中国、あれやこれや2.――本当の中国―

平成17年2月

 1日 宦官(かんがん)
の制度

古代の中国で発生した「宦官の制度」。22代国王の武丁は44人の妻がいた。後宮の后妃と性的関係を持ち得ない中性の奴隷が必要となった。

それには男性性器を切除した宦官が最適であった。羌族の捕虜はこうして性器を切除され、男性機能を喪失させられてから殷王室の家内奴僕として使役された。

 2日 宮刑 殷帝国は犯罪者に対する刑罰として男性性器の切除が行われたがこれを宮刑という。 日本では、平安時代に牛馬の去勢技術や、人間の男性性器を切断して宦官とする方法などが伝わったが、採用されなかった。これが遊牧・狩猟民族・騎馬民族の国と日本の決定的な相違である。
 3日 王朝交代時の人口

中国の王朝が交代する時に人口が大激減している。一目瞭然とした事実がある。

1852年シナ人口の歴史的考察―ロシア人ザハーロフの著作、数千万人の人口の大激減である。大義思想による大量殺戮がその背景にある。毛沢東の文化大革命を想起する。
 4日 城郭の
日中比較

中国の城は、人民を城郭の中に住まわせている。蟻一匹逃げられない。旧王朝軍に協力すると見られると殺された。

日本では住民は全て城郭の外に住んでいる。

 5日 中国人の体質和辻哲郎
「風土」から

「中国人はモンスーン的性格と砂漠的性格の結合した民族である。即ちモンスーン的体質である忍従性の奥に、戦闘的なるものを潜めている。砂漠の生活においては実際的な事物に関しての観察・判断が鋭く、また利害打算的であり、意思も強固

で野獣的な残酷さをもって突進する。こういう中からユダヤ教、キリスト教、イスラム教が誕生した。これに対してモンスーン型の代表はインド人で、受容的・忍従的体質である。
因みに日本人は、台風的性格で忍従の結果、最後は突発的台風となるが、一定期間を過ぎると、桜の花が散る如くきれいさっぱり諦める剣禅一致の精神である」

 6日 前王朝の遺品抹殺

前王朝を倒した新王朝の皇帝は、前王朝に所属する人間を徹底的に殺戮するのみならず、建物・備品・美術品そして墳墓に至るまで全て破壊の対象とした。

寺院や歴史的剣塑像物も破壊され、万里の長城や石の建造物が辛うじて破壊を免れた。
日本では、
1300年前に始る雅楽、田植え歌、大漁節、馬子唄、木遣歌など、各地に残っているのと大違いである。

 7日 日本の政権交代

明治維新になり京都から天皇が国家元首として担ぎだされたが旧幕府の徳川宗家を継いだ16代・家達は、処刑されるどころか新政府に取り立てられ静岡県知事・公爵・貴族院議員から議長を勤め首相に内命さえ受けている。

日本では例え王朝交代があっても、基本的には殺戮とか破壊という行為から程遠い民族である。

まして、死者は全て神になり死者に鞭打たない民族である。靖国は民族の感性そのものであり外国から兎角いわれてはならない。

 8日 春秋戦国時代

殷帝国の後の「周」は八百年続く。紀元前770年、西の異民族・犬戎―けんじゅうーの圧迫を受け、都を洛邑−らくゆうーに移動した。ここから「東周」と言う。

その中でも、紀元前403年までを「春秋時代」、それ以降を「戦国時代」と呼ぶ。

 9日 大乱世

この時代の「周」の権威は名ばかりで、事実上、諸侯入り乱れた大乱世で、孔子を初め諸子百家が様々な戦争術、処世術を唱え諸侯に取り入るべく盛んに売り込み合戦をしていた。

大乱世のこの時代を春秋戦国時代と言う。ただその「東周」の都・洛邑は中国文化発祥の地であり、産物も豊富な河南省、黄河流域である。

10日 中原
ちゅうげん

高度の中国文化が流布しており、別名「中原」と言われる地で、多くの諸侯が中原の周囲に国を築いた。

周の他に、鄭、宋、衛、魯、曹、陳、蔡などの諸国である。
11日 春秋時代

紀元前770年から前403年まで春秋時代は続く。史書に現れた有力異民族は10以上ある。

北から南に、山戎、北狄、赤狄、白狄、西狄、犬戎、猾充、荊蕃、莢夷、淮夷などと蔑称をつけていたる。
彼らは文字がないから鳥獣昆虫の名前で呼んでいた。

12日 朝鮮半島

周の武王が殷の紂王を滅ぼした時、叔父である箕子―きしーを朝鮮に派遣し朝鮮王としたという。

これが「箕子朝鮮」で紀元前1027年とされるがこれは伝説上の国家である。
13日 戦国時代

紀元前403年から前221年までの約二百年を言う。

中国国内は、旧来の「秦」「楚」「燕」と新興の「田斉」「韓」「魏」「趙」の七ケ国が並立し、諸侯は下克上の時代で弱肉強食で富国強兵策に乗り出した。
14日 人肉習慣の由来

これは中国の城郭と関係がある。反乱や戦争になると人民は一斉に城壁内に逃げ込む。一致協力して外的に当たるのだが、外的は蟻一匹通さない包囲をしている。

数ヶ月の篭城となると食料不足、殷や周の時代から人肉食の習慣が始っている。
15日 人肉の料理法

塩漬けにしたり干し肉、或いはスープ、肉饅頭などであったらしい。

春秋左氏伝によると紀元前594年、楚軍に囲まれた宋の都では、子供を他人の子供と交換して食べ、骨を裂いて料理した、という記述があるという
16日 人肉後談

史記によると、漢の高祖、劉邦―前247年―前195年、がライバルの項羽―前232年―前202年、に自分の父を捕えられ、もし降伏しなければ父親を大釜で煮て食べると脅された。

