中国の歴史教科書 A―ここがおかしい

中国・韓国の歴史教科書は著しく客観性に欠けた反日教育で真実の歴史を教えていない。ウソを教育し愛国心のみ助長している。自国の都合のいいようなことばかり掲載しており、このまま推移すれば中・韓青少年が日本に牙を向けてくるのは当然である。中国共産党のこの卑劣な手法に断然抗議すると共に過去の日本政府・日本人の怠慢に警鐘を鳴らしたい。ここに、これを広く公開して認識を高めたい。平成1751日 徳永圀典

平成17年6月

テーマ             中国教科書のウソ               真実の歴史
 1日 盧溝橋事件1.

中国歴史教科書のウソ記述
193777日夜、日本侵略軍は北平西南の盧溝橋に進行し、長い間もくろんでいた全面的な侵華戦争を開始した。戦争の火蓋がきって落とされると、中国守備隊第29軍司令部は、盧溝橋死守の命令を発した。・・鉄道橋を守っていた小隊の中国兵は数百人の日本軍の進行に直面しても少しも恐れず、敵と激しい肉弾戦を展開した、橋のたもとではぼ全員が戦死した。・・双方は盧溝橋で争奪戦を繰り返した。ほどなくして、日本軍は大量の援軍を集合させ、北平、天津に向けて大規模な進攻を開始した。7月末、北平、天津は相次いで陥落した。(第四冊35)

左記の記述は中国の大嘘である。
 2日 盧溝橋事件2.

中国歴史教科書のウソについて。
ここで描かれているのはシナ事変の端緒となった盧溝橋事件で、日本軍の「理不尽な要求」を中国側が拒否し、日本軍が攻撃を仕掛けて戦闘になった。それで「長い間もくろんでいた」全面戦争に突入したというわけだ。然しこれらの記述は事実を大きく歪めてい。

左記の記述は中国の大嘘である。
 3日 盧溝橋事件3 歴史の真実は右記。

まず、盧溝橋事件は、77日夜、演習中の日本軍が不法射撃を受けたことに始まる。(その際、一名の兵士が一時行方不明になるが復帰)。また、日本の特務機関と現地の翼察当局・中国29軍との交渉において日本側が提案したのは、これ以上の衝突を防止するため、不法射撃の真相を共同で調査することであった。

 4日 盧溝橋事件4 歴史の真実は右記。

行方不明兵捜査のための宛平県城への立ち入りなど要求したというのは、実は当時から中国側が宣伝していたことである。これに対して、松井・北平特務機関長は「兵は城外の演習で行方不明になったのだ。それなのに武力をもって城内を捜索させろなど、そんな無茶な事は常識で考えたって云える事ではない」と怒ったと云われている。

 5日 盧溝橋事件5 歴史の真実は右記。

日本政府は現地解決・不拡大の方針をとり、711日には現地での停戦協定が結ばれている。一旦は決定していた三個師団動員の下令も見合わせている。動員計画はもう一度延期され、都合二回も動員を延期している。この間、中国側からの小さな発砲事件が起こっているが「双方は盧溝橋で争奪を繰り返した」などという戦闘は起こっていない。

 6日 盧溝橋事件6 歴史の真実は右記。

事態が変るのは717日に蒋介石が「最後の関頭」声明を出し、現地での停戦協定を否認し、対日開戦は避け難いと述べた以降の事である。

 7日  盧溝橋事件7 歴史の真実は右記。

これ以後、29軍司令の宋哲元が態度を硬化させ北平撤退を中止。日本軍に対する広安門事件、郎坊事件、そして日本人が虐殺された通州事件が起こり、日本側は遂に平津地方のシナ軍掃討を決意、28日に総攻撃を開始したのである。なお、最初に盧溝橋において日本軍に発砲した犯人については確定してはいないが。中国共産党説が有力である。

 8日 ウソの上奏文を採用する中国

「偽書」田中上奏文を事実とする中国教科書1

田中上奏文とは
―昭和2年の東方会議後の田中義一首相の上奏内容とされるもので「シナを征服せんと欲せば、まず満蒙を征服せざるべからず。世界を征服せんと欲せば、まずシナを征服せざるべからず。・・これ明治大帝の偉業らして、また我日本帝国の存立上必要たり」という荒唐無稽な内容。宣伝のために作られた真っ赤なニセ文書だということが既に証明されていて日本で「田中上奏文」が本物だとする歴史学者はいない。

「長い間もくろんでいた全面侵華戦争」と書いているように、中国教科書は日本による一貫した侵略があつたという歴史観で描いている。なぜ、このような一方的史観が出てくるのか。その背景に、偽書として有名な「田中上奏文」を本物とする驚くべき事実が中国にある。

