中国の正州に帰還したい、為に清による中国全土の平定を切望し道案内、統治政策の提言と積極的に支援した。 |
次に満州族の風習である辮髪を進んで受け入れた。こうして清は全中国を手中にした。 |
5日 | 清帝国3. | 女真族は中国の各民族の弱点をよく知っていた。チベット人には、ラマ教を認めるばかりか皇帝も崇拝する態度を示した。 | 手強いモンゴル人には、清の皇女と通婚させて縁戚関係とした。 |
6日 | 清帝国4 |
漢民族には科挙の制度を利用し彼等の官僚指向を刺激した。官吏になれば金と女と権限が手に入る。 |
新疆地区のジュンガル族にはイスラム教を認めイスラム寺院を建立させ反抗心を抑えた。現代中共は見習うべきだ。 |
7日 | 清帝国5 |
緑営という組織は清に帰順した漢人て組織し正規軍の一つとした。緑営または緑旗は、内往や外征に利用され19世紀前半には60万人。 |
万里の長城の通路に清時代の兵士の服装をしているのが緑営の姿である。 |
8日 | 清帝国6 |
清の皇帝は満州人、漢人の双方に君臨する必要があり、その結果、満州人としての民族意識が次第に失われて漢人化してしまった。 |
例えば纏足なども満人に流行して、漢民族と融合してしまった。 |
9日 | 満州領有権 |
中華民国が満州の領有権を主張した根拠は何であろうか。満州は広大で黒竜江沿いは肥沃であったことによる。 |
黄河の氾濫などでの華北一体の飢饉時には中国の流民が満州に雪崩れ込んだ。 |
10日 | 満州領有権2 |
1749年には漢人の流入を禁止したが、蒙古地方に流民を招致して開墾事業を始めてから漢民族は蒙古を経由して満州に流入を始めた。 |
1820年頃には満州封禁令は有名無実化した。 |
11日 | 満州領有権3. |
もともと漢民族は満州は夷狄であると認識していた。1858年、清が黒竜江以北の満州北部をロシアに割譲しても漢民族は誰一人反対しなかった。 |
1860年、再びロシアの圧力でウスリー江以東の沿海州を奪取されたが漢民族のナショナリズムも刺激されなかった。 |
12日 | 満州領有権4. |
1905年、日露の大軍が満州の原野で激突した時も、中国人は誰一人、自分の国を侵害されたなど抗議もしていなかった。 |
1911年11月辛亥革命で翌年2月清が滅亡すると、清の直轄地であり女真族の故郷たる満州も統治者を失った。満州の地は1912年以降は無主の地となった。 |
13日 | 満州領有権5. | 清帝国が崩壊すると外モンゴルは、さっさと独立したが彼等の独立理由は「自分達は清国皇帝の統治に服したが、それを倒した漢民族の統治に服する理由がない。従って異民族の中国が蒙 |
古民族を支配しようとするのは間違っている」というものであった。満州に居住する五族の中で中国人が最も多く対外的に中国領土と主張しやすかったからで他に根拠は無い。 |
14日 | 清の対外侵略 |
清の康熙帝が16才で親政を始めて三藩問題に着手。三藩とは、清建国の功績ある「民」の三人の元将軍が強力な兵力を保有し事実上の独立政府を開いていた。 |
三藩の乱は8年続いたが1681年平定され民の遺臣を擁立して台湾に立て籠もった鄭成功の一族も討伐され国内紛争の芽は摘み取られた。 |
15日 | 清の対外侵略2. |
ロシアの南下があるも反抗し諦めさせ1689年条約を結び満州とシベリアの国境も策定した。 |
1690年、満州に隣接する外蒙古のチャハル部の自治権を奪い直轄地とした。 |
16日 | 清の対外侵略3. |
1718年、清はチベット討伐を開始しラサに侵入し六世ダライラマを擁立し清に服従させた。 |
1759年には中央アジア一帯を清の領土とした。これらを新開の領土という意味で新疆と命名した。 |
17日 | 清の対外侵略4.. |
清は満州民族60万人で中国を征服し、領土は歴代王朝最大となり、朝鮮、安南、シャム、ビルマ、ネパール、などの属国を加えその勢力範囲は唐を超える東 |