劉邦は、それなら自分にもその肉汁を分けてくれと言い、項羽の脅しを撥ね付けたとある。

17日 中国の食べ物

中国では、古来、日本人が食べない動物、爬虫類、昆虫などを日常の献立に乗せる国である。

中華料理には、あらゆるものが材料としてあるのはご案内の通りである。
18日 侵略の中華帝国の始まり

秦帝国は中国史上最初にして最大の大侵略国家である。秦は紀元前221年に「斉」を滅ぼし春秋以来の乱世を統一し王の称号を捨て皇帝と称した。帝とは古くは神を意味する言葉、自ら「始皇帝」とした。

封建制を廃止、官僚制を採用、郡県制を敷き中央から役人を任命派遣した。国ごとに違った文字の字体、車輪の幅、度量衡などの諸制度を統一した。国こどの城壁を破壊、兵器を没収、全国の富豪12万戸を秦の都に移し宮殿や土木工事を起こした。

19日 焚書坑儒

始皇帝のしたことで有名、漢字の数を3300字に決めて、それまでの勝手に作られた各種書籍を一挙に破棄したことを言う。

始皇帝は13歳で即位すると自分の為の地下宮殿造営の為全国から毎年70万人徴用し、財宝を蓄積、工事が終わると工匠達は秘密保持上陵墓に閉じ込めて殺された。

20日 異民族対策

秦にとり脅威は北の「匈奴」である。万里の長城は匈奴対策である。

南は、「越」がいたが制圧し服属させた。
21日 徐福と始皇帝

徐福「不老長寿の薬がはるか東方海上の蓬莱国にあることは間違いない。蓬莱国は神々の住む国であるから、そこを訪れるには世俗のケガレについていない童男、童女を神に捧げる必要がある。

もし自分に5000人の童男、童女と船を与えてくれるならば、必ずその薬草を持ち帰るでしょう。蓬莱は日本である。神々の国といい、ケガレというのは日本国の神道の本質を理解していた証左である。こり頃から既に日本の神について正確な認識があったのである。
22日 秦の滅亡

他国の恨みや反感を買うことの多い秦の皇帝政治であった。

始皇帝没するの報で、項羽や劉邦により前206年、秦は滅亡した。
23日 項羽の失敗1

項羽は秦の旧領を戦国時代の旧六カ国の後裔の功労者に分配したがその方法で失敗した。

討秦に功績の高い劉邦に対して彼が平民である事を理由に奥地に追いやり不平を持つ人々を結集させてしまった。
24日 項羽の失敗2

項羽は30万人動員して始皇帝陵墓を簒奪して財宝を奪う。始皇帝の宮殿を焼き払う。

この為に数ヶ月で反乱が起きる。そして劉邦に破れたのである。始皇帝死後八年後であった。
25日

遊牧民的体質と虐殺の史実

遊牧民的体質の民族は異民族に対する処置が凄惨を極める。モンゴル帝国ジンギスカンによる中央アジア諸民族の大虐殺。ロシア帝国による異民族虐殺。ハプスブルク帝国によるマジャール人・スラブ民族の大虐殺。フランス王妃カトリーヌの大虐殺。英国人クロムウェルによるアイルランド人大虐殺。スペイン帝国によるインカ帝国の抹殺。アメリカ人による北米インディアン大虐殺。

近世では、スターリンの大粛清による700万から2000万人の大虐殺、カティンの森でソ連がポーランド将兵数万人虐殺。ヒトラーによる600万人のユダヤ人虐殺。イデオロギーと無関係に殺戮している。

更に近くは中国の文化大革命で数千万人、天安門事件で一説では数百万人が虐殺と言われている。ポルポトは200万人を殺害、アフリカのフツ族とツチ族対立による100万人の虐殺。欧州では、バルカン半島の旧ユーゴ諸国で虐殺が絶えず発生している。
南京虐殺は中国の完全捏造である。

26日

漢の高祖・劉邦の妻・呂妃の残虐行為

劉邦の妻の呂妃は、功臣中の功臣、韓信と澎越を奸計で有無を言わさず惨殺した。

劉邦の死後、彼の寵愛を受けた戚夫人を葬儀が終わると後宮の牢獄に監禁し手と足を切断、目をえぐり耳を焼き切り、毒薬でノドを潰した。まだ生きていたので便所に落とし人間の便を食べる豚と共に死ぬまで生き長らえさせ「人豚」と呼ばせた。

27日

朝鮮はなぜ中国に1300年も支配されたか1.

衛氏朝鮮、周の時代から箕氏が王として支配していた。前漢の頃、燕の人「衛満」が朝鮮に亡命、朝鮮王の箕準は彼を厚遇したが衛満は謀略で箕準を殺害し国王となった。これが衛氏朝鮮である。

前漢は衛満を遼東太守として夷狄を治めさせた。孫の右渠が前漢に対して不遜となり武帝は衛氏朝鮮を滅ぼした。
28日 朝鮮はなぜ中国に1300年も支配されたか2.

朝鮮は紀元前1027年、箕子により支配されて以来、後漢の終わる紀元後313年まで、約1300年漢民族の支配を受け続けた。

更に統一新羅から李氏朝鮮までの1200年間は中国の冊封体制の中でゆるい支配を受けてきた。