 9日 ウソの上奏文を採用する中国 「偽書」田中上奏文を事実とする中国教科書3
処が、中国の高校教科書(中国金現代史上冊)には、田中義一首相が1927年、天皇に「東方会議後、日本の首相田中義一は天皇に「明治大帝の遺策に基づいて、第一期の台湾征服、第二期ま朝鮮征服等は、みな既に実現した。ただ第三期の満蒙を滅ぼして中国領土を征服する便とすることは、まだ実現していない」と密奏した」と書かれている。
左記のような嘘の歴史を都合のいいように記述して国民を教育する国は韓国と同様に友好国できない。河野洋平が策謀しているが、彼は国賊に近い、日米同盟がしっかりしているかにびくともしない小泉総理である。立派ではないか小泉総理は。
10日 ウソの上奏文を採用する中国 歴史の真実は右記。

また、昭和に入り日本は「大陸政策」とは日本の「支配集団」が明治維新以後制定した「中国を滅ぼし、アジアにひとり覇を唱え、世界を征服しようというでたらめな侵略政策」と注記する、これこそデタラメな教科書となつている。つまり「田中上奏文」は実在し、そこに書かれている「侵略計画」なるものは事実としているのである。
11日 南京問題

「日本帝国主義への深い恨みと激しい怒りを生徒の胸に刻ませよう」
中国の教科書に見る南京大虐殺
1
日本の侵略者はいたるところで家を焼き、人を殺し、強姦し、略奪し、悪事の限りを尽くした。日本軍は南京を占領したあと、南京市民に対し血なまぐさい大虐殺を行い、覆いようのない大罪を犯した。

「日本憎悪」を目的とする「南京大虐殺」のデッチアゲの記述である。このような偏向した教科書で愛国を言うのは指導的大国の資格なし。
12日 南京問題 南京の平和を愛する住民は、ある者は射撃練習の的にされ、ある者は銃剣訓練の対象にされ、ある者は生き埋めにされた。戦後極東軍事裁判の統計によると、身に寸鉄を帯びない中国人民と武器を捨てた兵士で虐殺された者の数は30万人以上に達した。(第四冊42-43) 左記の記述は中国の大嘘である。
13日 南京事件の真実1. 中国の記述は史実ではない。真実は右記に記載。 中国の記述は、つまり南京陥落と前後する六週間で、市民と捕虜が「30万人以上虐殺」されたというわけである。然しその根拠の「東京裁判の統計」だというのは明白な事実の歪曲である。
14日

南京事件の真実2.

南京事件の真実は右記の通りである。

東京裁判で「30万人以上」の虐殺に触れたのは中国側報告書(南京地方院敵人罪行調査報告)のみで起訴状では「数万」、判決では一般判決が「20万以上」個人判決は「数千名」「数万」など一定せず、むしろ東京裁判は「30万説」を否定したとも云えるのである。
15日 南京事件の真実3.
南京事件の真実は右記の通りである。 むろん、あらゆる客観状況から言って、東京裁判の「20万人以上」という数字にも根拠がないことは今更繰り返すまでもない。例えば、南京陥落時の人口は約20であり、翌年1月にはそれが増加している事も客観資料から判明している。
16日 南京事件の真実4. 南京事件の真実は右記の通りである。
シナお得意の白髪三千丈の表現である。
30万虐殺とは明らかに矛盾する。また、当時の埋葬記録は、かなり水増しされていると言われるが、それでも女性や子供の遺体は全体の0.03パーセントに過ぎない。市民虐殺はあり得ないということである。
17日 南京事件の真実5. 更に、100人を越える日本人ジャーナリストも外国人も「大虐殺」につながるような目撃証言をしていない。であるが、「中国歴史」は本文に続いて次のよえに具体的な「虐殺」の描写までしている。(19371215日.既に武器を捨てた中国軍兵士と警察官3000人余りが日本軍により南京漢中門外に護送され、機関銃で一勢に掃射された。まだ息ある負傷者と死者はともに焼き払われた。) 中国の記述は日本文化として日本人のやらない殺人描写がある。
18日 これは東京裁判で証言した伍長徳という人物の話と考えられる。然し、伍証言では殺された人たちは南京司法院から白昼連行されたことになっているが、そもそも司法院には中国人はおらず、また漢中門外の死体も存在しなかった事が明らかになっている。しかも伍証言で「2千」となっていた犠牲者数が、「中国歴史」では「3千人余り」に水増しされている。 中国の記述は日本文化として日本人のやらない殺人描写や誇大である。フィクションに過ぎない中国の記述。
19日 この記述の他にも「中国人難民5000人余り」とか、「老若男女57000人余り」という虐殺記述があり、「百人斬り」を報じた「東京日々新聞」の記事も載せている。が、これらの記事もフィクションに過ぎないことは日本の専門家によった明らかにされている。 中国の記述は白髪三千丈式の誇大である。フィクションに過ぎない中国の記述。
20日 これでは日中友好は出来ない 処で、古森義久氏によれば、「中国歴史」の教師用指導書には次のように書かれているという。「南京大虐殺」については血に満ちた事実により日本帝国主義の中国侵略戦争での残虐性と野蛮性を暴露せよ。 教師は授業の中で特に小文字の記述での日本軍の残虐行為の部分を生徒に真剣に読ませて、日本帝国主義への深い恨みと激しい怒りを生徒の胸に刻ませよう。南京大虐殺の時間的経過と日本軍に殺された中国軍民の人数を生徒に覚えさせよ」(日中再考)
21日 これでは日中友好は出来ない