アジア最大の国家となった。更にアフガン等も朝貢、ボルガ下流域のモンゴル系部族と巨大な領域を支配することとなる。 |
18日 | 清の対外侵略5. | 巨大な領土支配の為、中国正州、台湾と満州を直轄領とし、内蒙古、外蒙古、 | 青海、チベット新疆を「藩部」と呼び、朝鮮、安南、シャム、ビルマを「属国」とした。 |
19日 | 清の対外侵略6. |
清の女真族は漢民族からみれば明白に夷狄である。前の民が天子の義務を果たさないから清が天命を受けたという論理で忠誠を求めた。 |
辮髪令により辮髪と満州服の「胡服」を強制し、更に「禁書」で反満思想の一掃を命じた。書物538種、13862部に及んだ。 |
20日 | 満州族に対する攘夷 |
漢民族の満州族に対する攘夷感情は時に地下に潜り、時に表面化した悩ませた。 |
清はこの攘夷感情を、当時中国に渡来していた西洋人に転嫁する方法を見つけた。現在と同様手法。 |
21日 | 反感を西洋人に転嫁 |
民時代の1517年始めてポルトガル人が来航して以来、ヤソ会士がキリスト布教で滞在していたが1723年以降キリストを厳禁し追放しはマカオに滞在させた。 |
西洋の宣教師は中国の伝統文化を破壊し中国を崩壊させる危険な存在とした。 |
22日 | 列強に蹂躙される中華帝国 |
清は広東のみ貿易地とし13人の特許商人に限定した。自由貿易の英国には不満であった。 |
茶、陶器などの貿易で英国から銀の支払いが困難になる。英国はインド産の綿花とアヘンを中国に輸出する政策を考えた。 |
23日 |
アヘンは忽ち中国人に広がり逆に銀が中国から流出するようになった。 |
清と英国のアヘン戦争が始まった、1840年である。 |
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24日 | 南京条約 |
清は和を乞い、和平となったが、この事は天下とは中国そのものであり蛮族はそれに従うべしという中華思想の崩壊を意味した。 |
南京条約の開港は英国・フランスに不満であった。 |
25日 | 英仏両国の出兵 | 1857年両国は共同出兵して攻撃し1858年天津条約締結。 |
1860年更に両国は北京西北郊外に軍を進め、清の離宮である「円明園」を略奪、焼き払う。主役はフランス人、清き香港対岸の九龍半島も奪われた。 |
26日 | 火事場泥棒のロシア |
英国とフランスと清の間に立ち仲裁役のロシア帝国は、仲裁料として現在の極東沿海州を清からもぎ取った。 |
ロシアは日本と領土不可侵条約を破り日本に侵入した。こんな国を相手には紳士ではだめなのである。 |
27日 | 客家―はっか |
流民である。農村の無産者、失業者、戦後の解散兵などは時流に乗れず流民状態であった。 |
流民は中部や南部に移住せざるを得なかったが、現地の華南の農村地帯から差別を受けた。 |
28日 | 客家―はっか |
元来は華北の出身であり黄河以南の本地人とは発音・習慣・風習も違い衝突を繰り返すようになり、両者には嫌悪感・差別感が生れた。 |
孫文、ケ小平、リークワンユー、李登輝氏は客家の出身である。 |
29日 | 客家―はっか |
客家に共通しているのは、まず粘り強い、勉学意欲が旺盛なことである。 |
前日の四人に共通したのは、自国をアジア的体質である儒教体制から脱却させ現代的な脱亜入欧政策により経済を飛躍的に発展させたことである。 |
30日 | 中国人の残虐性 |
1851年、客家出身の洪仁坤は科挙の不合理性にあると考えた。夢により自分はキリスト弟であると確信し、中国社会を清国皇帝に替わり世直しすべき使命があるとして決起した。 |
名前を洪秀全と変えて「上帝会」を組織し「太平天国」の実現を目指して挙兵した。 |
31日 | 太平天国の乱 |
太平天国軍は@滅満興漢A土地均田B男女平等Cアヘン貿易反対を標榜し忽ち数百万を吸収し大集団となった。 |
瞬く間に華南一帯を制圧し、華北方面まで拡大して中国人口の半分近くを巻き込む勢力となった。 |