つまり「南京大虐殺」を教える狙いは、日本に対する「深い怨みと激しい怒り」を子供たちの心に叩き込むことにある。事実はその目的の為に書き換えられ捻じ曲げられているのである。

戦後60年である。中国とはこんな国である、戦後の対中外交は大失敗である。
22日

中国の教科書に日本が登場するのは「残虐事件」だけ1.

済南事件中国の教科書の記述
・日本帝国主義は国民政府の北伐を阻止するため、公然と出兵して済南を占領し、中国の兵士や民間人6000人余りを殺し「済南虐殺事件」を引き起こした。国民政府の北伐部隊が済南に侵攻して占領した時、日本帝国主義は在留日本人の保護を口実に山東に出兵し、済南に侵入した。

これはシナの大嘘で事実は全く逆で虐殺されたのは日本人である。
23日

済南事件1.

中国教科書の記述
日本軍は・占領区域内でほしいままに発砲し、・・中国の兵士や民間人数千人を死傷させ、また理不尽にも国民政府山東交渉員蔡公時らを強制連行した。蔡公時は日本軍に対し抗議した。日本軍はまず彼の耳と鼻を切り取って目をえぐり、それから彼を殺害した。
(第四冊3ページ)

これはシナの大嘘で事実は全く逆で虐殺されたのは日本人である。
24日 済南事件2. 済南事件の真実は右記。

済南事件の真実1
昭和
3年、1928年、日本軍が北伐軍から邦人を保護するために出兵した際、(第二次山東出兵)、日本軍と蒋介石の北伐軍が衝突する済南事件が発生した。中国の教科書の記述とは全くの逆であり、虐殺されたのは日本人である。

25日 済南事件3. 済南事件の真実は右記。日本文化にない中国式殺人方法で描写している。

済南事件の真実2.
敵の残兵掃討のため日本軍が交渉公署の建物を探索中、不意に発砲してきたのでこれに応酬し、建物の中で殺害された中に交渉員の蔡がいたため国民党の宣伝材料にされたのである。そもそも常識が言っても日本軍が敵とはいえ、相手の交渉責任者の「耳と鼻を切り取って目をえぐり」と言った残忍な手口で殺害するなどあり得ない。

26日 済南事件4 済南事件の真実は右記。 逆に蒋介石軍により、このような手口虐殺されたのは日本人居留民であり、「シナ兵が日本人居留民男女に加えた蛮行は、その残虐云うに忍びざる程度のものあり」(外務省が国際連盟に提出した覚書)なのである。
27日 済南事件5 済南事件の真実は右記。これでも、中国よ、日本の行為というのか。 この事件に関して、英紙デイリー・テレグラフは「中国人は略奪と殺人を人与の権利であるかの如く暴行を繰り返している」「日本人の忍耐にも限度がある」と報道した。
28日 済南事件6 済南事件の真実は右記。これでも、中国よ、日本の行為というのか。 また当時のアメリカ公使、ジョン・マクマリーは「この事件で最も現場近くにいた外国代表団の人々は、米国の極めて有能な済南領事も含め、日本軍が自国居留民の生命・財産保護のために、その任務を達成するべく誠意をもって行動したものと信じていた」と証言している。
29日

三光事件1

中国の教科書のウソ記述
日本帝国主義は中国を太平洋戦争の後方基地に変えようと、抗日根拠地に対して「大掃蕩」を繰り返し、焼き尽くし、殺しつくし、奪い尽くすという野蛮な「三光政策」を実行して、抗日根拠地を徹底的に消滅させようとした。
(第四冊58-59)

中国の教科書のウソ記述
「三光政策」「三光作戦」という言葉の「三光」とは中国語であり、日本には「三光政策」という政策も「三光作戦」という作戦もソモソモ存在しない。中国語の「三光」という言葉を日本軍が政策名・作戦名に使うわけがない。
30日 三光事件2 中国の教科書のウソ記述の否定、右記

三光事件の大ウソ2.
実は、中国共産党は日本軍だけではなく、蒋介石の国民党軍に対しても「三光政策」と非難している例があり、また戦後の文革期にも相手を非難する用語として使用している例もある。つまり「三光政策」なる言葉は、中国共産党が敵を非難するために用いる「常套句」に他ならない。日本軍の作戦とは全く事実無縁であり大ウソである。